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16、甘いお菓子に想いをのせて

 ルイにそっと肩を揺さぶられたエマは、覚醒きたが目を閉じたままでいる。そして、じっと神経を尖らせ、ルイが扉に近づいてこちらに背を向けているのを気配で確認して、急いで目を開ける。そうしなければ、下手をするとその日一日ほとんどルイを見ることができないからだ。

 ここ最近、あからさまにルイに避けられていることをエマは自覚している。朝エマを起こしたあとは、どこに行っているのかわからない。食事の支度はしてくれているが、一緒に食べることはなくなってしまった。

 理由はわかっている。

 エマがルイを好きになってしまったことを、悟られたからだろう。きっと、エマの気持ちが迷惑だったのだ。だが、それを伝えられる関係にないため、避けるということでこの事態を収めたいに違いないとエマは考えていた。

 仕方がないことだ。仕事で世話をしてやっているだけの小娘に気持ちを寄せられたところで迷惑に違いない。あれだけ美しい男なら、望めばどんな美女とだって付き合えるのだから。

 それに、エマはもうすぐ結婚する。その相手選びに恋愛感情を挟むなとあれだけ言われたのに、よりによってその忠告をした相手を好きになってしまうなんて、愚かにもほどがある。

 そんなことを考えると同時に、エマは自身の自惚れを恥じていた。エマは、ルイが苦しげな目を向けてくるのは自分のことを好きだからではないかなどと、そんなふうに考えたのだ。だが、こうして避けられ口も聞かない日が何日も続けば、それが単なる勘違いだったとわかってしまう。


(ルイは、きっと私のことを馬鹿な子って思ったわよね……)


 そんなことを思いながらも、背中でもいい、ほんの少しの間でもいい、好きな男の姿を視界に入れたいと思うのは、恋する乙女ゆえのことだ。

 エマは扉が閉まるまでのほんの一瞬見えた銀髪の後ろ姿を、しっかりと目に焼き付けた。



 朝食を済ませると、エマは台所に向かった。かつて住居として使われていたこの建物にはきちんと台所が備わっている。食事はルイがいつも市場で出来合いのものを買ってくるためお湯を沸かす以外に使ったことはないが、石窯もあって使い勝手は良さそうだ。

 エマは今から菓子を焼くつもりだった。何かどうしようもない悩み事があるとき、エマは昔からよく菓子を作るのだ。

 菓子作りは細かな工程があり、それをこなしているうちに、元々楽天的なエマはたいがいの嫌なことを忘れてしまう。

 ルイのことは、おそらく忘れられはしないだろうが、一時的に気を紛らわせることはできるだろう。それでも、十分だった。

 ルイとの関係がおかしくなってからも、エマはそれを表に出さないように努めてきた。誰かに心配されたとしても、本当のことは話せない。それなら、気にかかることがあること自体隠さなければならない。

 実際に、エマはそれについてはよくやれていただろう。ばれていないかどうかは抜きにして、誰もエマに様子がおかしいなどと言う者はいなかったのだから。


「さて、材料は計り終えたから……」


 独り言を言いながらエマはテーブルに置いた本に目を落とした。それは、幼いときからエマが愛読している製菓本だ。とある美食家と言う名の食い道楽貴族が大陸内外を食べ歩いて出会った美味しい菓子の数々を召使いに再現させ、その作り方を一冊の本にまとめたもので、珍しい国外の菓子もたくさん載っている。

 エマはイルゼがあまり菓子を作るのが得意ではない分、様々な菓子に興味を惹かれる子に育った。どれだけ好き勝手に焼こうとも、どれだけ失敗しようとも、喜んで食べる男どもがいる環境だったため、上達も早かった。菓子作りについてだけなら主婦として立派に台所を切り盛りしていけるだけの技量はあると周囲も認めている。

 今日作ろうと考えているのは、グラフローズ大陸よりさらに北にいったところにある小さな島国の菓子だ。エマはルイの故郷の菓子を何とか再現できないかと考えていた。ルイの故郷がどこかは正確にはわからない。彼から聞いた話と容姿から判断するに、おそらく北の島国出身であると考えられるが。

 彼の故郷の菓子を作って何がしたいのか……それはエマにもわかっていなかった。作りたいと思ったから昨日のうちに市場で材料を揃えただけで、そのあとのことは何も考えていなかった。

 そうは言っても、候補者たちには今日エマが菓子を作ることは知らせてある。昨日はエルマーと一緒にいて、彼に市場に付き合ってもらったのだ。そのときに、菓子を焼くからみんなでお茶会にしようと言ったため、焼かないという選択肢はない。

 午後のお茶の時間になれば、きっとエルマーから話を聞いたみんなが集まるだろう。それまでには食べられるものを用意しておかなければならない。

 今から作るのは、菓子パンみたいなものだ。パン生地を薄く伸ばし、それを何層にも重ね、間に砕いた木の実を挟み、一番上には溶かしたキャラメルを塗って焼くのだ。それを手頃な大きさに切り分けて食べるのだが、本で見たときからエマは純粋に食べたかった。美しい装飾がほどこされた菓子も好きだが、こういったいかにも家庭で作るような菓子が一等好きなのだ。

 だから、自然とエマは張り切る。作り始めてしまえば、いつの間にかそれが北国の菓子などということはエマの頭から抜けて行っていた。




「美味しそうだね」


 そんなふうに夢中で作っているときだったから、突然台所に入ってきた人物にエマはひどく驚いた。


「いやー、女の子が台所に立つ姿って、どうしてこんなに可愛いんだろ」

「キーンツ先生……」

「ハルって呼んでよ。ねぇ、何か手伝えることはある?」


 台所の入り口に立つハルは、女子生徒が喜ぶ爽やかな笑みを浮かべエマを見つめていた。だが、エマには爽やかだなんて思えない。一度神殿を訪問したきり、一切顔を合わせなかったくせに突然やってくるだなんて、警戒するなというほうが無理がある。

 てっきり、もうエマには関心がないのだとばかり思っていたのに。


「何も手伝っていただくことはありません。おとなしく待っていてください」


 エルマーがこの男にも声をかけてしまったのだろうか。あの無邪気な子ならありえる……とエマは内心頭を抱えた。もし呼んでしまったのだとしたら追い返すわけにもいかない。

 だが、ハルはそんなエマに首を傾げて見せた。


「待つって何を? 今日って何かあるの?」

「え……いえ、お菓子が焼けるまで時間がかかりますから、もし食べたいのなら待ってくださいってことです」


 エマは、とっさに嘘をついた。もし知らないのなら追い返したい。焼けた途端に菓子を口に放り込んでやったら帰ってくれるだろうかなどと考えてみた。


「そう。それなら料理をする君を見ていようかな。それか、うるさい連中も今は近くにいないみたいだから、もっと君と仲良くなってみようか」

「……」


 手近にあった椅子を引き寄せ、ハルはそれに腰掛けた。笑みを浮かべたままエマを見つめ、帰る気がないことを示している。

 エマはもう何も言わず、威嚇の代わりにパン生地を台に叩きつけた。そのあとも、なるべく大きな音を立て、薄く伸ばしていく。

 他の候補者たちなら乱暴なエマをたしなめるか心配するかのどちらかだろうに、ハルは面白そうに見つめているだけだった。

 その視線が、エマは気に食わない。この男がエマを利用したくて候補者になったのはわかっている。他の候補者たちもそれぞれに思いがあってエマのそばにいるが、ハルが他の候補者たちと違うのはエマの信頼を勝ち得る努力を一切しないことだった。

 そんなもの、必要ないと思っているのだろう。いざとなればエマのような小娘をねじ伏せることは簡単と思っているのか、騙せると思っているのか。どちらにしても軽んじているのは確かだった。

 それが、とことん気に入らない。


「他の男の子たちは君がこうしていそいそとお菓子を作るのを、行儀良く待ってるんだね。おかげで二人きりになれたからいいんだけど」


 見ているだけに飽きたのか、立ち上がったハルはエマのそばまでやってきた。エマが伸ばし棒を構えているからか何もしてこないが、近くで見られるだけで嫌な気分になる。

 ハルはそんなふうにエマが警戒するのすら面白いらしく、余裕の笑みを崩さない。


(いざとなったら、叫んでやろう。この人に魔術で防ぐ術はないもの)


 そう心に決めてエマが密かに拳を握りしめたとき、思わぬ助けが現れた。


「おや、大きな鼠がいますね。駆除しなければ」


 その声にエマが入り口に目をやると、そこにはルイが立っていた。神殿にいるだろうということはわかっていたが、ここには近づいてこないと思っていたのに。


「鼠だなんて、ひどいなぁ。僕だって候補者だよ? エマさんと距離を縮めるためにこうして会いに来て何が悪いんだ」

「お茶の時間を待てずに準備中の台所に上がり込むなんて鼠と変わらないじゃありませんか。他の候補者の方は待っておられますよ。お引き取り願います」

「……わかったよ」


 ルイの威圧感たっぷりの微笑みを前に、ハルはたじたじになった。嫌味は言うことはあっても、基本的に候補者には丁寧に接していたはずのルイの暴言に、ハルだけではなくエマも驚いた。それと同時に、ハルがいなくなったことに安堵もした。

 だが、ルイと二人きりになると、それはそれでどうしたらいいかわからなくなってしまった。


「あの、ルイ……」

「何でしょう?」


 用は済んだとばかりに出て行こうとするルイを、エマはとっさに呼び止める。呼び止めたはいいが、何を言えばいいかわからない上、ルイの態度も相変わらず冷ややかで心が折れそうになった。それでも、何とか気持ちを奮い立たせる。


「お菓子が焼けたら、あなたも食べてくれる? たぶん、あなたの故郷のお菓子だと思うんだけど」


 何とか間を持たせようと、エマは製菓本をずいっとルイに差し出す。そして、どんな菓子なのかわかるようにと、挿絵部分を指差して見せた。

 だが、ルイからは思ったような反応は引き出せない。彼は、不思議そうに首を傾げただけだった。


「これ、ですか? 故郷の菓子と言われても、食べたことはありませんね」

「そんな……確かにお父さんはこの本は眉唾ものだって言ってたけど……」


 思わぬ答えに、エマはショックを受けた。だが、そんなエマを見てルイは慌てて言った。


「いえ、そうではなくて……菓子なんて金持ちの食べ物で、貧民だった私は食べたことがないという意味ですよ」

「そうなの。でも、それじゃああなたの懐かしの味ってわけじゃないのね……」


 言いながら、エマは自分が菓子を焼いたのは、ルイに故郷の味を食べさせてやりたかったのだと思い至った。何も考えずに、ただ北国の菓子を作ろうとしていたのだが、結局はルイにそれを食べてもらいたかったのだ。

 だが、それも空回りだ。ルイの生い立ちを考えれば、菓子どころかまともな食べ物すら口にしたことがなくてもおかしくなかったのに。知らない味を差し出されて懐かしめと言われても困ってしまうだろう。

 己の浅はかさに、エマはすっかりしょげ返った。


「その……食べたことはありませんが、興味があります」

「え?」

「いただけるのであれば、私も食べてみたいです」


 ルイは火の入った窯を見やり、あとは焼くだけになった菓子を見やり、エマに言った。その様子に戸惑いはあったが、それでもエマが復活するのには十分だった。


「わかったわ。ありがとう! じゃあ、今から焼くから、お茶の時間になったら呼びにいくわね!」


 エマはそう言うや否や、いそいそと生地を敷いた菓子型を運び始めた。食べてくれるのなら、気が変わらないうちに焼き上げてしまいたいと思ったのだ。


(きっと気を使ってくれたのね)


 そう思いつつも、気持ちが浮き立つのを止めることはできない。

 ルイのことが好きで、彼に手作りの菓子を食べてもらって……だがその先はない。

 それがわかっていても、今だけは好きな男のために料理をする幸せを噛みしめようと、エマは心の冷静な部分で思っていた。

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