2、祝福の鐘
候補者たちとの顔合わせと軽い食事を済ませたエマは、動きにくいドレスは脱ぎ、いつもの軽やかな出で立ちになって歩いていた。
向かった先は、女神の子のかつての住まい。今ではシェーンベルク家が管理する神殿のような場所になっている。
「ここが、西の聖堂か……」
ルイが感じ入ったようにその建物を見つめた。
シェーンベルク家が年に数回掃除や手入れに入っているため綺麗ではあるが、やはり数百年も前の建物のため外観はかなり古めかしさがある。うっすらと苔むした石造りの外壁には蔦が這い、さながら緑に飲み込まれているかのように見えるのだ。
立派な鐘楼をそなえたこの建物が、しばらくエマの住処になる。
候補者たちと交流しやすいようにと、親元から離され、ルイに世話されながら暮らすのだ。エマが候補者の誰を選ぶのかということも祭を盛り上げるひとつの要素にしてしまおうという目論見もあるのだ。
「ここの鐘、紐も何もついていませんけど壊れてるんですか?」
鐘楼を見上げ、ルイが不思議そうに言う。
普通、鐘は外身の中央から吊り下がった舌を外身にぶつけることで音を出すものなのだが、ここの鐘は舌に続く紐がない。そのため、鳴らすことができない。
壊れているわけではなく、そういう仕様なのだ。
「愛の力を以ってしなければ、鳴らせないんです。――この鐘を鳴らすのが、シェーンベルク家の役目の最もたるものなんですよ」
「愛の力……」
エマの言葉を聞いて、ルイは何とも言えない顔をした。知らなかったわけではないだろうが、鳴らすための紐がない鐘を目の当たりにすると、やはり感じるものはあるらしい。
エマはただ結婚したい相手を選べばいいというわけではないということを、ルイは今理解しただろう。
「愛ですよ、愛。それも真実の愛。……手っ取り早く、子供を作れ、とかだったら幾らか楽なんですけどね」
自嘲気味なエマの言葉に、ルイは困った顔をした。
綺麗な人は、どんな顔をしても綺麗だ。
エマは彼を困らせたかったわけではないが、使者としてやって来たのなら、きちんと知っておいてもらいたいと思い、口を開く。
「この聖堂の鐘は祝福の鐘と呼ばれていて、これを鳴らすことで豊かな自然を保っていると言われているんです。……祭事ですから、どこまで効力があるかはわかりませんが、紐もない鐘が実際に鳴るんですから、馬鹿にはできませんよね?」
「馬鹿になんて……女神の血縁にしか使えない魔法の一種だと捉えれば、軽んじることができないというのは理解できます」
「魔法……そうですね。その魔法を使うためだけに、私たちは血を繋ぐんです」
言いながら、エマは自分の生まれに不満があるようで何だか嫌だった。
不満はない。
ただ、まだ恋も知らないのに、結婚だとか真の愛だとか、そんな話がただただ重くのしかかるのだ。
「これまでのシェーンベルク家の人間が役目を全うしてきたように、私もそうするつもりです。真に愛する者を、真に愛してくれる者を見つけること……みんながやれたというのなら、私だってやってみせます」
言いながら、でも……という気持ちがよぎる。
兄アウロスのことを思い出すと、真実の愛だとか恋心なんてものが、ひどく脆い幻のように感じられるのだ。
「不安なんですね」
ぽん、とルイの大きな手がエマの頭に触れた。慰めているらしい。
「大丈夫です。うまくいくよう、きちんとお手伝いしますから」
そう言って柔らかく微笑むルイの顔にいつもの胡散臭さはなく、菫色の瞳がただ綺麗だった。
だが、その瞳の奥にはまだ計り知れないものがあるとエマは感じる。だから、探りを入れるためにもエマは自分の知っていることを語ろうと決めた。
「私には兄がいるのはご存知ですか?」
「ええ。優秀な魔術師で、今は禁域の森の管理を任されているとか」
「……表向きは。アウロスは、逃げたんです。彼の優しさと弱さがそうさせたんですけど」
エマは数年前、兄の身に起きたことを思い出していた。あの出来事がなければ、今頃イルゼに代わる新しい花の乙女が誕生し、エマがこうして担ぎ出されることはなかったのだ。
「アウロスには、恋人がいました。魔術学院に在学していたときに王都で出会ったそうで、卒業後はワルデルゴーに二人で戻ってきたくらい仲が良かったんです。アウロスのほうがすっかり彼女にべた惚れで、周りの後押しもあってトントン拍子に結婚の話も出てきました」
当時のことを思い出すと、エマは苦々しい気持ちになる。まだ今より幼かったエマは、アウロスが連れてきた恋人にアウロスと同じくらい夢中になっていたのだ。アウロスが彼女と結婚すれば、美しくて優しい姉ができると、ただ無邪気に喜んでいたのだ。
アウロスの恋人は兄弟はないとのことで、エマのことをいたく可愛がった。本当に仲の良い姉妹になると、誰もがそう信じていた。
「シェーンベルク家のしきたりとして、結婚する前にはこの聖堂を訪れるんです。理由は、真実の愛でこの鐘を鳴らすため。愛し合う者同士でここを訪れて初めて、この鐘が本当に不思議な力で動くことを知るんですよ」
エマも、両親によってこの鐘が鳴らされるところを何度となく見ている。そのため、それをただの迷信ではなく、真実として受け止めていた。
「アウロスとその恋人も、聖堂を訪れました。本来なら、父母と教会の方による立会いが必要だったのですが、その日は下見というより二人だけの楽しみだったのでしょう。でも、私はどうしてもついて行きたくて……こっそり後ろから見ていました」
言いながら、エマはそのときのことを思い出していた。
若い恋人たちらしくはしゃぐアウロスたちが鐘の下に立ったときの、あの沸き立つような気持ちのことを。
その後、いつまで経っても鳴らない鐘に、暖かかった空気が徐々に冷えていったことを。
隣に立つ恋人をアウロスが訝しげに見るよりも先に、エマは気づいてしまっていた。
恋人が顔色を悪くし、ひどく動揺していることに。
それを見て、アウロスがすべてを悟って狂ったように走り出した姿は、何度思い出してもエマの胸を苦しくさせる。
「愛し合ってもう結婚寸前までいった二人だったのに、そこに真実の愛はなかったんです。アウロスは『自分の愛が足りなかったからだ』とすべて飲み込んで、禁域へ篭りました。彼女が周りから咎を受けないよう、今も口を噤んだままです」
「そんなことがあったんですか……」
そんなことを経験していれば、真実の愛などという言葉に対して足踏みするのは当然だろう。ルイはそう思い、目の前の少女に少しばかり同情したのだろうか。眉根を寄せて、ジッとエマを見つめた。
だが、すぐに表情を引き締めると、改めてエマに向き直る。
「エマ様のために、エマ様にとって有益だと感じた男性を集めました。――どなたでも、あなたが利用できると感じた男性の手を取りなさい」
「……え?」
優しげな視線を向けてくれたことで、エマはルイの評価を改めようかと考えていた。胡散臭く感じるのは、もしかしたらこの綺麗すぎる顔のせいかもしれないと。
だから、すぐには言われたことが理解できなかった。
「あなたは、人々の心の支えになる必要がある。そのために、花の乙女として花祭を盛り上げてください。花の女神の子孫の恋物語というだけで人々は喜ぶわけですから、あとは役者が揃っていれば十分でしょう」
エマは、失念していた。ルイは王都の教会の人間なのだ。女神信仰者ではない。こうしてわざわざ出向いて花祭に口を出しているのも、教会の人間としてなんらかの意図があるからだ。最初から、エマを利用する気しかなかったのはわかりきっていたことだ。
「……鐘はどうするんですか? とりあえず、なんていうふうに相手を選んだところで、この鐘が鳴らせなければ意味がないんですよ?」
「それは、私がなんとかします。魔術ででもなんでも、鳴らすことができればいいのでしょう? それなら力を貸しますから、エマ様はただ花の乙女として誰か相手を選んでください」
ルイの声には、なんの感情も乗っていないように感じられた。胡散臭い笑みは浮かべていない。
ルイのこの顔は、彼の本質の部分なのだろう。エマに対して取り繕う必要がなくなったと判断したからか、彼はもう場を繋ぐために微笑もうとはしなかった。
「エマをたぶらかすな!」
突然、鐘楼に声が響く。
一体誰なのかと声のしたほうを見やったときには、その人影はエマとルイの間に走り込んできていた。
「クリス……!」
「エマ、大丈夫か? この男に、何かされてないか?」
「大丈夫よ」
まるでルイの視線から守るかのようにその背にエマを隠しながら、クリストフはルイを睨みつけた。少年の敵愾心剥き出しの視線を受けても、教会の使者は涼しい顔をしている。
「クリストフ様、一体どうされたんですか? まるで私がエマ様に危害を加えるとでも言いたげですが、私はエマ様を守るためにそばにいるんです」
「守るだと? 早速おかしなことを吹き込んでたじゃねぇか! これからずっとそばでエマに良くないことを吹き込む気だろ?」
「人聞きの悪い……私は花祭の主役である花の乙女をあらゆるものから守るために派遣されているんです。候補者とはいえ、力のないものは下がってください」
「なんだと⁉︎」
表情を変えないまま、煽るようなことをルイは口にする。鐘楼に飛び込んできたときから頭に血が上っていたクリスは、その挑発にまんまと乗せられてしまった。
「俺が力がないって? だったら、今ここであんたとやりやってやるよ。エマ、加勢しろ」
「え?」
「いいから!」
クリスは懐から取り出した杖を構えると、すぐさま短く詠唱して攻撃を繰り出す。
それは風の魔術。丸く圧縮した空気の球は、勢いよく押し出されてルイの体を軽く吹き飛ばした。
威嚇でも何でもなくクリスが自分を攻撃しようとしていることがわかったルイは、体制を立て直すと、何かを打ち出した。
杖も詠唱もなく何かを生み出したのを見て、エマはルイがクリスよりもはるかに格上なのを理解した。しかもパッと見て何の攻撃なのかわからないのが怖い。だから、何もしないつもりだったが、その考えを改めることにした。
わけもわからず、クリスはとりあえず防壁を張る。この場合は土壁を作るのが良かったのだろうが、相手の姿を視界から消すことが怖くて、空気の壁を作るにとどめた。
本来なら、その壁ではルイが放った攻撃を防ぐことはできないはずだった。だが、クリスは吹き飛ばされることなく、攻撃は壁によって防がれ、相殺された。
しんと静まり返った鐘楼の中、響いているのは歌声。
クリスの背に守られたエマが歌っているのだ。少し幼い澄んだソプラノは、クリスの魔術を増強したのだ。
何か楽器があったほうがその能力はより発揮されたのだが、歌声でも十分効果はあったらしい。
エマは、歌や楽器の音色で魔術の増強をすることができるのだ。もちろん、自身の身を守るために攻撃の手段も持っているが、こうした他人の補助のほうが得意だった。
「ルイ、今のでわかったと思うけど、クリスは無能じゃないんです。だから、少し話をしてきてもいいかしら? 私を守るという意味でなら、彼も不足はないはずです」
「……わかりました。先にお部屋の用意をしておきますので、あまり遅くならないうちにお戻りください」
とことんやりあえば、ルイの圧勝だっただろう。だが、候補者のひとりを徹底的に打ち負かすことは本意ではなかったし、何よりエマを軽んじるわけにはいかなかった。エマがルイの実力を一目でわかったように、ルイもエマの能力というものをすぐに理解した。
だから、ルイはいつまでも睨みつける少年からそっと視線を外し、何もするつもりがないことを示す。
それに安心したエマは、クリスの裾を引いて鐘楼の外へと歩き出した。クリスは外へ出て、ルイの姿が完全に見えなくなるまで彼から目をそらそうとはしなかった。