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20、西の森のカンパネラ

 ひとつ呼吸をするたびに吐く息が白くなる、寒い冬の朝。

 エマはルイと連れ立って森を歩いていた。当たり前のように差し出された手を握ったエマだったが、手をつなぐという恋人同士らしい行為に、恥ずかしさから自然と歩幅が大きくなってしまう。

 だが、霜のおりた道で早足のエマが転ばぬようにと、ルイは定期的に先を行き過ぎるエマの手を引き寄せる。そのたびエマは恥ずかしがって歩みを止めるから、なかなか目的地にはたどり着かなかった。

 王都への諸々の報告を終えたルイは、今日久々にワルデルゴーに戻ってきた。そして戻ってきて早々、西の聖堂へ行こうと言い出したのだ。

 西の聖堂とはつまり、祝福の鐘があるあの聖堂のことだ。ルイは渋るエマを説得して、シェーンベルク家で朝食を済ませるとすぐに連れ出したのだった。


(ルイは一体、どういうつもりなのかしら……)


 時折エマに微笑みかけるだけで何も言わない恋人のことを、エマは複雑な気持ちで見つめた。

 聖堂に向かうということは、鐘が鳴るかどうか確認するということだ。今日を逃れたところで、両親や教会の人の立会いのもとで後日訪れなければいけない。それでも、何の準備もできていない今日は行きたくないというのがエマの本音だった。

 もしもルイが私を愛していなかったらーーそんなことを恐れたエマはクリスに泣きついた。何とか、鐘が鳴るよう魔術でインチキをして欲しいと頼み込んだのだ。

 本来なら、魔術師として優秀なアウロスに頼むべきだった。だが、禁域から飛んで帰ってきた彼は可愛い妹が本当に結婚する気だと知ってショックを受け、ルイに対して面白く思っていないのは明白だった。そんな兄には頼めない。

 引き受けてくれたクリスも渋々といった様子で、そのせいでエマの不安が薄れることはなかった。


(鐘が鳴らないことを、ルイは何て言うのかしら)


 聖堂が近づいてくるにつれ、エマはどんどん気持ちが重くなっていった。

 誰かを好きだと思うのは幸せなのに、相手からも同じ分だけ思われているのか考え始めると途端に憂鬱になる。

 これなら片思いのほうがどれだけマシだろうなどと、ルイの整った横顔を見ながらエマは思った。



「着いたよ」


 聖堂までやってくると、ルイは迷いなく鐘楼へと足を進める。世話係ではなく恋人になったため、言葉遣いはくだけたものになっているが、有無を言わせぬ雰囲気を醸し出している。手を引かれ階段をのぼりながら不安げにルイの背中を見つめるが、エマは結局何も言えなかった。


「……ルイ」


 鐘の真下にやって来ると、いよいよ恐ろしくなってエマはルイの手から逃れようとした。だが、ジリジリと後ずさったところで手を離してもらえるわけもなく、涙目で見上げることしかできなかった。


「エマ、逃げないで」


 グッと引き寄せその腕に閉じ込めると、ルイはエマを間近で見つめた。丁寧な言葉遣いが抜けるだけでこうも男っぽく感じるのかと、早鐘を打つかのような心臓に苦しめられながらエマは思う。


「エマ、俺は確かな証が欲しいんだ」

「確かな証……?」


 うっとりするような声音で言われ、エマはそれだけでどこかへ飛んでいってしまいそうになった。ルイの声や喋り方は、エマに甘いアウロスのものとも、ヤンチャで無愛想なクリスのものとも違う。そして、恋人になってからはエマだけに聞かせる声があることを知ってしまった。


「王都に帰っている間、エマが俺を好きだっていうのがやっぱり夢なんじゃないかと思って心配だったんだ」

「そんな! 私だって、ルイが私のこと好きだなんて、未だに信じられなくて……」

「お互い、同じ気持ちなんだな。なら、なおさら確かめないと」


 怖がらなくていいとでも言うように、ルイはことさら優しげな顔をしてエマの髪を撫でた。


(これじゃ、まるでルイが私のことを好きみたい)


 うっすらと頬を染めているルイの顔を見上げて、エマは信じられないような気持ちになっていた。はっきりとルイの口から気持ちを伝えられたあとも、どこかでそれは自分が都合良く解釈しただけなのではないかとエマは疑っていた。


「クーノと、その生涯の伴侶となったエミリアがどうやって愛を確かめたか知ってる?」


 息がかかるほど近い距離で、菫色の目を細めながらルイはエマに問う。形の良い少しつったその目を縁取る繊細な睫毛も銀色なのだと、そのときエマは改めて気がついた。


「確かキス、したんだって……」

「絵本の中ではそう書かれてるね。本当のことは、どうかわからないけど」


 このあとの展開が読めてしまったエマは、嬉しいような怖いような、複雑な気分になって逃げ出したくなった。だが、当然ルイが逃がすわけがない。ルイは閉じ込める腕にギュッと力を込め、身長差があるエマとの距離がもっと縮まるようにその体を軽く抱き上げた。


「エマ、試してみよう」


 そう言うと、ルイはゆっくりとエマに顔を近づけていく。ゆっくりと、瞳を覗き込みながらまるで確認するかのように、その美しい顔でエマに迫っていくのだ。


「……目を閉じなくていいの? 開いたままだと、俺もずっとエマのことを見るよ?」


 不思議そうに尋ねられ、エマは慌てて目をつむった。このままルイを見続けるのは命の危険すらあると本気で思っていたため、エマはルイが非常に悪い笑顔を浮かべているのにまるで気づけずにいた。


「エマ、好きだ」


 囁く声の振動を耳元で感じた直後、唇に柔らかなものが触れるのがわかった。最初は軽く触れ合うだけだったものが、徐々に深いものに変わり、エマは自分が内側から溶け出して形が変わってしまうのではないかと思った。


(……これが、キス)


 陶然としながら、エマがルイの背中におずおずと腕を回して抱きしめ返したそのときーー頭上の鐘が高らかに鳴り響いたのだった。



 唇を離すと、ルイはゆっくりと、エマは慌てて、鐘を見上げた。紐もついていないはずのその鐘は、間違いなく鳴っていた。

 荘厳な、それでいて胸の奥底に響いてくる穏やかな音は、エマたちにだけでなく町中に届いている。

 エマとルイは何も言葉を発することなく見つめあった。言葉が出ないのは、鐘の音に驚いたからだけではない。双方、お互いの愛情が本物だと確信できたことによる喜びのあまり、何も言うことができなかったのだ。もっとも、今ここで何かを語り合おうとしても、祝福の鐘の音にかき消されてしまっただろうが。

 しばらく呆然としたのち、二人は無言のまま再び抱き合うのだった。




「ルイ、私のことを本当に好きでいてくれたのね」


 鐘楼から離れ、鐘の音が静まったところで、改めて二人は見つめあった。ここにくるまでの不安はなく、湧き上がる喜びに跳ね回りたくなるのを堪えながらエマはルイの手を握る。


「不安だったんだな」

「うん。だって……私、ルイに好かれること何もしてないもの。候補者の人たちにはそりゃ、好かれるようそれなりの姿を見せていたけど、ルイには恥ずかしいところをたくさん知られてるから」


 朝が苦手なことや取り乱して魔力を暴走させたことなど、エマにとっては恥ずかしいことばかりだ。世間知らずで、隙だらけで、子供っぽい姿しか見せていないことを思い出して、エマは不思議になる。


「そういう、自然なエマの姿を見ることができる立場だったからこそ、きっと好きになったんだろうな」


 森の中で小鳥と戯れる姿が決め手だったことは、ルイは黙っておくことにする。これからもできれば、誰の前に立つでもないありのままのエマをたまには見つめたい。そのためには、おそらく言わずにおいたほうがいいだろうとルイは考えたのだ。


「ルイも、不安だった?」


 心底安堵した様子の恋人にエマは尋ねた。こんなにも美しい人が相手が自分に惚れているかどうか悩むことがあるだなんて、信じられない気持ちなのだ。


「エマの気持ちが信じられないというより、自分の心がな……俺は誰のことも愛せない欠陥品なんだって、ずっと思っていたから」


 自身の生い立ちを振り返り、溜息まじりにルイは言う。

 生まれ育った国では、生きていくために略奪を繰り返した。荒っぽいこともたくさんして、それがもとで人を死なせたこともあった。

 拾われてからは、暗部に属するため仕事は基本、命と命のやりとりだった。訳ありで預けられている高貴な血筋の者を狙って教会関連の施設にやってくる暗殺者なんかを片っ端から返り討ちにするうちに、次第に何も感じなくなっていっていた。

 喜びも悲しみも、それにつれて薄くなる。それでも、諜報や隠密などの仕事もこなすルイにとっては、その美しい顔に偽りの表情だけを浮かべられるようになって、都合がいいとしか感じていなかったのだ。

 だが、真実の愛を差し出さなければならない相手ができたとなれば話は別だ。

 王都に帰りエマと離れている間、ルイは果たして自分が本当に誰かを愛せるのかという不安に苦しめられていた。


「ルイが、私のことを本当に好きでいてくれるのがわかって、よかった。……あなたがどんな人生を歩んできたのだとしても、構わないわ。あなたの罪も苦しみも、これからは一緒に背負うから」

「エマ……ありがとう」


 ジッと見つめ合い、お互いの瞳に映った自分の姿を確かめると、もう一度二人は唇を重ねた。


 そうして若い恋人たちが真実の愛を確かめ合うことができたその年の春は、花祭によって非常に賑やかなものになったのだった。






 エマとルイが正式に結婚したのは、それから二年後のこと。

 それまで穏やかな傍観者であったはずのイルゼが、二人の結婚に待ったをかけたのだ。

 理由は、短くなってしまったエマの髪だった。

 せっかく人生に一度の花嫁姿なのに、ベールの下の髪がそんな有り様ではあまりにも不憫だとイルゼは強く言った。しかも短くなった原因があの火事だということが、どうにも縁起が悪い気がすると。その言葉を聞いて、せめてその髪がもとの長さに伸びるまで結婚式を待ってはどうかとダニエルも言い出したため、正式な婚姻は先延ばしにされたのだった。

 その間に、二人を取り巻く人々もそれぞれの道を歩み始めた。


 幼なじみのクリスは、本格的な魔術の勉強のためワルデルゴーから少し離れたところにある魔術学校に籍を置くようになった。今後、クラウス学派の一員として花の乙女であるエマを守るために、改めて学び直そうという気になったらしい。本来の入学年齢は過ぎているため特別研究生という微妙な立場ではあるし、地元が好きなため寮に入らず通いではあるが。

 貴族の三男である夢見がちなエルマーは、あれからモードの世界に興味が湧いたらしく、王都で人気の仕立て屋で見習いを始めた。「エマ様の結婚式のドレスは僕が仕立てます」という宣言の通り、二年の修行を経てエルマーは素晴らしいドレスをエマに贈ることができた。

 テオはワルデルゴーの町がすっかり気に入ったらしく、休暇を取ると妹を伴って西部地方へ遊びに来るようになった。エマとの交流で女性と接することへの苦手意識はかなり克服できたようだが、まだ新しい恋の気配はなく、年頃の妹に変な虫がつかないかということばかり気にしている。

 ユリアンはあれから、自身の失恋を題材にしたという恋の歌で人気を博し、大陸中を旅して回っている。だが、真実の愛を求めてと称して、民衆向けの宿や広場で歌を披露することが多くなったらしい。そんな彼もやはりワルデルゴーの地に魅せられてたびたび訪れるため、クリスやテオと一緒に酒を呑んでいる姿がよく目撃されている。

 キーンツ氏はあれからコリーナと結婚した。そこにあったのが愛か打算かはわからなかったが、元々目立ちたがり屋なコリーナは花の乙女の結婚相手の元候補者で政治家を目指す青年というキーンツ氏の肩書きに満足し、それからは彼をよく支える妻の役割に夢中になっているらしい。エルマーの言っていた通りそれは向いていたことらしく、コリーナの支えによってキーンツ氏は目指す道を着実に進むことができていた。

 エマの気がかりだった、神殿に火を放った少女は、かなり揉めたが結局はエマの願い通り修道院に入ることになった。動機といいそのやってのけたことといい、軽く見ることができないとルイはなかなか納得しなかったが、死で贖うのではなくきちんと生きて自分の罪について考えて欲しいというエマの思いを最後には受け入れることになった。生き直す機会を得た少女が今何を思っているかはわからないが、それはもうエマとは関係のないことだった。



 たくさんの人々に祝福され結婚式をあげたエマとルイは、その後も末長く幸せに暮らしていく。

 仲睦まじいエマとルイは、すぐに子宝に恵まれ、結婚から一年後に長男を、その二年後に次男を、そしてそれから五年後に長女を授かった。それぞれの子がエマとルイの特性を引継ぎ優秀で愛らしく、町の人々から可愛がられて育った。いつか自分たちも父母のように愛し合える相手をと子供達は望んでいるため、祝福の鐘の音が止む心配はない。

 三人の子供を育てるかたわら、エマは得意の歌と楽器で人々を癒し支え、のちには「歌の女神」と呼ばれるまでになった。

 王都の教会に属していたルイは神々ではなく花の女神に仕えたいと申し出て、ワルデルゴーの教会へと所属を移した。そしてそこでダニエルに教えを乞いながら、神の僕としての修行に励む日々を送っている。


王都の教会の狙い通り、エマは花の乙女として人々の人気を集めるようになった。その夫となったルイもとんでもない美貌の持ち主とあって話題になり、教会には寄進も多く集まるようになった。

その寄進は、キーンツ氏の協力を得ながら身寄りのない子供たちを育てるための施設に活用していった。「すべての子供たちに愛情と教育を」という理念を掲げ、エマとルイは実子たちとともに施設の子供たちのことも育て上げていく。禁域で魔術の研究に没頭していたアウロスも、弟子と一緒になって施設を支えるようになった。クリスも講師に迎え、養護施設だったそこは優秀な魔術師を輩出する学校としても機能していくこととなるが、それはまた別の物語である。


かつて、神と人との間に生まれたひとりの青年が、自分の子孫が真実の愛に迷わないようにと作り出した鐘。その鐘は、いつしか大陸の人々にも祝福の鐘と呼ばれ、大切にされるようになった。

女神の加護を届けるため、人々を愛で守るため、今もその鐘は鳴らされ続けている。




〈了〉

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