わだいがない 27
「上司、倉田の場合」
これは、半年くらい前の話だろうか。
タバコ。体に悪いと知りつつ、値段が上がり、吸う人は隅に追いやられ、肩身が狭くなってなお、喫煙所にいることにため息を、いや、タバコを吐いた。
ドアが開き、チラリとそっちを見ると最近やけに機嫌の悪い上司がいる。オレはこっそりともっと奥に引っ込んだ。これで彼からオレは見えないはずだ。
「あ、あの人。」
隣にいたバイトの女性が隣の同じくバイトの女性に話しかけている。
「最近、倉田さん、機嫌が悪いのよねぇ。」
「わかるわ。前はそんなことなかったのに。」
上司の機嫌が悪いことはどうやら、広がっているようだ。
「彼女に振られたんじゃない? 」
「彼女、いるの?」
話をこっそり聞きつつ、オレは目を丸くした。初耳だ!
「いや、わかんないけど、この間、可愛い髪飾りの店で店員と話ながら、買い物していたのを見たのよ!」
「えー!じゃあ、彼女とかいるんだ!」
「たぶんねー。」
オレはどこで自分も見られているか、わかったもんじゃないな、と思った。しかし、彼女たちの話は少し違う。彼には奥さんも彼女もいないはずだ。つい、この間、酒の席で欲しいなぁとぼやいていたばかりだからだ。
すると、上司が慌てて出ていった。なんだろうと目線で追うと、髪の長い女性の後ろに立った。彼女が上司に気がつくと笑いかけた。オレはもしかして、上司は彼女のことが好きなのではないだろうかと、勝手に思い込む。しかし、年齢が一回りは違うはずだ。それと不機嫌となんの関係があるのかよくわからない。
オレはため息をついた。
それから、三か月。
オレは偶然、彼女と上司が一緒のとこを見た。どうやら交際に至ったらしい。上司の機嫌の悪さはだいぶ改善された。あの不機嫌な日々はなんだったのだろう、と思うほどに。まぁ、誰かに話すことでもないけれど。
そして現在。
昼休み、彼女がオレの目の前にいた。いや、付き合っているわけではない。彼女が急にいい出したのだ、ご飯おごるから食事に行こうよ、と。普段なら断るところだが最近、上司の倉田さんの機嫌がまた悪くなってきたので、こっそり彼女に聞いてみようと思っただけなのだ。
「他にも、誰か知ってるの?」
彼女はさすがにオレが二人のことを知っているとは思っていなかったようで、目を丸くした。
「なにがですか?」
「私と倉田さんが付き合っているって、知ってる人って。」
「いや、わからない、です。オレは偶然見かけただから。オレは誰にも言ってませんし。」
「そう。」
しばらく無言が続いていたが、彼女が急に話し出した。
「あのね、あの人がいけないの。」
「はい?」
「倉田さんよ。いままでベッタリだったのに、急に私にはもっと若い人がいいんじゃないかとか言い出して。」
「はぁ。ベッタリ……。」
オレが上司が彼女に甘えている姿など想像をしたくないかもとか思っているうちに彼女の話はどんどん進む。
「確かに、私は彼より若いわよ?でも年上だけど、好きだから彼を選んでいるのに、どうして自分じゃ駄目かもとか急に思うわけ?」
「やっぱ、年齢差……。」
「十三差よ。でもそんなことは付き合う前からわかっていたでしょ?」
「ほら、実際付き合ってみたら、実感したとかじゃ?オレだって、十三下っていったら、まだ高校生ですよ?何を話したらいいか、正直困りますよ。」
「会話が問題なの?」
「いやー。うーん。」
オレはちょっと考えた。
「いや、会話とかっていうよりも、自分の老化じゃないですか?」
「老化?」
「そう、自分の十三も下だと、若いし、体力もあるだろうし、自信とかもあるだろうし、未来もあるでしょうし。一方で、倉田さんくらいの年齢になると、体力も落ちるだろうし、目とかも老眼になってくるだろうし、だんだんできることができなくなってきて、落ち込んでくるんじゃないですか?」
「わかってるわよ。」
「……はい?」
「女だって衰えるんだから、年上の彼がもっとそれを感じていることはわかってるの。」
「はぁ。」
「でもね!いいえ、歳をとっていてもあなたがいいの!なんてことは言わないわよ。」
「な、なんで、ですか?」
「私が好きなら、年上でも若い子には渡さない!くらいの気力がないとね!」
「そうですか……。でもほら、手放す愛なんていうのも……。」
「そんなことする?」
「しません。」
オレは素直に言った。早すぎるくらいさっさと返事をする。
「いや、相手が全然自分のことを想ってくれてないなら、あきらめて手放すとかもあり得ますけど、自分も好きだし、相手も自分を好きだって言ってくれるのに、手放すとかはないですね。年齢差では別れたくないですね。」
「そうでしょ。戦うべきなのよ!自分で私には若い子のほうがいいかもしれない的なことを言っておきながら、不機嫌な彼氏なんて嫌よ。」
「だから倉田さん、最近ピリピリしてるのか!」
「そうなの?」
彼女は目をキラキラさせた。
「ホントに、イライラしてる?ホント?」
彼女はニコニコしている。その笑顔につい、つられてしまいそうになる。
「あのー。僕らに迷惑がかかってるんですけど。」
オレはつい笑ってしまう。
「しらなーい。彼には、あんまりにも腹が立ったから、じゃあ若い人を探すから、しばらくデートしないでおきましょって言ってあるの。嬉しいわ。毎日、違う人とお昼ご飯を食べた意味があるってものね。」
彼女はほっとしたように言った。
「毎日ですか?」
「そうよ。普段は一人が好きだから、誰かと一緒ってことがないんだけど、毎日、必ず男性一人はいるグループと食べているの。今日は彼が休みでねぇ。若い人が他にいなかったもんだから。」
「僕を誘ってみた、ってことですね。」
彼女はにっこりと笑った。
「そうなの。でも、嬉しいわ。彼がやきもきしているってことよね。」
「そう、ですねぇ。」
「そうよ。知ってる?彼、私が会社に来た時からずっと気になって、気になって、ほかの社員と仲良く話しているとイライラしたって言ってくれたの。」
オレは思い出した。だから、半年前も不機嫌だったのか。あれは恋のせいか!と。そして今も不機嫌だ。普段は穏やかだけど仕事はバリバリできます、な優秀な上司だというのに。
「きっともうちょっとで、彼は降参するわ。」
「はい?」
「早く、誰にも渡したくないって、思ってくれないっかなー。」
彼女はまだニコニコしている。そういえば、こんなにニコニコしている彼女を見るのも久しぶりだと気が付く。彼女は本当に上司のことが好きなようだ。
「早めにそうしてくれないとこっちも気を使いますよ。」
そうして昼休みは終わった。だが、午後。どうも上司は、自分と彼女が仲良く二人で食事をしているところを見たのか、誰かが言ったのか、オレの方をちらちら見るが何も言わないでいる。
それはそうだろう、上司はオレが、彼女と上司が付きあっていることを知っているとは知らないのだから。話題に入れるわけがない。
視線が気になりつつも、ひたすら仕事に集中する。帰ろうとするとき、やっと上司が声をかけてきた。
「今日、飲みに行かないか?」
「あー、すいません。オレ、今日デートなんで。」
そういうと、上司の顔が引きつる。
「そう、か。」
オレは急に悟った。デートは彼女と一緒だと思っていることに。その顔を見て、だんだん気の毒になってきたのは、同じ男だからだろうか。慌てて言った。
「あ、相手は大学からの付き合っている人ですよ。そのうち紹介しますね。」
「そうか。」
上司は明らかにほっとしたようだ。
「倉田さん、早く彼女と仲直りしてくださいね。彼女もそれを待ってますよ。じゃ、お先に失礼します。」
上司が目を丸くして何も言えない間に、オレはさっさと職場を出た。あんなに出来る上司でも女性一人に弱いとは!そう思うとなんだかニヤニヤしてしまう。
正直な所、彼女一人ごときで仕事に影響するのはどうかとは思う。ついでに、ケンカしたくらいで不機嫌になるのもどうかと思う。しかし、そこもたぶんオレは気に入っている。わかりやすくていいじゃないか、と。
翌日。倉田さんは、彼女と話をしたのか、ピリピリした感じがしなくなった。彼女とのことには何も言わなかったが、ついでだ、と言いながらオレにも缶コーヒーをくれた。どうやらお礼らしい。
昼休み、彼女のほうも一人で食事に行こうとしていた。オレはこっそり聞いた。
「仲直りしたんですか?」
「うん。ありがとう。」
オレはニコニコとした、その幸せそうな顔を見て女性に振り回されるのも悪くないかもしれない、と思った。