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15、作り物の花

 それからの日々は、一気に色彩を欠いたものになった。それはエマにとっても、ルイにとってもだ。

 せっかく仲良くなったはずだったのに、ルイがエマに対して心を殺して接するだけで、二人の間にあった暖かな空気というものは消え去ってしまった。

 朝も、肩を揺すっただけでルイはサッと部屋からいなくなる。朝食のあと、エマが小鳥と戯れに行くのも、もうルイは関知していない。

 エマが候補者の誰かと出かけるときも、気配を消せる限り消して、遠くから見るにとどめている。

 そうしなければ、ルイの心がもちそうになかったのだ。近くでエマのことを見れば、彼女もまたルイを見つめ返してくる。あの無邪気な若草色の瞳が自分のことをまるで縫いとめようとするかのように見てくるのが、ルイにとっては苦しいことだった。だから、言ってみればルイはそんなエマの視線から逃げているのだ。

 ルイは、自分がエマに惹かれていることを自覚してしまった。

 教会が人心の安定のために利用するだけの少女だったのに。その少女は、影響力があるからというだけでもうすぐ誰かと結婚させられるのに。

 エマのお目付役としてルイが選ばれたのは、いざ彼女の身に何かあったときに守れるだけの実力があるというのも理由だろうが、それ以前に決して彼女に靡かないと考えられていたからだろう。

 教会に恩義は感じているが、他人に関心を持って接したことがない。家族も友人も持たず、それでいてその美しい顔で人の輪に入ることはいつの間にか得意になっていた。

 そんなふうだから、誰かを好きになったことなどなかったし、これからもないと信じていた。

 それなのに、いつの間にかひとりの少女に心惹かれていた。ちっぽけな、何も持たない少女に。

 ルイはクリスの言っていた「有り体にいえば魔女だ」という言葉を思い出した。

 魔女というのは人外の血がどこかで入った血統で、人を惹きつける魅了の力を持つ者もいるという。

 きっと、その魅了の力にやられたのだろうーールイは、自分の気持ちをそんなふうに片付けようとした。

 自分は誑かされたのだ、と。見えざる力に逆らえなかっただけなのだ、と。

 そう思わなければ、とてもではないがエマのそばに居続けることができなかったのだ。


 だからといって、ルイは恋心を手放そうとは思っていなかった。エマに悟らせることは避けなければならないが、忍ぶ恋なら許されるだろうと、そんなふうに思っている。

 最初から、誰かと添うことなど自分の人生に望んでいなかった。だから、永遠に片思いでも構いはしないのだ。むしろ、自分が誰かを思えるのだというそれだけで、一生手に入らないはずだった宝を得たような気持ちになっていた。

 ほんのひとときでも、思いを通わせることができた。それを大切に抱いてこれからを生きていこうと思っていたのだ。

 毎日その日の終わりに、懐に忍ばせた作り物の花を手に取り、愛する少女のことを思い出す。

 これから一生、まるで何かの儀式のように繰り返し繰り返し、その花を愛でるだけで十分だとルイは思っていた。


 ある夜、意外な人物からの訪問を受けたのも、そんな密やかな儀式の最中だった。


「ルイさん」


 ノックの音とともに聞こえてきたのは、柔らかな少年の声。そんなふうに呼ばれることなどないが、その声には聞き覚えがあった。


「エルマー様ですか? どうぞ」

「すごい。声だけでわかっちゃうんだね」


 無邪気な訪問者は、心持ち声を潜めて部屋に入ってきた。その様子を見る限り、どうやら夜遅くにエマを訪ねてきたというわけではないらしい。


「遅くにごめんなさい。でも、こんな時間じゃなければあなた(・・・)とお話するのは難しいかなと思って……」


 どうすれば良いかわからず部屋の入り口でもじもじする少年に、ルイは仕草だけで椅子を勧めた。エルマーは素直にそれに従い、ルイと向き合うように腰掛ける。


「それで、どうされたんですか?」

「ハーロルト・キーンツが変な女と一緒にいるのを見たから、報告したほうがいいだろうと思って」

「変な女?」

「うん。自分のことを美人だと思ってそうな、何か妙な女。化粧が濃くって、香水臭くて、下品なのに淑女ぶってるんだ。エマ様のお兄さんの元婚約者だとか触れ回ってたよ」

「ああ……コリーナとかいう人でしたか」


 放っておくとエルマーの口から次から次へと無邪気な悪口が出てくるのではと、ルイは勝手に心配した。だが、ようやく誰のことか判別できる内容が出てきて内心ホッとする。エルマーの口調は無邪気なだけに辛辣だ。そして、なぜか傍で聞いているほうが焦りを覚えるほど迷いがない。


「そう、そのコリーナっていうのがハーロルト・キーンツと何やらこそこそしてるのを見ちゃったから。エマ様に何かあったら嫌だから、こうして知らせに来たってわけ」


 よく聞けば、キーンツ氏も呼び捨てだ。このことからエルマーが彼のこともよく思っていないことがわかる。


「ああいう騒ぎが好きそうな女のことだから、花の乙女に求婚していた男を掻っ攫ったとかなんとかで、また人の話題にのぼりたいって思ってるんだと思うよ。エマ様のお兄さんと結婚しようとしてたのだって、きっと目立ちたいからだよ」

「そのようなことが……」

「あるの! ルイさんだって、世の中の汚いこととかよく知ってるからわかるでしょ? 醜聞すら自分が勝ち上がるために利用するような人間がいるってこと」

「それは……確かに」


 知らないとかわからないといった返答を許さないようなエルマーの雰囲気に、ルイは言葉を濁した。そういった質の人間がいることは想像がつくが、果てしてそれがエマにどう関わるのかということがいまいちわからない。

 だが、目の前にいるのは無邪気に見えても貴族。おそらく、ルイが知らないような貴族社会特有の駆け引きにも通じていて、そのせいで様々なものがよく見えるのだろう。


「いつだって人の注目を浴びたいって人間はいるんだ。そういう類の人間は、そのうち注目の質すら問わなくなる。でも……できればもう一度、ヒロインの座につきたいって思ってるんだろうけど。そういう人が、これからどんな行動をとるかわかる?」


 愛らしい笑みを浮かべているのに、エルマーの声は不思議と低く冷えて聞こえた。もしかしたら試されているのかもしれないと、ルイは思わず身構える。


「それはつまり、今自分より目立っているエマ様に何らかのことをして評判を落とさせる……といったことでしょうか」


 ルイの返答を聞いて、エルマーは薄く笑った。どうやら及第点はいただけたらしいが、大正解というわけでもないようだ。


「エマ様を利用したいっていう教会の人間としては満点の解答だね。さすが」

「そうですか……」


 この少年は、一体何を、どこまで知っているのだろうとルイは思った。だが、動揺したことは決して悟らせない。潜った修羅場の数ならルイのほうが上だ。だから、曖昧に微笑んで首を傾げてみせた。

 エルマーはそれに対して微笑み返しただけで、追及する気はないらしい。


「まぁ、とにかく、エマ様の周りを良からぬ考えを持つ人間がうろちょろしてるってことは頭に入れておいて」

「わかりました。わざわざご報告、ありがとうございます」


 エルマーの満面の笑みに、彼がもうこれ以上のことは教えてくれないのだということを悟って、ルイは素直に頭を下げた。無邪気に見えてもさすがは貴族。きっとお腹の中は真っ黒なのだろうと、ルイは目の前の愛らしい少年に対する評価を改める。もちろん、良い意味で。彼ならきっとニコニコとしながら、エマの気がつかないことにまで気づける良い夫になるだろう。候補者の中で最年少というのも、懸念事項ではないかもしれない。


「可愛くて何にも知らないエマ様が、余計な奴らによってケチをつけられるのは嫌なんだ。だからさ、虫はちゃんと追い払っておいてよね。あ、ハーロルト・キーンツはいいや。エマ様はあいつ狙いじゃないから、そもそも論外」

「……わかりました」


 歌うように言い放つその無邪気さに、ルイは深い深い闇を見たような気持ちになった。様々な修羅場を掻い潜り、その結果、腹の中は黒ずんでいる自覚はあるが、ここまでおぼこいふうを装える人間に対峙すると恐ろしくなる。


「貴族の三男なんて、人の嫌な面ばかり見えてくるんだよ。だってまず、一番上の兄さんと僕の扱いが違うんだから。小さな頃から、女の子たちはみんな兄さんにニコニコする。大人も、次期当主には気に入られたいけど、将来家を出る僕はどうだっていいんだ。だからね、僕はそのぶん、思惑を持つ人間を見抜けるようになったんだよ」


 用は済んだはずなのにエルマーは帰る気配がない。それどころか、ルイを相手に勝手に語り始めた。どうやらこの猫かぶり少年は、まだルイに話したいことがあるのか、正体を明かして気安くなった相手に愚痴りたいらしい。


「三男で、誰からも重く扱ってもらえない僕だけど、母さんだけは優しいんだ。というより、一番美形の僕が可愛いらしい。残念ながら兄さんたちは父さんに似て男らしいけど美男子とは呼べないから。それでね、母さんは小さな頃から僕に言い聞かせてきたんだ。『お姫様と結婚しなさい』って。それで、僕はずっとお姫様と結婚したいと思ってたんだ」


 エマが夢見がちと表現したのはこの顔だったのか、とルイは妙に感心して思った。

 目の前のエルマーは先ほどまで浮かんでいた黒い表情から打って変わって、はにかみ目を輝かせている。その様子を見て、本当に彼が憧れを持ってエマに接していることがわかる。


「この年になれば、母さんが言っていた言葉の本当の意味はわかるよ。ようは、婿養子を必要としてる貴族の娘と結婚しろって言う意味だったんだよね。でも……できるなら僕はお姫様と結婚したいんだ。高貴な身分のって意味じゃなく、存在がお姫様な女の子と」

「それで、花の乙女の結婚候補に……」

「うん。エマ様はまさにお姫様だよ。森に住んでる、妖精のお姫様」


 エルマーの言葉は、まるで告白だった。薔薇色の頬をして、本当に恥ずかしそうに話す姿は年相応の少年だ。

 人の醜いところを知った少年が、それでもなおこんなふうに誰かを思えるのかーールイは信じられないようなものを見る目でエルマーを見つめた。だが、エルマーに対して思ったことはそのまま自分にも当てはまるということをルイは気づいていない。


「エマ様って、素直で、考えてることがすぐに顔に出て、でも優しくて良い子だよね。……初恋にはぴったりの相手。ね、ルイさん?」


 相槌を必要としないひとり語りだと思って耳を傾けていたのに、突然問いかけられルイはわけがわからなくなった。

 しかも、少し前まで幸せそうだった少年の顔が、淋しげに揺れているのだ。

 なるほど、この子は女性の庇護欲をくすぐるのがうまそうだと、的外れなことを考えながらルイはエルマーを黙って見つめた。


「初恋は大体実らないっていうし、結婚とは関係ない幸せな恋を心に持っていたほうが人生は楽しいっていうよね」

「……そうですね。美しい思い出があれば、その後も生きていけますから」

「そう。僕、もっと大人になって不本意な結婚をさせられても、エマ様のことをずっと心の中で大切にしていくから、きっと平気」


 ルイは、この愛らしい少年も懐に作り物の花を抱いて生きていこうとしているのだと悟った。そして、ルイがそう決めているのを知られているということも理解した。

 エルマーはきっと、ルイを同志とみなして、こうして秘密を打ち明けに来たのだろう。そして、それが初恋への決別を表明するためだということもわかった。


「もう、冬が来たね。あとは春になるだけだね」

「そうですね」


 別れが近いのだなと、エルマーの言葉を聞いて改めて思う。エマが誰かを選ぶのも、もう時間の問題なのだ。彼女はきっと、役割をきちんと果たすだろう。そうすれば、ルイはお役御免だ。

 仲間意識を感じてくれているのなら、すべて終わったときこの少年と肩でも叩き合おうかーーそんなことを考えて、ルイはエルマーを見た。

 だが、エルマーは厳しい視線をルイに向けていた。もはや、黒さを感じる笑みすら浮かんでいない。


「僕はエマ様に幸せになって欲しいんだ。だから、エマ様の恋が実ればいいなって思ってるよ」

「それは……そうですね」

「まぁもちろん、まだ僕が選んでもらえるかもしれないから頑張るけどね」


 ルイの顔から胡散臭い笑みが外れかかっているのを見て、エルマーは満足そうに椅子から立ち上がった。そして、音を立てぬよう猫のようにするりと、部屋から出て行ってしまった。

 残されたルイは、懐から取り出した花を見つめジッと考えた。

 考えるまでもなく答えが出ていることを。


(この手は、汚れすぎている)


 白く光る作り物の花を手にとって、ルイは思った。

 それは、彼にとってはエマの手を取れない十分な理由だった。


(与えられるものは何もない。その上真っ当な人間でもない。そんな俺が、好きな女のために何をしてやれる?)


 可憐な花を白々しく見せてしまうほどに汚れきった手を見つめ、ルイは自嘲するだけだった。

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