17、赤く燃えて
その日の夜、エマはとんでもなく幸せな気分でベッドに入った。昼間楽しい時間を過ごしたため、その余韻がまだ残っているのだ。
例の菓子はうまく焼け、みんなにも好評だった。初めて目にする菓子ということで、それを話題に話も弾んだ。
ルイもお茶会の席について食べてくれた。「甘すぎて歯が溶けそうです」というのがルイの感想だったが、エマは満足だった。食べてくれただけでも嬉しかったのに、ルイが変な顔をしたのだ! 本気で甘いものが得意ではないらしく、ひどく困った様子で、それでも完食してくれた。
これまで美味しいと言われることが何よりの幸せだったのに、好きな男から日頃見ない表情を引き出したことのほうがエマにとっては良いことだったのだ。
(歯が溶けちゃうって。変な顔してた)
菓子を食べている最中のルイを思い出すだけで、エマは一晩中でもにやけていられそうだった。誰かのことを想ってこんなふうに幸せな気分になれるなんて、エマには初めてのことだ。仕草のひとつひとつ、浮かべた表情のひとつひとつ、なぞるように思い出すだけで、胸の奥がじんわりと温かくなるのだ。
だが、いつまでもこんなことを続けてはいられないことは、きちんと自覚していた。近いうちにはこの気持ちに見切りをつけて、候補者の中からひとりを選ばなければならないこともわかっている。片思いは、終わりにしなければならない。
幸いなことに、ハルを除いた候補者の中からは誰を選んでも良いと思えるほどに彼らとは親しくなれていた。
友人になれるのなら、恋人にも、夫婦にもなれるだろう。少なくとも、親が決めた結婚や世間一般の見合い結婚なんかよりは良好な関係を築けていると思う。あとはエマが、誰の妻になるか覚悟を決めるだけだ。
魔術師の妻か、貴族の三男の妻か、軍人の妻か、吟遊詩人の妻か。エマと結婚することによって彼らもまた選択を迫られるだろう。だが、何にしてもやっていけそうだと、エマは思っていた。
そんなふうに気を大きく持てるくらい、気分の良い夜だった。
だから、エマは幸せな夢を見ていた。布団に入って今日一日の出来事を何度も思い出しているうちに、いつの間にか眠っていたのだ。
何の夢を見ているか意識は判然としなかったが、ともかく悪夢とは無縁だった。ふわふわとした幸福な感覚だけがある、そんな夢を見ていた気がする。
それなのに、その幸せな夜は唐突に終わりを迎えた。
違和感を覚えて、暗闇の中エマは目を開けた。まず最初に感じたのは、部屋の中が暖かいということだった。秋も終わりに近づき、森にほど近いこの神殿の朝夕の空気はとても冷たくなるのに。
次に感じたのは、何かが焦げる匂い。最初、昼間に石窯を使ったため、その匂いが残っているのかと思った。だが、その匂いはどんどん濃くなり、部屋の中に充満してくるようだった。
そして改めて周囲に目をやってみると、部屋に赤い光が射していた。赤く、揺れるもの……
火事だ、と思いエマはベッドから跳ね起きた。だが、その次の瞬間には、追い打ちをかけるように部屋の窓が割られた。何かが投げ入れられたのだ。その何かは、あっという間に炎を吐き出し、爆発した。
「え……何? ……何で?」
何もかも突然のことで、エマは体が動かなくなってしまった。そうこうしている間にも、炎はどんどん勢いを増していく。
逃げなくては、と思うが足がうまく動かなかった。燃えているのは窓際。ベッドまで炎が来るのも時間の問題だ。
(部屋の外に逃げて大丈夫なの? 建物の中で火があがっていれば、部屋の中の炎を消して窓から飛び降りたほうが安全かしら?)
体が動かない代わりに、エマは頭を働かせた。安全に逃げ延びるには、今どうすればいいのかを必死に考えた。
だが、そんなことができたのもその瞬間までだった。
もう一度、部屋の中に何かが投げ込まれた。バリンとそれが割れる音。そして、大きくなる炎。油かアルコールか、燃えやすい液体を入れた瓶が投げ込まれたのがわかった。
それはつまり、誰かがエマを殺そうと、確固たる意思を持ってこの火事を起こしたということだ。
一度目の投擲では思ったほど火が上がらなかったのだろう。それではエマを焼き殺せないかもしれないと、追加で投げ込んだに違いない。
そこまで考えて、エマは自分の頭の中の血液がカッと煮えたぎるのを感じた。
(誰かが、私を、殺そうとしてる……!)
怒りとも、悲しみともつかない感情が、一気にエマを支配した。先ほどまで、炎を恐れていた気持ちが薄れていく。
(許せない……!)
その思いが、エマの体を動かした。
先ほど二つ目の瓶が投げ込まれたことで、窓から外へ飛び降りるという選択肢はなくなった。闇雲に飛び出しても、エマを狙うものの前に躍り出るだけだ。それなら、空中で無防備な姿を晒すよりも地に足をつけて逃げ出したほうがマシだろう。
決意してエマは部屋の外に駆け出そうとした。だが、エマがドアを開けるより先に誰かが飛び込んでくる。
「エマ様!」
「ルイ!」
一瞬、賊かと身構えたが、呼びかけにその正体を悟る。暗がりの中、気配でしかわからないが、いつも冷静なお目付役が大慌てでエマの元へと走って来ていたのだ。
その姿を見て、沸騰しかけていたエマの意識は幾分和らいだ。
「すみません、遅くなって。お怪我は?」
「大丈夫。それより一階は?」
「部屋は無事ですが、一帯の木々に火が。……裏から出ましょう!」
言いながら、ルイはエマの体を問答無用で抱き上げ、走り出していた。廊下を走り、階段を駆け下り、迷いなく建物の裏手に向かっていく。正面から見たのではわからない、この建物の勝手口だ。訪ねてくる人はみな正面から入るが、毎日ここで過ごすエマとルイはもっぱらそこから出入りしていた。
賊が誰かはわからないが、おそらくその出入り口までは把握していないだろう。状況はわからないが、とにかくエマを無事に逃がすことだけを考え、ルイは一縷の望みをかけ走り続けた。
果たして、勝手口にはまだ火が回っていなかった。
だが、扉を開けると、そこには火を放たれ倒れた木が行く手を阻んでいた。
「……エマ様、捕まってください。跳びます!」
少しの間逡巡し、そう言い放つや否や、ルイは助走をつけ飛び出した。木と建物のとのわずかな隙間を駆け抜け、火がまわっていないところへ出ようと考えたのだ。
振り落とされないよう首に両腕を回してしがみつきながら、エマはルイが怒っているのを感じていた。無言で走っているが、体中から怒気が発せられている。これはもう怒気を通り越した殺気なのかもしれない。
この状況を作り出した犯人に、ルイははっきりとした憎悪の念を抱いていた。何ひとつ言葉を発しなくてもそれが近くにいるだけでひしひしと伝わってきて、エマは思わず身震いした。
「……あっ」
炎の中を駆け抜けるそのとき、エマの髪を熱い舌がひと撫でした。ほんの一瞬、ほんのわずかなことで、慌てて叩いたことで火を消すことはできた。だが、エマは自分の髪が焼け焦げ、毛先からボロボロと形をなくすのを見た。それでも、ルイが懸命に走ってくれていることがわかっていたから、エマは黙ってその腕に抱かれていた。
「ここでお待ちください」
ルイは森の奥、安全な地面にエマをおろすと、ごうごうと火を上げる神殿に向き直った。何事かを詠唱し、両手を前に突き出すと、そこから炎を消し去る水を放出していく。
森の中にある小さな湖からエレメントを借りているのか、先ほど唱えたものは水の精霊を呼び出すためのものだったのかーー暴力的な炎を凌駕する水流を眺めながら、そんなことをエマはぼんやりと考えた。
(こんなに力を使ったら、いくら強い人でも大変……)
そう思うと、エマの口から自然と歌が漏れていた。それは森と女神を讃える歌。ワルデルゴーの人々なら誰でも歌えるものだ。だが、エマが歌うとそれは特別なものになる。
エマのこの能力は、シェーンベルク家の者すべてが持つものではない。女神由来のものではなく、どこかの段階で入り込んだ血がエマの代で覚醒したのだろうと考えられている。
ともかく、エマが歌うと森が目覚める。持ち得るすべての力を女神の子孫に貸そうと意思を持つ。
その意思は、荒れ狂う炎を拒絶し、ルイが放った水と戯れる。元々、木と水は親和性が高いのだ。
そうして森自体が火を消し去ろうとしたことによって、あっという間にエマを害そうとした火事は鎮火された。
「エマ様……ご無事ですか?」
ひとまず危機を脱したことを感じて、ルイは後ろに控えるエマを振り返った。魔術を使っている最中、歌声が聞こえた。ということは力を使わせてしまったのだろう、体調は大丈夫かと思ったところで、異変に気がつく。
「エマ様……髪が」
「ええ。ここに来る途中炎が少し掠めて、それで焼けてしまったの。何か切れるものはある? ナイフとか」
あまりのことに言葉を失っていたルイだったが、エマに促され懐に忍ばせていたナイフを取り出す。それを受け取ると、エマはためらうことなく焦げた髪をばっさりと切り捨てた。
切られた髪が地面にハラリと落ちる。長かったエマの髪は、肩口のあたりまで短くなってしまった。
それを見て、ルイは落ち着きかけた怒りが再び燃え上がるのを感じた。臓腑が、焼けるように熱い。はらわたが煮え繰り返るというのはこういう感覚なのだろうと、心のどこかゾッと冷えた部分で思う。
「……殺してやる」
気がつくと、ルイの口からはそんな言葉が漏れていた。それはルイ自身も聞いたことがないほど、低く鋭い声で、エマは思わず身を竦めた。もちろん、エマに向けられた言葉でないのはわかっていたが、それでも怖いと感じてしまった。
ルイはギリと奥歯を噛み締め、あたりをうかがった。
賊はまだ近くにいるはずだ。目的が達成されたかどうか、きっと近くで見ているだろう。見つけたら、殺してやる。殺す殺す殺すーー目の前で震えるエマを見つめながら、賊の気配を探ろうと神経を尖らせる。
ギチギチと怒りのあまりおかしな震え方をするルイをエマは不安な気持ちで見つめていた。いつも冷静で、こんなふうに感情を露わにしない彼が、こんなにも怒りに支配されて張り詰めている。
本来なら、こんな目にあってエマも怒りのあまり我を失ってもおかしくなかった。だが、ルイの怒りを目にしたときから、エマの中の負の念は静まっていた。だから、とにかくルイを落ち着かせねばならないと、そんなことを考えた。
そこへ突如、女の悲鳴が響き渡る。それに続く喧噪。
賊が誰かに捕まったのだと、エマは気づいた。それに気づいたのはルイも同じで、エマが止める間もなく駆け出してた。
ルイを追い、声がしたほうへ走っていくと、そこには複数人の人影が揉み合う姿が見えた。そのうちのひとりが持つランプによって、うっすらと照らされていたのは、魔術によって拘束された女と、エマのよく知る人物たちだった。
「エマ! 無事だったのか⁉︎」
「ええ。ルイがちゃんと助けてくれたわ」
ランプを片手に駆け寄ってきたのは、クリスだった。そして、その後ろで女を取り押さえているのはテオとユリアン。
「森が焼けてるのが見えて、急いで二人を呼びに行ったんだ。こいつらは同じ宿にいるからな。俺たちが来たときは火があらかた消えてたんだけど、そしたらこの女がおかしな動きしてるのが見えて……」
クリスが冷たい目で見やると、黙っていた女がカッと目を見開いてエマへ顔を向けた。
「あなたが、火を……?」
今にも飛びかかりそうなルイを手で制し、エマは一歩前へ出た。スッと冷たい怒りをもって目の前の女を見つめる。
「そうよ」
女というより少女は、悪びれる様子もなく答えた。よく見れば、交流はなかったが顔見知りの少女だった。エマより少し年下の、この町の女の子だった。そのことにエマは衝撃を受ける。
「どうして?」
「憎らしかったから。大した容姿もないくせに、男の人たちにチヤホヤされて! 毎日毎日とっかえひっかえ誰かと出歩いて!」
「……そんなことで?」
「そんなこと……? 大事なことよ! あんたみたいな可愛くない子が、花の乙女とかいってチヤホヤされるのを見せつけられるこっちの身にもなってよ! ただ、その血筋に生まれただけで! 何にも特別なことなんてないくせに! ズルよ! こんなの間違ってる!」
髪を振り乱した少女は、しゃべっているうちに興奮してきたのか、どんどんエマを侮辱するための言葉を吐き連ね始めた。怒りが一周まわって冷静さになってしまっていたエマは、そんな少女の言葉をひどく冷めた気持ちで聞いていた。そんなことで人を殺せるのか、と。そんな理由でこんな目に合わされたのか、と。
だが、傍で聞いていた者にとっては、そんなふうに聞き流せるものではなかった。
バチンと、柔らかな肉を打つ音が響き、少女の罵詈雑言が止んだ。
その直前、エマの制止を振り切りルイが飛び出していたから、それが彼の仕業であることはわかった。
「そんなことで、お前はエマ様を殺そうとしたのか! そんなことで、エマ様は殺してやりたいと思われなければならなかったのか!」
空気がビリビリと震えるほどの大声に、少女だけではなくその場にいる全員が身を竦めた。日頃取り乱したりはしないルイの激昂した姿は、美しいだけに恐ろしかった。
ルイは全身から殺気を放出させながら、放火犯を睨みつけていた。それは、少女のくだらない嫉妬が爆発した癇癪のような殺意とは比べものにならないほどの本物の殺気だ。頬を打つだけですんだのは、彼がかろうじてまだ理性を失っていなかったからだ。
「……ルイ、お願いやめて」
このままでは、本当にルイが少女を殺してしまうのではないかと思い、エマはルイの背中に取りついた。ルイがエマのために怒っているのが、どうしようもなく苦しかったのだ。
「ルイ、この人のことはクリスたちに任せて帰ろう」
「ですが……」
「……もう嫌なの。早く連れて帰って」
最後のほうはか細く消え入りそうになっていた言葉に、ルイはようやく我に返った。
そして、背中にしがみつくエマの体が震えていることに気がつく。
「わかりました。帰りましょうね」
エマを抱きかかえると、ルイはクリスたちへ目だけで礼をしてその場から歩き出した。そんな二人の姿すら憎らしげに放火犯の少女は見つめていたが、ルイの視界に彼女が入ることはもうなかった。