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13、心ほどいて

 窓辺の椅子に腰掛け、エマは髪を指に巻きつけ弄んでいた。

 編んでみては解き、また編んでみるを繰り返しているのだが、どうにもしっくり来ないのだ。髪型が決まらないなんてことは、三つ編みにするようになってから一度もなかったことなのに。

 戒めのような三つ編みをルイの指が解いてしまってから、何だかもう一度編む気になれないのだ。


 傷痕を隠すために編んでいた髪を、事もなげに昨日ルイは解いた。傷痕を見て、隠す必要はないとも、目立たないとも言ってくれた。

 これまでエマは自分のためというよりはクリスのために隠していたつもりだった。

 だが、ルイの言葉に救われたということは、エマも傷を隠していたかったのだろう。

 ルイの指先は、そんなことを暴いてしまったような気がして、エマの心は落ち着かない。


(男の人の指だった……)


 髪に触れた感触と間近で見た姿を思い出して、エマはうっそりとする。

 綺麗な容姿に似合わず、ルイの指は太く節くれだっていた。繊細さとは真逆の、逞しい指だった。

 エマのよく知っている男の人と言えば、ダニエルとアウロスとクリスくらいだ。その三人のうちルイに最も近いと言えば、美貌の兄アウロスだろうが、彼の指は容姿に似合う華奢なものだ。

 体を鍛えることよりも魔術に傾倒していたため、男性のものに違いないが、逞しいとか強そうという印象は決してない。

 だから、エマはルイの指に驚いていた。あの手は、力仕事を知っている手だ。たくさんのことをしてきたことがある手だ。

 顔と手とのその印象の隔たりは、不思議とエマの心を掻き立てていた。

 暴かれたというだけでなく、あの指に触れられたと思うと、エマはもう一度元のように結うのをためらってしまったのだった。


 それに、解いた髪をルイに褒められたのだ。

 今朝、森の中で小鳥と戯れているところにやってきて、「結っていないほうが、似合っている気がします」と言われたのだ。朝食の席では、何も言わなかったのに。

 眩しいものを見つめるようなその眼差しに、エマはたまらない気持ちになった。体の奥底が騒がしくなってどこかへ駆け出したいような、胸の中心がつかえて苦しいから叫び出したいような、それでいて何ひとつ自分の中から零したくないような、そんな気持ちだった。

 部屋に帰ってきて、候補者の誰かが会いに来る前にいつものように三つ編みにしてしまおうと思ったのに、結局今もできないままだ。

 結ったら、ルイの指の感触を忘れてしまいそうで、何だか嫌だったのだ。お風呂に入って髪も洗って、何かついていたところでとっくに落ちてしまっているのに。



「エマちゃーん!」


 窓の外から呼ぶ声がする。ちょうど何度目かの挑戦ののち、もう結うことは諦めようとエマが思ったときだった。

 こんな呼び方をするのはひとりだけ。案の定、窓の外へ視線をやると、そこにいたのはユリアンだった。それと、テオもいる。

 二人はエマがいる二階の窓を見上げ、手を振っていた。


「今日はさ、武術の稽古と楽器の稽古しようよ。何かを教えたり教わったりするのって、人との距離がグッと縮まっていいものだよ」


 エマが下へ降りていくと、にこやかにユリアンが言う。だから、エマは迷うことなく頷いた。


「うん! 楽しそう」

「教えると言って延び延びになってしまっていたからな。護身術なら、女性や子供にとって大事なことだ。本気で教えよう」

「ありがとう!」

「じゃあ、ユリアン相手にやっていくからしばらくは見ていろ」


 テオがそう言うと、ユリアンは楽器を置いて構えをとった。どうやら、講義の流れはここに来るまでの間に二人で決めていてくれたらしい。

 ユリアンは変質者や物盗りになりきってテオへ襲いかかった。そのたび、女性としてテオは応戦する。別に女性になりきってなよなよとするわけではなく、歩幅や体格差によってできる動きの弱点を補って、相手に痛手を負わせる術を教えてくれるのだ。

 足払いや急所への攻撃など、いかに時間を稼いで逃げのびるかということに重点を置いてテオは講義を進めた。暴漢に襲われたらどうやって倒してやろうと思っていたエマにとっては、いかにして逃げるかが何より大事だと知ったことが一番の勉強だった。


「知識として教えはするが、逃げることを第一とすることは絶対に忘れないでくれ。勝てるなんて思ってはいけない。とにかく逃げるんだ」

「わかったわ」


 練習相手になってくれているテオが何もしないでいるのをいいことに、エマは負けん気を発揮していた。何とか一本取ろうとムキになったため、困った顔で諌められてしまった。


「エマは楽器の練習をしたほうがよほど護身になるだろ」


 躍起になっていたところに、聞き慣れた声がかかる。声のほうに視線を向けると、そこには不機嫌そうな顔をしたクリスと、その背に隠れるように立つエルマーがいた。


「昨日、微妙な空気のまま帰ったからさ……こいつも、エマに謝りたいってこの辺うろうろしてたから連れてきた」

「そうなの……気にしなくていいのに」


 エマは不機嫌の中に戸惑いを隠したクリスを見て、それから後ろのエルマーを見た。叱られる前の子供のような顔が可哀想で、エマは乱れた髪を耳にかけ、微笑んだ。今日は襟付きのワンピースを身につけているから傷は見えないはずなのだが、エルマーの視線がエマの顔と肩を交互に見ていることに気づく。


「昨日はちょっとびっくりしちゃったの。ごめんね、あんな態度をとってしまって」

「僕こそ……エメランツィア様が嫌がることをしてしまって……」

「いいのよ。ドレスもアクセサリーも、ありがとう。素敵な男性からの贈り物は大歓迎よ」


 エマがにっこりとすると、ようやくエルマーも安心したらしく笑顔を浮かべた。その目は夢見る瞳ではなく、きちんとエマの姿を捉えている。


「なになにー? 喧嘩でもしてたの?」

「喧嘩じゃなくて、昨日ね、私の肩のところの傷をエルマーが見てしまって、それで驚かせちゃったの」

「あらら。エマちゃんお転婆だね。まぁ、残っちゃってる傷痕って案外誰でもあるよね。ほら、俺も」


 わずかに残る気まずさを感じとってくれたユリアンが、話の輪に加わった。エマの言葉に察することができた彼はニコニコしながら袖を捲り上げ、肘の傷を見せる。そこには彼がそれなりに腕白な少年だったことを思わせる見事な勲章があった。派手に転ぶか何かしてついたのだろう怪我の痕は、質感の違う皮膚としてそこにある。


「そんなことなら、俺は仕事柄傷だらけだ。まぁ、この脛の傷はガキのときに木から落ちてついたものだが」


 そう言ってテオがズボンの裾を上げて見せたものはなかなかの傷だった。おそらく木の幹に勢いよく脛を擦り付けたのだろう。かなり大きな裂傷の痕だ。

 その傷を見て一堂感嘆の声を漏らす。傷の話は、いつの間にか勲章の見せ合いのようになっていた。


「僕も、服の下なのでお見せできませんが、太ももに痣があります。乗馬の練習中に馬に落とされちゃって、石が刺さったんです。たくさん血が出て、すごく痛かったんですよ」

「まぁ……エルマーにも傷なんてあったのね。何だかあなたはどこもかしこもすべすべそうだと思ってた」

「そりゃ、僕だってヤンチャはしますし」


 ニキビもそばかすもないつるりとした顔を見つめてエマが言うと、エルマーはなぜだか誇らしげに答えた。可愛らしい顔をしているが、こういうところはしっかりと男の子らしい。


「無傷の人なんて、なかなかいないわよね」


 その言葉は何の気なしに出たものだったが、クリスはハッと打たれたように顔を上げた。エマを見ると、まるで何も気にしない顔で笑っている。

 それでも、自分の胸の中にある気持ちが動かないのを感じて、クリスはもうはっきりと悟るしかないのだった。エマを守りたいという気持ちは、傷痕の負い目から来ていたのではないのだと。



「じゃあそろそろ、楽器の練習をしようか」

「ユリアンの楽器、僕触って見たかったんです」

「よし。じゃあ最初に教えるのはエルマーだ」


 ユリアンの呼びかけを合図に、楽器教室が始まった。最初はユリアンがエルマーの向かい側に座り、手元をよく見せてやった。エルマーはさすが貴族の息子らしく、教わることに慣れていた。ジッと見て、同じことを繰り返しやってみるということがとても上手だった。エルマーという素直で良い生徒を相手取り、ユリアンはエマたちにも自分の愛用の楽器の弾き方を軽く教えてくれた。

 ユリアンの楽器は、果実を半分に割ったような胴に太く短い棹が渡されている。その棹には細い弦が十数本張られており、それを優しく撫ぜることで音を出すのだ。


「優しく撫でてね。女の子に接するのと同じで、乱暴なのはダメだよ」


 他の人間が言えば、あるいは状況が違えば、いやらしく聞こえただろう言葉だったが、ユリアンが愛おしげに弦を奏でる様子は誠実さに満ちている。

 エルマーも教わったとおり、そっと弦を撫で、慣れてくると自分の知っている旋律を奏で始めた。

 それはこの大陸ではよく歌われるもので、聞いているうちにエマは歌いたくなってきた。

 エマがたまらなくなって歌い始めると、それに合わせてユリアンも歌う。

 クリスはその辺の木から取った適当な葉を唇に当て、少し外れてはいるが演奏に加わった。

 力のこもるエマの歌声によって、眺めていたテオも体に力がみなぎったらしく、エマを相手に踊り始めた。そうは言ってもダンスなどやったことはないテオだ。祭のときに楽しくなって踊ってしまうような、そんな気楽なステップで、しまいにはエマを抱えてクルクルと回り始めてしまった。

 テオに高く高く抱えられているときに、エマは二階の自室の窓が目に入った。そこにはルイが佇んでいる。

 無表情あるいはいつもの少し嫌味な顔をしてこちらを見ているのだろうーーそう思っていたのに、ルイの瞳に浮かぶものを見てエマはハッとした。

 まっすぐに注がれる視線。その中には、何かを求める色があった。苦しげで、それでいて優しい眼差し。これまで、そんなふうにしてエマは誰かに見つめられたことはなかった。

 候補者たちさえも、誰もそんな目をしてエマを見ない。見ていたとしても、ルイがエマに注ぐ視線の強さにはとても及ばない。


(ルイは、どうしたのかしら)


 様子の違うルイに何だか不安になって、エマは手を振って見ることにした。

 ジッと見ているはずなのに、ルイの目にはそれが見えていないらしく反応しない。だから、エマはクルクルされたまま彼を呼んでみることにした。


「ルイー!」


 大きな声で呼んで、空を飛ぶような姿勢で手を振ると、ようやくルイにも届いたらしい。

 驚いたように目を見開いたあと、困ったふうに笑って小さく手を振り返してきた。

 だが、その手つきは何だか眩しいものを見たときにそっと目を守る、あの仕草にも似ていた。その証拠にルイの目は細められていて、どこか痛みを堪えるようにも見えた。


(ねぇ、ルイ。どこか痛いの?)


 エマは声に出さずにそう問いかけたが、その視線の意図にルイが気づくことはなかった。

 彼自身も、自分がそんな目をしていることも、何に心が痛んでいるのかも、わかっていなかったのだから。

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