12、暴かれた傷痕
朝の森の中にルイは佇んでいた。
木々の間から射し込む光はまだ弱々しい。空気も身が引き締まりそうに冷たいが、雪国生まれの彼にとってこの大陸の秋は寒いうちには入らない。むしろ、まだ目覚めきっていない体にはちょうどいいくらいだ。
だが、視線の先の少女にとってはどうだろうかと、少し心配になる。
ルイは木をうまいこと遮蔽物にして、エマのことを見守っていた。もちろん、覗き趣味ではなく、あくまで仕事として。
エマの首に繋いでいた鎖の魔術は解いてしまっていた。つけていたとしても呑気な彼女のことだから気づきそうにはないが、無情ではいられなくなったルイが嫌でやめたのだ。もともと、女の首に鎖をつける趣味などない。ましてやそれが、懐かれて情がわいてきた相手にならなおさらだ。
だから、何かあってはいけないと思うのなら、こうして自分の目でしっかりと見張っておくしかないのだ。もっとも、言って聞かせればわかる子だからエマが何か無茶をすることはない。ルイが心配しているのは、候補者やその他の者が彼女に対しておかしな振る舞いをしないかだ。
よほど天気が悪くない限り、ここ最近エマは神殿から少し歩いて森に入ったところで朝食後の時間を過ごしている。
小鳥たちと戯れているのだ。彼女がかすかな声で歌うと、それに呼ばれたように小鳥が降りてくる。するとエマは持ってきていたパンを撒いてやり、さえずりに合わせて一緒に歌を歌う。
淡い木漏れ日の下で鳥と共に舞う姿を初めて見たとき、ルイはひどく驚いた。何か意図があるのだろうかと、なぜエマが歌い踊っているのか理解できなかったのだ。
実は誰かに見せているものなのかと、あたりを見回したことさえある。小鳥と一緒にいる姿が魅力的に映ることを彼女は知っていて、それでわざわざこんなことをしているのではないかという穿った見方をしたのだ。
だが、何日も見ているうちに、それはエマがしたくてしていることなのだとルイにもわかった。
エマは誰かに見られているなどということは全く知らず、候補者からもルイからも、花の乙女という立場からも解放されて、ただ歌いたいままに歌っているということに。
誰に見せるためでもないあるがままのエマは、誰かの前に立つ普段の彼女よりも魅力的だった。子供だとばかり思っていたのに、小鳥を相手に踊る彼女は、そこでは一端の淑女に見えた。
それでいて、いたずら好きの妖精のような、人間離れした存在にも感じられた。金の中にわずかに赤の色素を落とした色の髪や、若草色の瞳が木漏れ日を浴びて揺れる様子は、春の野原を思わせる。冷たく閉ざされた大地で育ったルイが、この大陸にやってきてもっとも感動した景色だ。暖かさや食べ物の豊かさよりも何よりも自然が持つ色の多さに、やってきたばかりの頃の幼いルイは感激したのだ。
そんな、心を揺さぶる美しいものを思い起こさせるこの光景を眺めることが、ルイは楽しみになりつつあった。正直言ってエマが候補者たちと出かけるのを後ろからついていくのは面白くないのだが、エマがこうして自由にしている様子を眺めることはいくらでもしていたいと思う。
だが、いつでもこの時間は唐突に終わりを告げる。エマが飽きてしまえばそこでおしまいになるし、鳥のほうが先にいなくなってしまうこともある。
今日は、訪問者があったためエマはピタリと踊ることをやめてしまった。
「クリス」
エマは、すぐ近くまで来ていた気配に気づき踊るのをやめた。それに合わせて小鳥たちも飛び立っていく。
振り返るとそこに幼なじみの姿をみとめて、恥ずかしそうに笑った。それを見てクリスも笑顔を返す。
「ごめん。邪魔したか?」
「ううん。それより、よくここにいるのがわかったね。もしかして、神殿にいなくて探させちゃった?」
「いや。歌が聞こえたからここにいるんだろうと思って、まっすぐ来た」
「そう。ならよかった」
見られていた恥ずかしさを隠して、エマはクリスと歩き出した。悪いことや変なことをしていなくても、見られるつもりがなかったことを誰かに見られるのは気まずいものだ。
その気まずさから逃れるために、神殿へと帰るエマの歩幅は自然と大きくなる。
一緒に歩くクリスはというと、そんなエマの様子よりも彼女を見つめる視線に気づいて、そちらのほうに神経が行っていた。それがルイのもので、彼が急いで自分たちより先に神殿へと帰っている気配に気づくと、すぐにどうでもよくなってしまったが。
幼なじみの二人は共通の話題が多い。エマが家族の様子を尋ねたり、エマの両親から言付かったことを伝えたりするうちに話は盛り上がっていく。
その日のもう一人の訪問者も、唐突にやってきた。
エマとクリスが神殿に帰りつき、話がすっかり盛り上がっているうちにお昼時になってしまったのだ。だから、ルイと三人で食事をして、午後の時間をまたおしゃべりをしてのんびりと過ごしていた。
そんなときにその人物は訪れたのだ。
「エメランツィア様!」
軽やかな足音とともに部屋に飛び込んで来ると、その人物は無邪気にエマの名を呼んだ。
「エルマー。まぁ、久しぶりね」
「ご無沙汰してました。エメランツィア様に差し上げたいものを用意していたら、すっかり時間がかかってしまって」
「そうなの……」
部屋に飛び込んで来たのはエルマーで、彼の姿を見たときエマは信じられない気持ちになった。なぜなら、たぶんもう来ないだろうと思っていたのだ。候補者の中でわかりやすく邪な考えがなく、それでいて夢見がちだった彼は、自分の理想とエマが重ならないことに気がついてがっかりしただろうと、そう思っていたのだ。
だが、今日こうして訪問してきたということは、どうもそうではないらしい。
久しぶりのエルマーは、両手に荷物を抱えてやってきていた。
「それは何?」
エマは訝しむように、エルマーがここまで運んできたトランクを指差す。大小二つのトランクはどちらも重そうで、何が入っているのかが非常に気になった。
「ドレスと、宝飾品です! この前お会いしたときに、エメランツィア様は着飾ったほうがうんと素敵だと気がついて、母に頼んで送ってもらったんです」
「え? ドレス?」
「はい! ドレスはいちから仕立てさせました」
「え……」
トランクを開きエルマーが広げたものを見て、エマは言葉を失った。
それは淡いピンク色のドレス。襟ぐりが大きく開いていて大人っぽいのだが、袖はフリルがたっぷりとしたベルスリーブで、透け感のある布を幾重にも重ねたスカート部分にはビーズがふんだんに縫いつけられており、全体としての印象は幼い。
はっきり言ってしまえば、生身のエマが着るよりもお人形なんかが着ていたほうがしっくりくる、絵本の中のお姫様のようなドレスだった。
「こんな可愛らしいもの……私似合わないわ」
「そんなことありません! エマ様のストロベリーブロンドにはこの色が一番似合いますし、デザインだって、花の女神をイメージして作らせたんですよ」
エマの戸惑いを一切理解しないエルマーは、ドレスをエマの体に当ててみてうっとりとしている。彼の目にはエマの姿は映っておらず、エマを通して理想の少女を見ているようだった。その視線もエマを落ち着かなくさせるが、何よりも彼女のことを考えられていないドレスの作りが、着ることをためらわせる。
襟の開いた服を着ることはあるが、ここまでのものを着る機会はこれまでなかった。胸元を露わにするということが年頃の娘らしく恥ずかしいというのもあるが、それよりもそういったものを着るときは合わせて髪も上げなければならないのが困るのだ。
細かな違いはあるが、エマはいつも左から流した髪を大きな三つ編みに結って右肩に垂らしている。もうすっかり習慣になって今ではあまり考えることはないが、元々は理由があっての結い方だ。だから、この髪型を変えなければならないのは困る。
「でも……こんなに襟ぐりが開いてる」
お守りのようになった三つ編みを無意識のうちに触りながら、エマはドレスをエルマーに押し返す。だが、そんなことでエルマーはめげない。ただ単に恥じらっているのだと勘違いして、励ますようにエマの肩を掴んだ。
「大丈夫です! 髪も結い上げて、豪華な首飾りをして綺麗な鎖骨やうなじを見せるのがお洒落なんですから」
「やめて!」
「あ……」
撫でるように髪に触れられた手を払いのけ、エマはエルマーの体を押しのけた。その拍子に、三つ編みが背中側に流れた。
そして、エマの白い肩が露わになってしまった。
今日は運悪く、エマは襟のないブラウスを着ていた。肌寒いとはいえストールを羽織ってしまえばやり過ごせるくらいだったため、特に気にせず選んだものだった。
だが、こんなことになるくらいならしっかり肩が隠れるものを着ていればよかったと、エマは激しく後悔した。
エマにとっては、こうしてうっかりしてしまうくらいには気にならなくなっていたことだった。だが、気にする人がいるから、これまで注意深く隠し続けていたのだ。
「あの……エメランツィア様は髪をあげたほうが可愛いって思っただけで……あの、傷を隠してたなんて僕知らなくて……ごめんなさい」
ピリッとした空気と、エマの肩を目にしてしまった気まずさで、エルマーは部屋から駆け出て行った。
すぐそばで様子を見ていたルイは、少しためらったが、もうひとりの人物の動向を見守ることにした。
「エマ……ごめん」
しばらく呆然としていたクリスだったが、エマがまた三つ編みを元の位置に戻そうとしたのを見て、彼女の肩に触れた。そこにあるのは、引き攣れて少し色の違う皮膚。明らかに火傷の痕だ。
エマが三つ編みの下に隠していたのは、幼い頃、クリスの魔術の失敗によって負ってしまった火傷の痕だった。
「いいの! 大丈夫! ほら、こうしたら隠れるし」
三つ編みを指差し笑顔でエマは言うが、クリスの視線は一点に注がれたまま動かない。ずっと、傷痕だけを見ていた。
「なぁ……もうやめよう」
掠れた声でクリスは言う。
「……何を?」
「こんな、見合いとか。誰かにまたこんなふうに傷を晒されて、いちいち説明するの、嫌だろ?」
「でも、結婚しないと、花祭が……」
「結婚なら、俺がしてやるって約束しただろ! お前は俺が責任持って守ってやるって、あの時約束したじゃねぇか!」
「やめて……!」
肩を掴むクリスの手にはギュッと力が込められていて、エマは思わず顔をしかめた。眼差しも見ていると胸の奥がチリチリとしてくるほど苦しげで、ずっとは見ていられない。
エマの傷痕は、クリスにとっても傷痕だった。幼い頃、まだ加減もわからず使った魔術が幼なじみを傷つけてしまったという事実は、長い間少年の心を苦しめている。
女の子の体に消えない傷を負わせるなんてと、周りの大人から言われたこともいけなかったのかもしれない。
クリスは自分のせいでエマが大きな欠陥を持ってしまったと思い込んでいる。だから、一生エマを守ること、一生かけて彼女に償うことが自らの道だと思い込んでいた。
「私……そんなふうにクリスを縛りつけたくないから、今回の話も了承したのよ」
「え?」
ギリギリと両肩をクリスに押さえつけれたまま、苦悶の表情でエマは言う。だが、痛んでいるのはどうやら肩よりも心のほうらしい。ほとんど泣きそうになりながらエマは同じように苦しげな幼なじみを見つめた。
「私、ちゃんと誰かを好きになりたいの。誰かに好きって言われたいの。だから、責任感じて結婚してくれるなんて、言わなくていいよ」
エマの言葉に、クリスは呆然とした。頭をガンと殴られたような気持ちになって、意味をわかりかねている。
「クリス様、今日のところはお引き取りください」
どれだけ待ってもエマを解放しそうにない様子を見兼ねて、ついにルイが間に割って入った。止めなければいつまでもクリスがエマを捕まえたままなのではないかと、本気で心配になったのだ。
クリスはルイの言葉に我に返ったが、それでもショックを受けたのを隠せずにいた。幼い頃のように、エマが無邪気に結婚の誘いに応じると、どこかで信じていたからだ。
「『好きだから結婚してくれ』と言えないあなたは、弱いと思います。とにかく、今日は帰って」
「……わかった」
耳元で説得するようにルイに言われ、クリスはようやく掴んでいたエマの肩を離した。そして、うなだれて部屋を出て行く。
エマは、そんなクリスに何か言ってやりたかったのだが、結局適切な言葉が思いつかず、酸欠の魚のように口を何度か開け閉めすることしかできなかった。
「いっそのこと、『痣なんて気にする男は願い下げ』と言って、晒して堂々と生きてみたらどうですか?」
クリスが去ったあとも動けずにいたエマへ、ルイはそんな言葉をかける。笑顔もなければ優しい声音でもない。だが、それがルイなりの思いやりなのだとエマは察することができた。
「これが見えると、クリスが傷ついた顔をするの……子供のときにクリスの魔術でついちゃった怪我だから。あの人は本当は火の魔術を得意とするんだけど、私に怪我をさせて以来、絶対に火の魔術は使わないの」
「だから……」
エマとクリスの関係性やクリスの魔術に感じていた疑問が一気に解消され、ルイはしみじみと頷いた。
傷がなければ二人はもしかしたら幼なじみではなく恋人になっていたかもしれないし、クリスの魔術はもっと強力なものだっただろう。
ほんのわずかな均衡が崩れ、仲が良く見える二人の間には歪が生まれてしまっている。
そのことを思って、ルイは複雑な気持ちになった。
「案外、気にならないものですよ」
「……本当?」
そっと触れて見下ろしてくるルイの視線にわずかに熱を感じとって、エマはふるりと体が震えた。だが、それは決して嫌悪からではない。それだけに戸惑ってしまう。
「私の服の下の皮膚のほうが、よほど傷だらけです。……見ますか?」
妖しく微笑んでルイが言うから、エマは慌てて首を振った。どこまで本気かわからない。それだけに、エマはどうしていいか判断がつかず、しばらくルイに見つめられ三つ編みを解かれるままになっていた。