10、愛を歌う人
それからエマは自分の心臓のうるさい鼓動に悩まされながら、何とか朝食を終えた。
ルイがいつもの様子に戻るなら、こだわるのもこうしてドキドキしているのもおかしいだろうと思い、エマは懸命に平常心を取り戻そうとしていたし、できたとも思っていた。だが、彼女がいつもと違うということを身近な人間は見逃さないものだ。
「おはようエマ。……まだ顔が赤いな。きついか?」
鍋を届けて自宅へ戻ったと思っていたクリスが、また神殿を訪れたのだ。おそらく、昨日の今日でエマのことが心配だったのだろう。
やってくるなりクリスは、目ざとくエマの頬の赤さを指摘した。
「お、おはようクリス。顔、赤いかしら? 別に普通よ」
「そうか。果物買ってきたんだ。むいてやるからな」
クリスはしばらくエマの顔を見つめたあと、特に気にしたふうもなく持参した籠に目をやった。エマは彼があまり鋭いほうではなくてよかったと思いながら、彼が持ってきた果物を見つめる。
「やった。なら、青い林檎がいいな」
「わかった。お前、林檎は青林檎が好きだよな」
「うん。ちょっと酸味が強くて歯ごたえがあるほうがいいの」
「俺は蜜たっぷりのよく熟れた林檎がいいんだけどなぁ」
クリスはクルクルとナイフで器用に皮をむくと、それを八つに等分する。手つきからして慣れているのだろう。綺麗な櫛形にされたそれを、エマも当たり前のように受け取って口にする。
ルイはそういった幼なじみ同士の光景を、ジッと観察するように見ていた。軽口を叩きながら同じ林檎を分け合って食べる姿は、誰がどう見ても仲睦まじい。確かにエマの言うとおり色気のある関係ではないが、これはこれで良いものだ。
この幼なじみの存在は、他の候補者にとってはなかなかに手強いに違いないーーそんなことを考えて、ルイはまた人の悪い笑みを浮かべていた。
「何だよ、お前。そんな悪い顔して笑ってこっち見んな」
「失礼。いやいや、お似合いだなと思いまして」
視線を感じると、クリスはエマに見せていた穏やかな顔を一転させ、不機嫌な顔でルイを見返す。まだ少年から脱し切れていない彼がそんな顔をしたところで威圧的になるはずもなく、ルイはまた憎たらしいほど爽やかな笑みを浮かべるだけだった。
「それよりお前、エマに変なこと吹き込むなよ」
「そんなこと、しませんよ。……先ほど、少し自覚が足りない部分に関しては指摘させていただきましたが。エマ様は世間知らずでいらっしゃるので、悪い男に甘い言葉でもってコロリと騙されてはいけませんから」
意味ありげな視線を送って来られて、エマはまた火が出そうなほど顔を赤くした。そんなふうに言ったら、先ほどどんなことがあったのかクリスにバレてしまうかもしれないとエマは内心冷や冷やした。だが、大人ぶっていながらその実まだ初心な幼なじみは、わかった風な顔で頷いただけだった。
「そうだな。こいつ、お転婆なくせに妙に少女趣味だったりするからな。……あ、そういえば外にナンパな吟遊詩人がいるんだった。エマが寝てたらいけねぇと思って俺が良いって言うまで入って来るなって言ったんだよ」
“悪い男に甘い言葉で”という話題で存在を思い出された不名誉なユリアンは、そのとき二階の窓の下でクリスからの合図を今か今かと待ちわびていた。
せっかく来てくれたのならと、エマは何だか申し訳なく思って窓から少しだけ顔を見せようかと考えた。だが、そんなことをするまでもなく、エマが窓際に立つや否や、ユリアンは愛用の楽器をかき鳴らし始めたのだった。
「おお、姫よ。一目会ったときから俺の心を捉えて離さない罪深き姫よ。どうかその花のかんばせを俺に見せてください」
よく通る声で芝居がかったことを言われ、エマは恥ずかしさに赤面する。思わず出した顔を引っ込めようかと考えてしまうほどの恥ずかしさだった。
だが、そんなものはまだ序の口。前奏と思しき部分が終わり歌い始めると、顔だけではなく全身が真っ赤になって湯気が出るのではないかと思った。
ユリアンがエマのために作ったという歌は、とにかくエマを褒めるものだった。
エマを溺愛してやまないダニエルやアウロスですら口にしたことがない、甘い甘い歯の浮くような褒め言葉たち。そんな言葉の羅列に旋律をつけて歌われるだなんて、辱め以外の何物でもない。
後ろで聞いているルイとクリスは二人揃って両手で自分の口を塞ぎ、「春風に愛された髪だと……」「星を宿した瞳ってどういうことですか……」と笑いを堪えて茶化すのだ。聞かされる彼らとしてはそのくらいしてやりたくなったのかもしれないが、エマにしてみればまるで自分も一緒に笑われているかのような気分だった。
だが、そうして彼らが笑っていてくれてよかったという思いもある。
クリスが言ったとおり、エマは少女趣味の夢見がちなところがある。そのため、ユリアンの歌に恥ずかしいと感じつつも、嬉しくなかったわけではないのだ。だから、もしこれがひとりきりのときに聴いたのだとしたら、ルイが心配する「コロリと騙される」ということもあったかもしれない。
(お世辞だってわかっていても、褒められて嫌な気持ちになるわけないもの……)
そんなふうに自分に言い訳しつつ、エマは自分が迂闊にときめいてしまったことを自覚していた。
やはり年頃の娘だ。容姿を大げさに褒められれば、鵜呑みにせずとも嬉しいとは思う。
「エマちゃん、お気に召したかな?」
歌い終えたユリアンは、エマへ向けて投げキスを送る。その慣れた仕草に「この女たらしめ」とエマは思いつつも、悪い気はしなかった。女性をちやほやすることに慣れている彼は、過剰にならない匙加減を心得ているのだ。それがハルとの違いかもしれない。
「……ええ、ありがとう」
エマは照れたのを隠して、努めて冷静に言葉を返す。そんな抑え気味の反応なのに、ユリアンは爽やかに破顔し、金茶色の髪を揺らした。
「ああ。その可愛いほっぺが赤いのが熱のせいじゃなく俺のために赤くなってるならいいのに。ゆっくり休んで。また来るよ」
ユリアンは軽く手を振ると、楽器を抱え歩き出した。神殿から遠ざかって行きながらも、名残惜しそうに時折振り返ることも忘れない。
一曲歌って軽く言葉を交わして帰るというそのあっさりとした訪問に、不覚にもエマは物足りなさを感じてしまった。軽薄ではあるが押しは強くないため、もう少しくらい話ならしてもいいと思っていたのだ。
だが、その物足りないくらいのほうが次の面会を待ち望む気持ちを引き出すというのは、恋の駆け引きの常套手段。
エマはルイの心配した通り、手慣れた男にはあっという間に心を奪われる危険があった。
「……お前、やっぱりあんなふうに褒められるのがいいの?」
「えっ」
無意識のうちにうっとりとユリアンが去っていった方向を見つめていたエマは、背後からそう声をかけられて驚いた。だが、おかげでユリアンに心を持っていかれることは防がれた。
「そ、そうね。貶されるのと褒められるのじゃ、そりゃ褒められるほうが嬉しいもの」
ときめいたということを悟られないように、あくまで平静を装って答えたが、そんなエマをクリスは半目で見ていた。
「褒められ方ってもんがあるだろ」
「『春風に愛された髪』『星を宿した瞳』『花が開くように笑う』『可憐な指先』それから……『震える睫毛が俺を狂わせる』でしたっけ? このような言葉で良ければ、毎晩私が言いましょう。それでエマ様が喜ぶというのなら仕方ありません」
「やめて!」
ルイとクリスはユリアンの歌を思い出したのか、また二人してクスクスと笑い始めた。ただの言葉として並べられると恥ずかしいだけで、エマは急いでルイの口を塞ぎにかかる。
だが、エマがむきになったのが二人には面白かったらしく、そのあともユリアンの歌から褒め言葉を引用してからかい続けた。
気が合わないはずの二人に浮かぶのは、揃って悪餓鬼の顔だ。
悔しくて恥ずかしくて、エマは病み上がりの体をまた熱くさせながら二人の悪餓鬼を追いかけ回した。クリスはいいとして、五つ以上年上のはずのルイまでこんなくだらないことをするなんてと、本気で憤慨しながら。
「エマ様はやはり簡単に騙されてしまいそうで、私は心配です」
クリスが帰ったあと、お茶を淹れながらルイは大げさに溜息をついて見せた。座って待つエマは彼の言葉を否定することができず、「気をつけるわ」と呟くように答えるしかない。ルイとクリスによるからかいはエマの乙女心を大いに傷つけたが、そのぶん冷静さも取り戻させていた。冷静になると、あんなわかりやすい言葉で嬉しくなった自分が嫌になる。
色恋ごとだけでなく、ユリアンは頼まれれば誰のことでもあの歌声で良い気分にさせるのが仕事なのだから。宮廷や貴族たちが集まるサロンに招かれるとは、そういうことだ。
見え透いたおべっかを真に受けるほど自分が褒め言葉というものに飢えていたことをエマは恥じた。
「誰の手を取っても構わないとは言いましたが、誰に騙されてもいいとは言ってませんよ。利用すると決めて相手を選ぶことと、相手に取り込まれることは違うんです」
厳しい口調でルイは言う。打ち解けたことで彼はエマを心配するひとりにはなったが、だからといって役目が変わるわけではない。むしろ、打ち解けてきたからこそこんなことを言うようになった気がする。
「……それは、『恋は盲目』って状態になるなってこと?」
ルイが言っていることを理解しつつも、エマは不満だった。騙されてはいけないことはわかる。だが、恋することを否定されるのはやはり嫌なのだ。
「愛なんてものは幻想です。そんなものに惑わされて、選択を誤ってはいけません。愛情などという目に見えないものしか差し出せないような男に騙されずに、あなたに何を与えられるのかきちんと示せる相手こそ信用すべきです。わかりました?」
「……はい」
反論したところで同じ説明を繰り返されるだけだとわかっていたエマは、諦め半分で頷いた。この話題に関してルイは頑なだ。役目だからではなく、ルイの信念あるいは強迫観念がそうさせるのだろう。
ルイの役目はエマを誰かと結婚させること。それが恋愛感情からだろうが打算だろうが、関係のないことだ。
それなのに、エマに繰り返し繰り返し愛などないと説き続ける。よく考えてみれば、教会の人間にあるまじきことだ。元より、彼は他の教会所属の人間たちとは雰囲気から何から違ってはいるが。
(何がここまでルイに思い込ませているのかしら……)
ほとんど偏執といってもいいその姿勢に、エマは言い知れぬ不安を覚える。冷静に仕事をこなしているように見えるルイの危うい部分に触れて、嵐が来る夜のような気分にさせられた。
エマの頭に、鋭い目をして身を固くする傷ついた銀狐を浮かんだ。その狐のことが何だかかわいそうで抱きしめてやりたくてたまらない。
だが、目の前にいるのは冷めた目をした美しい男だ。