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14、くっついて、また離れて

 朝、パチっと目が覚めた瞬間にエマはあることを思いついた。目覚めて、視界にルイをとらえたそのときに思いついたのだ。

 だから、朝の挨拶よりも何よりも先に伝えたくなって、エマはその思いつきを口にした。


「ルイ、今日は私、お休みしたい」

「え?」


 ルイはエマを起こすためにベッド脇で中腰になった姿勢そのままに、エマを見つめることになった。魔術で冷水を浴びせなくなった代わりに、そっと肩を揺すって起こすようになったのだ。だから、その手は肩に触れたままである。


「どうしましたか? また熱でも?」


 肩に触れていた手を額に移し、ルイはエマの体温を計る。だが、手のひらに感じるのはごくごく普通の人肌で、エマがいたって健康なことを伝えてくる。


「違うの。今日は候補者の誰かと会うんじゃなくて、ルイと過ごそうと思って」

「私と、ですか?」

「うん。だって、私が毎日誰かといると、ルイはそれについて回って見ていなくちゃいけないから大変でしょ? 休みがないってことじゃない」

「それは……」


 ルイがついて回っていると言うのは半分は当てずっぽうで言ったことだった。だが、ルイの反応を見る限りどうも本当のことだったらしい。

 ルイはまさかエマが自身の尾行に気づいているなどとは思っていなかったため、しばらくどう反応すればいいかわからずにいた。

 だが、気づかれたところでどうしようもないしどうということもないため、それには触れないことにする。


「そうですね。たまには候補者の方々と会わない日があってもいいかもしれません。会えない時間が愛を育てるとかなんとか言いますし」

「じゃあ決まりね。町を歩きましょ」


 エマは目の前のアメジストの瞳にかすかに喜びの色がさすのを見て取って、嬉しくなった。昨日、自分を見つめる視線の中に言い知れぬ痛みを感じてから、エマの心はずっとそのことでいっぱいだ。

 何となく、あの目はさせたくない。あの目で見つめられたとき、エマは自分もどこか痛いような気持ちになったのだ。痛くて苦しい、そんな気持ちに。

 だから、この胡散臭いお目付役を今日はとことん楽しませたいと思ったのだ。

 あまり笑わないし、表情からは本音というものがわかりにくい男だ。だが、夏の終わりから顔を合わせるようになって、秋になってからこうして同じ建物で寝起きするうちに、だんだんとこの男の考えていることがかすかな変化の中から読み取れるようになってきた。

 だから、そのわかりにくい表情の中でも嬉しそうなものを見せると、エマも何だか嬉しくなるのだった。


 ルイのほうはと言えば、正直言ってエマの申し出には戸惑っていた。

 熱を出して数日寝付いてからは、覚悟が決まったのか候補者たちとの接し方が変わってきていた。恋愛というものを前提に置かなくなれば、候補者たちとの向き合い方も変わってくる。だから、それぞれの候補者たちと結婚したあとの利点と、性格が合うか合わないかという部分を考えて振る舞うようになったとばかり思っていたのだ。

 それなのに、ここにきての「お休みしたい」などという言葉にルイは少しわけがわからなくなった。もうすぐ冬が来る。花祭のことを考えるなら、もう誰かひとりに決めなければいけない時期は近づいてきているのだ。

 だが、自分と出かけることになって、いそいそと今日着るものを選ぶエマの姿を目の前にすると、嬉しくないわけではなかった。

 これまで、女性と連れ立って歩いたことなどあっただろうか。教会に拾ってもらった恩を返すためにひたすらに生きてきたルイは、女性と言わず他人と深く関わったことすらなかったのだから。

 ひとところに留まって生活したこともない。

 太陽の下を出歩くことだってほとんどなかった。

 だから、エマと一緒に歩くのは嬉しくないわけがないのだ。


「ルイ」


 物思いに沈みかけた思考を、無邪気な声が引き戻した。よほど険しい顔をしていたのか、ルイを見るエマの目は心配そうだ。

 それを見て、ルイは慌てて顔に笑みを貼り付けた。


「なんでしょう?」

「こっちのブラウスとこっちのワンピースならどっちがいい?」


 二着手に取って、それを交互に体に当ててそんなことをエマはルイに尋ねた。これが世の女性が男性を悩ませるという例の質問かなどと思い、ルイは小さく笑った。


「今日は少し冷えそうです。風邪をひかない格好でしたら、どちらでもいいのでは」


 明らかに望むものとは違う回答をすると、案の定エマは頬を膨らませた。


「そのようなことをおひとりで決められないだなんて、将来エマ様の夫になる人は大変ですね」

「……ルイの意地悪」


 不服そうに服をしまうと、エマはルイの背中を押し始めた。着替えるから出て行けということなのだろう。

 そんな子供じみた仕草に、これでもうすぐ結婚するのかと呆れつつも、自分が口にした「夫になる人」という言葉にルイは心がざわついていることに気づいてしまった。


 花の季節に、この少女は嫁ぐ。

 春になるたびにきっとこの薄桃色の髪や若草の瞳を思い出すことになるだろうに、その季節を彼女と過ごすことはないのだ。

 そのことを思うと、ルイは息が止まりそうな心地がした。






「何か欲しいものがあるんですか?」


 朝食を済ませ神殿を出ると、エマは一目散に市場へ向かった。このワルデルゴーの中で最も栄え最も賑やかな場所へ、迷いなく進んでいく。


「この前来たときに、すごく可愛い髪飾りを見つけちゃって。これまではずっと三つ編みだったから必要なかったけど」


 そう答えるエマの髪は今日もゆるくまとめられているだけだった。まるで強固な鎧のように彼女の右肩を守っていた三つ編みを解いてしまうと、ずいぶんと彼女の顔立ちは華やかになった。

 髪型ひとつでここまで変わるのだ。それなら髪飾りにもこだわりたいだろうと、ルイはどこか感心して思う。


「それなら、この前来たときに購入すればよかったじゃありませんか」


 両親からの言いつけでエマには最低限の金銭を持たせているし、あのときはテオとユリアンが一緒だった。買えないことはなかったはずだし、ねだればどちらかが買ってくれただろう。だが、そのことを不思議に思うルイにエマはわかってないと言いたげな顔だ。


「誰かと一緒のときに何か買い物をしたら、きっとその人が出すって言うと思うの。そうやって誰かに何か買ってもらったら、他の人たちも何か送るって流れになってしまって、それって最後は贈り物合戦になっちゃって、経済力がある人の勝ちってなってしまうでしょ? そういうの、嫌だなと思って……」


 お母さんの若い頃の話を聞いて思ったんだけど、と最後に小さな声で付け足すエマをルイは好ましく思った。

 ようは、男に貢がせたくないということだろう。感心なことだ。エルマーからの贈り物にも戸惑っていたのも、趣味が合わないからというだけではなかったらしい。


「それなら、今日はゆっくり選べますね」

「うん!」


 元気良く頷くと、エマはひとつの店に吸い寄せられて行った。市場が見えてきてから、ずっとエマの足はそちらへ向いていた。脇目も振らずにここまで来たのは余程欲しいものがあったのだろうと、ルイの頬はまた緩む。

 それは小さな店で、エマとルイが入ると、あと数人やってきただけでギュウギュウになってしまいそうなところだった。そんな狭い店内に、ズラリと置かれた平台と天井近くの壁にまでアクセサリーが飾られている。一目見ただけで貴族が持つような本物の貴金属ではなく、庶民の、しかも年若い子たちが買える程度の手頃なものだとわかる。

 エマはふたつほど髪飾りを手に取って、真剣な顔で悩んでいた。

 ひとつは光沢のある貝の殻で花弁を作った花の髪飾り。もうひとつは金属細工と紫色の硝子玉でできた蝶の形の髪飾り。どちらかといえば花のほうが似合いそうだとルイは思ったのだが、エマの視線は紫の蝶に長く注がれていた。


「そちらにしますか?」


 ジッと手元を見つめたまま動かないエマにそう声をかけると、なぜだかひどく驚いて、少し赤くなった顔でルイに向き直った。


「……似合うかしら?」

「ええ。エマ様の髪によく映えると思いますよ」

「じゃあこれにする」


 笑顔で店の者のところに行くエマを見て、ルイは今の返答は正解だったのかと安心した。

 それから、エマが買わなかったほうの髪飾りを手に取った。白い花を思わせるその髪飾りがエマの髪の上で輝く様子を思い浮かべて、こちらも捨てがたいと思えてしまう。

 だからルイは、会計を終えたエマが店内の別のものへ目をやっているすきに、それの代金を店の者へと払ったのだった。

 そして、それをそっと懐へ忍ばせた。明らかに女物のそれを身につけるつもりはない。だが、エマに贈る気もなかった。

 これは、胡散臭いこの教会の使者の感傷だ。花の季節を前に別れる少女を白い花になぞらえて、これから肌身離さず持ち歩く気でいるのだ。

 しかも、自分でもその意味を理解していない。

 しなければならないこととしたいことの乖離が、この冷徹に見える男に自身でも理解できない行動を起こさせていた。



 お目当てのものを買って、上機嫌で店を出て、さあどうしようかとエマは考えた。

 そろそろお腹も空いてきた。さきほどの店で結構悩んで時間を使っていたらしい。ルイは何も言わないし、機嫌も良さそうだ。だが、それでもそろそろ座って休憩したい。お茶か昼食に行くか、何か買って森で食べるか……そんなことを考えてエマが歩いていたそんなとき。

 思いもかけない人物がエマの目の前に現れた。


「エマ! まぁ、エマじゃないの! 大きくなったわね!」

「……コリーナ?」


 突然目の前に現れた人物は、感極まったようにエマを呼ぶと、そのまま抱きしめてきた。

 華やかな装いの、大人の女性。柔らかく良い匂いのその人とは、四年前別れたきりだった。


「帰ってきていたのね……」


 コリーナと呼んだその女性の腕から解放されても、エマはぼんやりとしたままだ。信じられない気持ちで彼女を見つめる。

 一方コリーナのほうはエマの視線に気づきもせず、艶のある唇をキュッと笑みの形にする。だが、目元は困ったような悲しいような、そんな表情を作っている。


「ええ。……エマが結婚させられるって聞いて戻ってきたの。ああ、可哀想に……! 四年前、私がアウロスと結婚していたら、まだ年若いあなたがこんな目に合わなくてすんだのに!」


 コリーナはエマとルイを相手取り、妙に芝居がかった様子で自分の胸の内を吐露し始めた。

 いかに自分がアウロスを愛していたかとか、四年前の出来事はすれ違いや不幸な誤解が重なったことだとか。そして、エマを本当の妹のように可愛く思っていたとか、そんなことを語った。


「私、エマが可哀想で可哀想で……だって、こんなふうに見世物みたいに、誰と結婚するかだなんて話題にされて……いくら花祭のためとはいえおかしいわ!」


 瞳を潤ませ、エマの手をギュッと両手で包み込んで見つめてくるコリーナを、エマはどこか心が冷めた状態で見つめ返していた。

 この人は、一体誰なのだろう? 本当に、アウロスが四年前に愛していたコリーナなのだろうか? そして、この人は一体何を言っているのだろうか?

 可哀想という言葉がこれほどまでに嫌な響きとして耳に届くものなのかと、エマは何だかおかしくなった。幼いとき、転んで膝を擦りむいて泣いて、クリスやアウロスが「よしよし、可哀想に」と言ってくれるのはあんなに嬉しかったのに。


「……コリーナ、ありがとう。でも、私はそれなりにやれてるから。心配してくれなくても大丈夫よ」


 握ってくる手をそっと押し返しながらエマは言う。その顔に浮かんでいるのは、イルゼによって躾けられた行儀の良い笑みだ。親しいものには決して見せることはない、よそ行きの顔で、エマはコリーナから距離をとる。


「そんな……無理しなくてもいいの。私には本当のことを話してくれてもいいのよ? そうだ、アウロスは何て言ってるの? エマがこんなことになって、あの人が黙っているはずはないわ!」

「兄さんは知ってます。別に何も言ってきません。それに、私は無理矢理させられているわけじゃないから、可哀想じゃありません」


 しつこく追いすがってくるコリーナがうっとうしくて、ついにエマはルイの後ろに隠れた。小柄なエマはそうすると長身のルイの影にすっぽり入って見えなくなってしまう。

 エマの意図を察したルイは、そのままコリーナの視界からエマを守って歩き出す。


「……胸糞悪い女ですね。ああいう、どんなときでも目立つ舞台に上がりたがる人間はいるものです」

「目立つ舞台に……そういうことだったの」


 歩きながら悪態を吐くルイの顔を驚いてエマは見つめた。コリーナという女の実態が四年の歳月を経て理解できたことよりも、隣を歩くルイの表情のほうが気になった。いつも涼しげな美貌の男が、不快感を露わにしているのだ。


「本当に、気分が悪くなる女でした。唾でも吐いてやればよかった」

「ルイ、あなたもそんなお行儀の悪いことするの?」

「エマ様のご命令とあらば、今からでも吐いてきますよ?」


 悪い顔をして言うルイが何だかおかしくて、エマは声を出して笑った。信じられない。胡散臭い笑みを浮かべるか無表情かどちらかのこの男が、そんな顔をしてそんなことを言うだなんて一体誰が想像しただろうか。

 笑っているうちに、コリーナに言われたことで胸の中で渦巻いていた感情が霧散していくのがわかる。

 笑い転げるエマを、最初は驚いて見ていたルイも、そのうちに呆れた顔になり、そしてついには一緒に破顔した。

 そのおかげか、そのあと昼食のときも、神殿に帰る道のりもとても和やかだった。

 穏やかで、暖かな時間だった。


 だから、エマもルイも気持ちが緩んでしまったのだろう。

 神殿に帰り着いてから、エマは鏡に向かってすぐに今日買った髪飾りをつけてみた。ゆるく結った髪を繊細な蝶が飾るのを見て、エマの心は弾んだ。

 鏡の前で体を揺らし、様々な角度から蝶を見るエマの姿があまりにも無邪気で、傍らにいたルイもつい顔が緩んでいた。その顔は、完全に優しい保護者のそれで、ルイを昔から知る者が見ればひどく驚いただろう。


「春の花に蝶が止まったみたいですね」


 優しい顔をしただけではなく、ルイの口からはそんならしくもない言葉が零れ出た。

 あとわずかに声が小さければ、あるいはエマがもう少し蝶に夢中になっているときであれば、その言葉は聞き漏らされて、単なるルイの独り言で終わったのだろう。

 だが、ルイの呟きはしっかりとエマの耳に届いていた。

 ルイは、鏡ごしにエマの頬が真っ赤になるのを見てしまった。そして、同じように自身の顔にもかすかに紅がさしたことに気がついてしまった。

 たっぷりと一分以上見つめあって、先に視線を外したのはルイのほうだった。エマは恥ずかしそうにしていながらも、期待を込めた眼差しでずっとルイを見ていた。おそらく、どちらも何かが始まるという感覚を持っていたのだ。

 見つめあって頬を染めた、その先にあるものを確かめるのは簡単なことだった。

 それなのに、ルイは扉の目の前まで来たのに、あっさりとそれを閉めてしまった。きっと、鍵をかけて二度と見る気などないのだろう。


 その証拠に、この夜を境にルイはエマを見ないように努めはじめた。まるで出会ったばかりの頃に戻ったかのように、ルイの顔にはあの胡散臭い笑みだけが常に張り付いているようになった。

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