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19、春の風が吹く

 涙声で思わず言ってしまったことに、エマは自分で驚いた。こんなこと言うつもりはなかったのにと内心慌てても、飛び出していった言葉は帰ってこない。秘めていようと思っていたのに。秘めたまま、良い思い出にして誰かと結婚してしまおうと思っていたのに。

 言われたほうのルイも、理解できないという顔をしてエマを見ていた。突然のことに、ルイは赤面する余裕すらなかった。

 しばらく涙目のエマと呆然とするルイは見つめあっていたが、ルイのほうが先に冷静さを取り戻した。


「……エマ様、自棄をおこすのはやめてください。あなたがしているのは駄々っ子と同じですよ」


 なだめるように、まるで小さな子供にでも言い聞かせるようにルイは言った。精一杯自分の中に湧き上がる感情を抑え、エマに伝わらないよう努める。それだけに、その声音はエマの心を苛立たせた。


「自棄なんかじゃない! 私はあなたが好きなの!」


 それこそ自棄になってエマも応じる。一度言ってしまえば、あとはもう変わらないと腹をくくってしまったのだ。


「誰の手を取ってもいいんでしょ? 私が相手に騙されているのではなく、利用価値を見出しているのなら。それだったら、私はルイといれば守ってもらえるって価値を見出してる。それで十分じゃない」


 エマはかつてルイが言ったことを盾に一歩も引かない姿勢を見せた。これがしおらしく想いを告げるのであればルイもかわせたのかもしれないが、怒りに燃えるエマの姿にどうにも押され気味だ。


「私は、他人に愛情を持ったことがないんです。愛情というより良い感情を持ったことすら……これまで誰かに持った強い感情なんて、『死ね』くらいしかないんです」


 ルイは、己の家族にすら愛情を持てなかった人生を振り返り不安になった。エマを憎からず思ってはいるが、そんな人間が果たしてエマを幸せにできるのだろうかと、ただ不安になる。この想いはずっと秘めたままで、徹頭徹尾自分だけのもののはずだった。片思いならいい。だが、相手とその想いを分かち合うとなると、エマと同じだけのものを自分が差し出せるかと考えて自信が持てなかった。

 そんなルイの葛藤を、エマは悲痛な面持ちで見つめていた。


「……ルイは私のこと死ぬほど嫌い?」

「まさか」

「そう。なら問題ないわ。死ぬほど嫌だと言うのなら無理強いしないけど。……別にあなたが私のことを好きじゃなくたって、どうだっていいの」


 ルイはこのときになってやっと、しまったと思った。今までの受け答えから、エマは勝手にルイがひとかけらも自分に対して気持ちがないと思い込んでいる。このまま結婚するということになれば、エマはその思い込みでずっと苦しむことになる。

 そうではない、それはまずいと思うのだが、こんなときにスマートに言葉をかけられるほどには、ルイは世慣れていなかった。


「幸せにしてあげられないかもしれませんが、それでもいいんですか?」

「別に。私は勝手に幸せだから、問題ないわ」


 うっすらと微笑んで答えるエマは、涙はもう引いているのに先ほどよりよほど泣いていた。この子はこんなにも大人びた表情をするのかと、ルイの胸は痛んだ。

 恋愛感情を捨て覚悟を決めて相手を選べと言ったのは自分なのに、よりによって選ばれたのは自分なのに、信じられないほど心が軋む。

 もう話はすんだとばかりに、エマはルイから目をそらし俯いた。睫毛が白い頬に影を落とすのがあまりにも悲しげで、ルイは慰めるようにそっと手を伸ばして触れた。それはルイが初めてエマへ愛情をはっきりと示した仕草だった。

 だが、エマは世話係が自分に気を使って慰めたのだと、惨めになりながら思っていた。

 どこまでも噛み合わず、二人の間にあるのは冷たく硬い沈黙。

 だが、その沈黙は唐突に破られた。



「ふふ。これでいい報告ができるねー。まぁ、彼のことだから朝一の知らせで今頃禁域から飛んでこっちに向かってるだろうけど」


 気まずい思いでエマとルイが過ごしているところに、場違いな声がした。声の主はノックもなしにドアを開けると、ひょこっと顔だけ覗かせた。


「キーンツ先生……立ち聞きですか?」

「ごめんね。入るタイミングがわからなくって。でも、エマさんが相手を決める現場に立ち会えて良かったかな。これで僕は無事に役目を果たせたってことで」

「どういうこと……?」


 キーンツ氏の言葉にエマはきょとんとし、ルイは眉根を寄せた。エマはわかっていないようだが、キーンツ氏の言葉にルイはこれまでずっとわからなかった彼の背後にいる人物を知ることができたのだ。


「あなたは、アウロス様に言われてエマ様についていたのですか?」


 ルイの質問に、キーンツ氏はまるで教壇に立っているときのような口調で「正解です」と答えた。ルイとキーンツ氏の間で会話が成立したことに驚いて、エマは二人の顔を見比べながら「どういうこと?」と尋ねる。


「僕はアウロスに言われて、エマさんを見守るために候補者に立候補したんだ。シェーンベルク氏もそれはわかってる。僕がアウロスと友人なのを氏もご存知だから」

「そんな……」


 二人が友人だったなんてという驚きと、あの兄に友人がいただなんてという驚きがエマの中に駆け巡った。後者は大変不名誉な驚きだが、エマが驚くのは無理もない。そのくらい、アウロスは魔術馬鹿で人付き合いというものを疎かにする男なのだ。

 ルイのほうは、そういえば候補者選びのときにシェーンベルク氏がさりげなくキーンツ氏を最終候補の中に滑り込ませたことを思い出した。あのときは何だかんだうまいことを言ってそのことに目がいかないようにされていて、さして意識はしていなかったのだ。


「アウロスは本当はエマさんのために帰ってきたかったんだけど、彼は彼で今身動きがとれないらしくてね。それで、僕に頼んだってわけ。でも僕とくっつくのだけは絶対嫌だって言われてたから、僕は徹底してエマさんが嫌いな男を演じてたんだよ」

「そうだったんですか……」


 嫌いな男を演じていたというくだりについてはいまいち信憑性に欠けるが、彼がアウロスに頼まれていたのだと思えば色々合点がいく。


「じゃあ、コリーナと一緒にいたのはどういうわけなの?」


 立ち聞きしていたのはどうやらキーンツ氏だけではなかったらしい。エマにとっては無邪気に見える、ルイにとっては油断ならない笑みを浮かべて部屋に入って来たのはエルマーだった。


「コリーナと一緒にいたのは、エマさんの近くをうろちょろしてたから、監視と牽制をね」

「ふーん……僕はてっきりあの女とあなたが手を組んで、小娘をそそのかしてエマ様に危害を加えようとしたんだと思ってたんだけど」

「まさか! そういうことは誓ってないよ! ただ、いつものくせで口説いちゃったら、何かその気になっちゃったから今後利用できるかなって思うけど」

「ああ、案外ああいうのは政治家の妻向きかもね」

「でしょー。で、放火犯の子は、年頃の自意識と妄想をこじらせちゃったんじゃないの? 憶測で誰かを悪だと決めつけたら、止まれない子ってのは学校でもたまに見かけるし」

「どうしようもないね」


 エマとルイをそっちのけにしてエルマーとキーンツ氏は話を進める。二人の話をどこか他人事のように聞きながら、エマはそんなものかと納得していた。

 日頃のエマなら気になったことを尋ねたり自分の意見を述べたりしただろうが、今は正直それどころではなかった。

 勢いで言ってしまったとはいえ、ルイが拒絶しなかったからこのまま結婚の話を進めることになるだろう。まずダニエルとイルゼに話をして、候補者たちにも断りを入れて、町に告知を出して……と、考えることはたくさんある。


「エマ様、どうしたの? まさかルイさんに告白されたとか? それとも変なことされた?」


 浮かない顔のエマに気づいて、エルマーは断りもなく隣に腰掛けると顔を覗き込む。澄んだ青い目はしばらくエマを観察すると、すべて見抜いたように頷き、今度はルイに向き直った。


「言ってないんだ? 言わないでこんな悲しい顔させたんだ?」

「それは……」

「違うの、エルマー。私がルイに結婚してって言ったの。その、私はルイが好きで、彼の護衛としての能力も買ってるから、それで……」


 責める口調のエルマーにすかさずエマが言い返す。事情を知っているエルマーとしてはルイを詰りたい気持ちだったのだが、エマは自分の強引なやり方を恥じ、深く追及されたくなかったのだ。

 もうこれ以上聞かないで、この話題には触れないでと必死に目でエマが訴えるのを感じ、エルマーはルイを睨んだ。睨まれても文句を言えないルイは、何とかこの状況を打開できないかと考えた。とはいえ、女性を口説いたことはない。黙って微笑めば女が釣れるという生まれ持った容姿の良さが、ここに来て仇になった。


「エマ様、本来なら打ち明けないつもりでいたのですが……私は、あなたのことが好きなんです」


 ルイが取り得る行動は、素直に気持ちを伝えるということだけだった。

 傷ついた眼差しを向けるエマをしっかり見つめ、言葉ひとつひとつに心を込め、ルイはエマに想いを告げた。どうかこの言葉がエマの硬くなった心を解いて欲しいと、そう願いながら。

 だが、ルイの言葉を聞いてもエマの表情は変わらなかった。ほんのわずか、瞳が揺れただけだった。それが涙を必死に堪えているのだと気づいたエルマーは、エマの手をそっと握った。


「エマ様、彼が言ったことは本当だよ。……ルイさんがあなたのことを好きだっていうのは、候補者みんなが知っていたから」

「……本当?」

「うん。ルイさんがエマ様を見守る視線って、完全に恋する男のものだったよ。エマ様の前じゃ必死に隠してたみたいだけど」


 エルマーの物言いは多少大袈裟に感じたが、それでもエマの心を動かすには十分だった。

 あれやこれやと思考を巡らせて、ルイに感じていたものが自惚れではなかったのだと、うっすらと信じられるようになった。


「ルイ、本当……?」

「ええ、もちろんです。私なんかがエマ様を幸せにできるとは思えず、黙っているつもりだったのですが……」


 目の前の美しい男の恥じらうような微笑みを見て、エマはもう耐えられなかった。両手で顔を覆うと、そのまま声を出して泣き始めた。

 だが、それは当初予定していた悲しみの涙ではなく、喜びからくる涙に変わっていた。

 エルマーに促され、オロオロするだけだったルイはエマのほうへ身を乗り出し、その髪にそっと触れた。焼けて短くなってしまった美しいストロベリーブロンドが惜しいが、それでもエマを失わずにすんだということに改めて安堵する。

 エマも髪を撫でられながら、幸せを噛み締めていた。信じられない。でも、どうやら嘘ではない。顔を覆う指の間からそっとルイを盗み見ると、何とも言えず優しげな表情をしているのが目に入って、エマはまた新たな涙を流した。

 そんな二人の、甘やかな雰囲気にエルマーとキーンツ氏は顔を見合わせた。性質上あまり馬の合わない彼らだが、このときばかりは思いは一緒だったらしい。思いきり渋面を作ると同時に窓のほうへ駆け出していった。


「エマ様とルイさんが結婚するぞー」

「あの世話役に出し抜かれたー」


 窓から身を乗り出したエルマーとキーンツ氏は、ニヤニヤ顔でそう叫んだ。完全に面白がっているが、やりきれない思いも何割かは含まれていた。


「なんだとー⁉︎」


 ちょうどやって来ていたところだったのか、シェーンベルク家の敷地内に待機していたのかわからないが、そんな声が聞こえて少ししたあと、残りの候補者たちも客間へ駆け込んで来た。

 部屋に入ってきた彼らはエマとルイの姿を目の当たりにし、しばらく硬直したあと、一斉に拍手を始めた。


「おめでとう!」


駆け寄っていってルイとエマをもみくちゃにしながら、男たちは声を揃えて叫ぶ。

 クリスもテオもユリアンも、複雑な二十面相をやってのけたが、最終的に浮かべたのは皆一様に笑顔だった。

 エマがルイを選んだのならそれでいい、そのルイもエマを好きならそれでいいと、男たちは納得したのだ。ほんのわずか何か違っていれば自分に気持ちが向いたのではないかとそれぞれが思っていたが、泣きながら笑うエマを見ているうちにそういった気持ちも薄れていった。

 冬を迎えて冷たい風が吹き始めていたが、喜びにわくシェーンベルク家の客間は暖かさで満たされていた。

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