3、幼なじみのクリストフ
クリスの裾を引いたまま、エマはしばらく歩き続けた。ルイから遠ざからなければと思ったが、行く当てもなかった。
時刻は夕暮れ。空の端に紺色を見つけて、暗くなるまでに戻ろう思いながら、ひとまずそこで足を止めた。
「ここまで来れば大丈夫よね」
森の入り口で、自分たちの姿が木々に隠れて神殿からは見えていないことを確認すると、エマはクリスに向き直った。幼なじみの少年は、不貞腐れた顔でエマを見つめ返していた。
「エマ、なんでこんなことになってるんだよ」
「なんでって……私に拒否権なんてなかったもの。夏の終わりに教会の人たちが来て、お父さんたちと話し合って、それで決まっちゃったことだから」
「決まっちゃったって……それでいいのかよ? 自分の結婚のことだろ?」
エマは、クリスが自分に対しても腹を立てていたことに驚いた。クリスは年頃になっていつもどこか不機嫌そうなところのある少年に成長してしまったが、エマには随分と甘いのだ。だから、喧嘩をしたわけでもないのにそうして怒っているのが、何だかわけがわからなかった。
「クリスこそ、どうして候補者のひとりになってるの? うちのお父さんに声をかけられたとか?」
「俺は……子供のとき、何があってもお前を守るって約束したから。それに、声をかけられて候補者になった奴なんて一人もいない。みんな立候補だ。それをお前の父さんとあのいけ好かない教会の野郎が選抜したんだ」
「え?」
「花祭の告知とともにエマの結婚相手を募集するチラシが撒かれたんだ」
「……そうだったの」
てっきりダニエルとルイが目ぼしい若者に声をかけてまわったと思っていただけに、全員が立候補だということは驚きだった。
エマの結婚相手に立候補するというのは、一体どういうことなのだろうか。
「勘違いするなよ。みんな、お前に惚れてるってわけじゃない」
「わかってる。それは、さっきの顔合わせのとき嫌ってほど思い知ったし、誰かに好かれてるだなんて自惚れてないよ」
「……そうじゃなくて、この状況がおかしいってことを理解しろよ」
幼なじみの少女が傷ついた顔をしたのを、クリスは苦々しく見ていた。傷つけたかったわけではないということと、エマがまだ何もわかっていないということに苛立ちを覚えたのだ。
あえて明かそうとは思わなかったが、チラシを見て集まった者の中にはエマの顔見知りもそれなりにいた。その中の何人かは、もしかしたら本当にエマのことを憎からず思っていたかもしれない。
だが、最終的に選抜された男たちは、好いた惚れたというのとは別の理由でやってきているとクリスは感じていた。
「誰が何のためにこんなことしてんのかはわかんねぇけど、エマはたぶん何かに巻き込まれそうになってんだよ。利用されてるってのはわかるだろ?」
「それは、今年は不作だったから私の結婚で豊穣祈願でもしたかったんじゃないの?」
「……俺は、もっと怖いことだと思う。人間を信用しすぎるなっていうのが、俺が学ぶクラウス学派の考えだから」
クラウス学派とは、かつて女神の子について魔法を学び、それを魔術として確立したクラウスという人物の意志を継いだ集団だ。魔術で人々の生活を豊かにしようというのは他の魔術学派と同じようなものだが、彼らが他と違うのは女神第一の女神信仰者たちの集まりということだ。
クリスは幼なじみのエマを守るため、普通の学校で基礎教育を学んでいたときからクラウス学派で魔術に馴染んでいる。だから、シェーンベルク家およびワルデルゴーの教会を軽んじるような王都の教会の今回の行いに対して、どこの誰より怒りを覚えていた。
「何が起こってるのか、誰の思惑なのか、俺たちだけで考えてもなかなか難しいものがある。だから、アウロスを頼ろうと思うんだ」
「兄さんに? でも、森に篭って誰にも会わない兄さんに何かわかることがあるかな?」
「あの人は別に人と会わないだけで、何も情報まで遮断してるわけじゃない。きっと俺たちにはない情報源や知識があるはずだから、手紙で助けを求めてみよう。お前も書け。俺だけの手紙じゃ、もしかしたら読んでもらえねぇかもしれねぇから」
アウロスは、そもそもあまり社交的ではない人間だ。幼い頃からの付き合いのクリスでさえ、気が向いたら相手にする感じなのだ。だから、手紙を送りつけても気が向くまで読んでもらえないし返事も来ない可能性がある。だが、可愛い妹のエマからの手紙は別だろう。
六歳下のエマのことをアウロスはひどく可愛がっている。他人とは話したがらないが、エマのことは一日中構い倒していられるくらいの妹好きだ。
それに、彼は自分が森へ篭ったあとは、いつの日か妹がシェーンベルク家の役割を引き継がなければならないことを負い目に感じていた。だから、エマからの手紙なら決して無下にはしないだろう。
エマが普通に書いて出したのではルイの妨害にあう可能性があるため、手紙はこっそり書いて次にクリスに会うときに預けることにした。私信まであらためるとは考えたくなかったが、何もわからないうちはルイのことを信用するなときつく言われ、結局エマは頷いたのだった。
「じゃあ、また近いうちにね。おやすみなさい」
「おやすみ」
神殿まで送ってもらったエマは、遠ざかっていくクリスの背中をずっと眺めていた。振り返らないだろうと思っていたのに、かなり進んだところで、ほんの一瞬だけクリスは振り返った。立ち止まったクリスは、少し悩んでから小さく手をあげて、そしてまた前を向いて歩き出した。おそらく、ルイの元へと帰らなければならないエマのことを心配したのだろう。
普段はしないそんな仕草に、エマはクリスが自分のことを守ろうとしてくれている意図をしっかりと感じた。きっと、クリスはアウロスの代わりでも務めているつもりなのだ。
そのことを思うと、エマはじんわりと胸の奥が痛む気がした。
「あの彼とは随分と仲が良いのですね。今のところ、最有力候補といったところですか?」
神殿の中に用意された部屋へ戻ると、今しがたベッドメイキングを終えた様子のルイがエマにそう声をかけた。「おかえりなさい」なんて言葉を期待していたわけではないが、遅かったとか何をしていたのかという言葉より先にそんな台詞を吐かれたことに、エマは何だか苛立った。
「クリスとはただの幼なじみです」
「そう思っているのはエマ様だけでしょう? 何せ、エマ様の結婚相手として立候補してきたわけですから。ああして私に敵意を持つのも、エマ様への思いゆえですよ、きっと」
綺麗な顔に感じの良い笑みを浮かべているが、口調や言っていることは完全に面白がっている。この男にとってはエマが誰と結婚しても構わないのだ。誰を選んでも、そこに愛がなくても、関係がないと思っている。
そんな男に何を話しても無駄だとはわかっているが、モヤモヤした気持ちを伝える相手は他にいない。だから、エマは苦いものを噛むような今の気持ちを吐き出した。
「私は、クリスを選びません。彼のためにも、絶対に他の人と結婚するんです」
言いながら、エマはそっと自分の髪を撫でていた。背中の中ほどまである少し赤みがかった金髪を、丁寧に編み込んで左肩から胸に垂らしている。今日は顔合わせのためにイルゼの手によってかなり繊細に編まれているが、普段も左肩に流す髪型しかしない。
だから、何か考え事をしながらその毛先を弄るのは、もはやくせになってしまっていた。
「なぜですか? 気心の知れた幼なじみとなら、幸せな結婚生活を送れるでしょうに。喧嘩も仲直りも、慣れたものでしょう?」
「だからですよ。クリスは大切な友人だから、私はきちんと伴侶となる人を選んで、彼を解放してあげたいんです」
幼い日の小さな事件と、それから続くひとつの約束。
それにクリスが未だにしっかりと縛られていることをエマは感じていた。その事件の前から何かと世話を焼きたがる幼なじみだったが、事件のあとははっきりと意識してエマのそばにいるようになった。アウロスが禁域に篭ってからは、自分しかエマを守るものがいないと思ったのか、より一層強い意志で隣にいるのがわかる。
今回のことだって、チラシを見て一番に駆けつけてくれたのはきっとクリスだ。
これまで、いつだって味方でいてくれた彼だ。エマが望めば、これからだってずっとそうであってくれるだろう。
そのことが、エマにとってはすごく申し訳なかった。
クリスが気にしているほどには、エマは幼いときの事件のことを気にしてはいない。何度もそれを伝えようとしたが、それは自分のことを思いやってのことだろうと、クリスは頑として考えを改めることはなかった。
それならば、クリスの代わりにエマを守ってくれる人を見つけなければ、クリスを解放してやることはできない――そんなふうに、エマはずっと思っていた。
「解放、ですか……」
おそらく、花祭開催にあたってエマや候補者たちの身辺調査はしただろう。だが、それでも知り得ないことが、仲の良い幼なじみたちの間にはあるのだ。エマが積極的に語ろうとしないのを察して、ルイはそれ以上追及しようとはしなかった。
「嫁の貰い手がなかったら結婚してくれるって、クリスは昔から言ってたんですけどね。でも、私はまだ誰かと恋をすることを諦めたわけじゃないので」
「……まぁ、好き合って結婚するのが一番ですからね」
心底どうでもいいという顔をして、ルイはそう一言返すと部屋を出て行った。有力な候補者を揃えたから誰を選んでもいいと言った言葉の通り、ルイにとってはエマが恋愛感情でも打算でも、誰か一人を選んでくれさえすればいいのだろう。
こういう反応が返ってくることは半ば予想していたが、これはエマの本音だった。
候補者たちの中に、本当に好きになれる人がいるかもしれない――年頃の娘らしく、そんなことも考えるのだ。
アウロスのことがあって恋や愛などというものに迷いはあっても、仲の良い両親を見て育ったエマには年相応の憧れも当然あった。
誰かのことをすごく好きになって、相手にも同じ思いを返してもらえる、そんな関係に憧れている。
寝る支度を整えながら、今日会った候補者たちの顔をエマは思い出していた。見た目は、それぞれ魅力的だった。でも……と思うのは、やはり一様に皆、エマに対して何らかの思惑がありそうだということだが。
誰が何を為しにきたのか、それはきちんと確かめなければならない。その上で、誰かと思い合えたら……そんなことを考えながら、体に馴染まないベッドでエマは眠りについた。