巡る七秒間
妙な浮遊感に襲われる。足が地に着かず、居場所を失っているのが分かる。若干温かみのある風は僕を避けるように去っていくのが全身で感じられる。清々しくも何ともない。
そう、僕は人生で初めて、そして最後でもある、世に迷惑をかけてしまう行為、自殺というなんとも取り返しのつかないことをしでかしてしまったのだ。
このビルは鉄造の五十五階建て。一階四メートルだと計算して……地上までの時間は七秒弱。それが、僕に残された死までの猶予だ。
こんなときにまで、即座に脳が回転する自分が恐ろしかった。というよりは、僕がそのように育ったことに、一種の恐怖の感情を抱いた。
あと七秒。
視界に入るのは空一面に広がるのは所狭しと詰め込まれている薄黒い雲。今にも雨が降りそうで、降らない。この天候を呼びならわすとするならば、皆が口を揃えていうだろう、曇天と。
少し顎を引いて見ると、偉容を誇る摩天楼の一棟のビル。 このビルの名には僕の名字も含まれている。それは社長が僕の父だからだ。
いや、父なんて呼びたくもない。僕をこんなことに追い込んだのも父のせいと言っても過言ではない。
父にとって僕とは、一種のビジネス。自分に代わりその名を継ぎ、自分を先代として敬せたいだけ。血の繋がった息子なんて微塵も思ってないだろう。ただ、将来が約束やれといるというのはメリットだ。
窓は毎日のように清掃員が丹念に磨き上げ、鏡の様に反射し僕の姿が自分でも窺えた。天に向かって仰向けになり、大の字を描く僕の体。よく見ると、パーツの一つ一つが父に似ている。
少し吊り上った目。高く整った鼻。がっちりとした肩。その割には細い腰回り。多分、服を脱げば頭の先から爪先まで、父をコピーし少し肌に張りと若さを持たせた容姿が僕だろう。だから僕は自分自身を好きに思えない。それは父の姿に好意を持つことに相当するから。
ふと、窓を挟んだ奥に、父の側近の姿が目に映った。大積みの書類を両手に、足をもたつかせながら、社長室の方へ赴いていた。彼は重量感のある書類で手が震えている。彼もまた、父にとっては道具なのだろう。しかさは彼の瞳には澄んだ輝きがある。彼は未来がある。僕には、その未来はないのだ。
目線を空に戻して、折角なので最後に過去でも振り返ってみる。
あと六秒。
まず初めに、僕の家は無駄に広大だ。下手すれば、山が一つすっぽりとはまってしまうのではと思う程だ。床は一歩あるけば転げてしまいそうなくらいワックスが効いている。一つ一つの部屋には常に冷暖房が備え付けてあり、正直無駄遣いだ。庭では、15年居ても未知の場所が至る所にある。これらは全て父の資産で構成されている。そう思うと「自分の父親」という実感が湧かない。何かテレビにニュース番組に映しだされた偉大な社長だ、と思った方が何故か自分の頭が納得するのだった。
その理由は、他にもある。それは父は、本来の父親の役目を全く果たしていないことだ。
僕には物心付いたときから、母はいなかった。父の話によると母は僕を産んだ数日後、出産のダメージにより、息を引き取ったらしい。それからはというと所謂、父子家庭。父は住み込みのベビーシッターを雇い、僕を躾させた。大豪邸に二人暮らし、というのはベビーシッターと僕の二人といったほうが正しいだろう。
僕は小さいころから、ベビーシッターと共に生活してきた。父は早朝から夜中、もしくは次の日まで仕事をしているため、父よりもベビーシッターと食事をした方が記憶にも残っているし、そちらの方が回数が多いだろう。
僕はそれなりに満喫していた。おもちゃ代等、金銭的なことは、父がベビーシッターにいくらかの金を渡していたらしく、何でも買ってくれた。そのため、目立った不自由もなく、悠々自適に日々を送っていた。
しかし、それはある時まで。小学校に入学してから毎日が父を恨む日々だった。
あと五秒。
視野に、空以外の物が入って来、天が遠ざかっていくのが感じられる。風の音で遮られているが、僅かに地上からの音も耳に入る。その大半は自動車のクラクション音。そして喧嘩でもしているのか、数人の男性の怒声。実に気分を害するものばかりだ。
僕はさらに腹が立ってきた。ただでさえ過去を思いだすとむしゃくしゃするというのに。けれど、余計に幼少期の思い出が鮮明に蘇ってくる。
あれは、小学校の入学式のこと。
特に努力することもなく父の言うがままに受験した私立学園に難なく合格して、よく分からないまま入学した。その頃はまだ、この学園が父の物だなんて知らなかった。
桜の花びらが散りばめられたアスファルトの地面を小さな靴で踏みしめながら、屈託の無い笑顔を保護者として来ていたベビーシッターに見せていた。背中には体に合わない真新しく、光沢感のある黒色のランドセルを背負い、半ば千鳥足になっていた。
「ねぇ、今日はお父さん来るんだよね?」
僕がそう問うと、ベビーシッターは微笑んで「そうだよ」と言ってくれた。
僕はその時、父が自分の晴々しい姿を見て笑うことを想像し胸が弾んでいた。僕の中の感覚では、何処か遠い海外にいる親に久しぶりに会うようだった。
入学式が始まると、僕は父の姿を確認したくて、何度かちらりと後ろを向くが、ベビーシッターの横の席はポツリと空いている。その度に「前を向きなさい」と言わんばかりの視線を感じて仕方なく前を向いた。
結局、父は入学式に現れなかった。
家に帰ると、父はリビングのソファに足を組んで座り、のうのうとコーヒーを飲んでいた。僕は膨れっ面で父の前に立ち、
「お父さん、来るって約束したじゃん」
と投げかけた。
すると父は、屈強な顔をして素っ気なく答えた。
「仕事だからしょうがない。世には優先順位というものがあるのだ。常識をわきまえとおくんだな」
僕は腹が立って、反発しようと肺一杯に空気を入れ込み、叫ぼうとした瞬間、父は立ち上がり書斎の方へと歩き出した。そして背を見せながら、
「疲れているんだ。あとはそいつにしてもらえ」
とベビーシッターを指差した。体に入れ込んだ空気は溜息となって再び空気中に戻っていった。
その次の日、ベビーシッターはぱたりと来なくなった。父に尋ねると小学生にでもなれば、自分の事くらいできるだろうと、クビにしたそうだ。
このときからだ。僕の孤独が始まったのは。
小学一年生とはまだまだ子供であり、世に関して全くの無知である。僕は全て自分でやらなくてはいけないということに深く悩まされた。
食事は専属のコックが、毎日御馳走を拵える。それを何十人も座れるテーブルで一人寂しく食べる。部屋にはスプーンやフォークが皿と重なって出る甲高い音だけが響く。僕には耳障りで仕方がなかった。
それから九年間、父は授業参観や体育祭、合唱コンクール等、学園行事に関することに一切口出しをし無かった。最初の頃は少しは構ってほしくて自分から声を掛けてみたが、小学生高学年くらいだうか、やっと父が自分に興味が無いことに気付いた。それからは、口うるさく容喙されるよりはましだと思うようになった。
僕が話しかけなくなるとそればかりか、僕が何をしようが冷淡な態度しかとらなくなってしまった。
僕が中学校に入って間もない頃、父が有名会社の社長だとの噂を嗅ぎつけた不良数名に廃墟のような薄暗い倉庫に連れ込まれ、胸倉を掴まれ何発か殴られたことがある。その後、学校が父に連絡したらしく、父が僕と廊下すれ違ったときに僕の頬が真っ赤に腫れ上がった無様な姿を見て、呆れた表情をして、
「お前が軟弱だからそうなるんだ」
と鼻で笑い、意に介さない様子で通り過ぎていった。なんとも僕を見下した対応で、父に対して久しぶりに頭にきた。
あと四秒。
そして今日に至る。僕は社長室に来るように呼び出された。久々に訪れた会社は前にも増して豪壮なものとなっていた。オフィスの机は増え、鼻がつかえそうなスペースでデスクと向き合っている。久々といっても一、二年程。会社としては著しい成長だ。
僕は案内役の秘書の方の後を追いながら、せわしく働く社員達の間を縫うようにして最上階の社長室を目指す。エレベーターでは通勤ラッシュの満員電車に居るようだった。
行く先に一際大きく、そして高級そうに見える木造の扉がある。秘書はその扉の前で立ち止まり軽くノックをした。すると、紛れも無く父の声が扉の向こう側から聞こえてくる。
「社長、息子様がいらしています」
秘書は扉越しにそう言うと、父は「入れ」と生意気な口調で言った。それを合図とし、秘書はドアノブに手を掛け扉を開けた。そして僕の視界には、一面の窓をバックに腕を組みながら机に向かい椅子にドンと座り尊大に構える父の姿があった。
僕が中に入ったのを確認すると、秘書は軽く会釈と挨拶をして社長室を後にした。
父は小さく溜息をすると、先ほどとは一変。立ち上がると机の近くにある、客用のソファに他人行儀のように僕を導き座らせた。
「息子のお前に話しておきたいことがある」
父はそう切り出した。顔はとても深刻だ。僕もふざけてはいけないと思い真摯な態度で話を聞く体制をつくった。
「実はだな、この会社の後見人のことなんだが」
口を開けば仕事の話、というのは承知の上だ。僕は父に続けるよう相づちを打つ。
「……お前ではない人に頼もうと思うんだ」
父は少し溜めてからそう言った。僕は一瞬、硬直し頭がショートしてしまった。理解不能な僕は父に半ば怒声気味で投げかけた。
「何で⁉ 後継ぎは息子の僕じゃないですか!」
僕から会社の未来を除かれてしまえば、何が残るのだろうか。散々孤独に苦しめるられる中、
成績だけは優秀にと心血をそそいだ。そのお陰で、常に学年首位を争う程だったはずだ。なのに!
「僕に何が足らないのですか!」
僕は次第に怒りが込上げてきて、無意識にその場を立ち、声を荒げながら父を責めていた。父にはこの様な姿を見せたことが無かったため、父はいささか驚いた様子で僕を見上げていた。
自分のしていることに気付いた僕は、頭を冷やして座り直し、改めてて父に問う。
「僕が納得のいくように説明してください」
すると父は一息置いて僕の目を見つめ、話し始めた。
「今までお前をこの会社の顔となる人間として育てたつもりだ。しかし、私は見つけてしまったのだ。素晴らしい人材を」
そう言うと、「おい」と一声掛けた。すると唐突に扉が開き人影が現れた。その人影は次第に僕に歩み寄って来る。
そいつは見るからにエリートだった。背が高く体つきがいいくせに黒縁のメガネをかけて、シワ一つないスーツを着こなして、なんとも凛々しい若者だった。
彼は父の方へ体を向けると親しそうに微笑んでお辞儀をした。父もそれに優しく対応する。
「この人は……?」
嫌な予感しかしなかったため、恐る恐る聞いてみた。すると父は立ち上がり、彼の肩に手をポンと叩き僕に紹介する。
「彼は企画部に属する畑中くんだ。彼は本当に優秀でな、近々会社の次代を担ってもらうことになった」
父の顔がほころんでいる。このような姿を見るのは初めてだったため、彼が余程の実力者だということはすぐに分かった。彼も得意気な顔をして僕を見下げていた。
「つまり、この人に僕の将来は
……」
僕はそう呟くと、腹の底から今までに無い怒りと悲しみが込み上げてきて、駆け足で社長室を去った。社長室の中から微かに父が僕を呼ぶ声が聞こえるが、僕は見向きもせずにただ上に向かって駆けた。頭には、あの得意気な表情だけが思い浮かぶ。
「くっ……!!」
僕は唇を噛み締め息を切らしながら、非常階段を登る。普段使われないせいか電気はついていない。まるで僕の見込みうす将来と心のように先が見えず、暗かった。
階段の延長線上にあるドアを勢い良く開いた。バンという音と共に、風が僕に押し寄せる。僕は一度立ち止まり、心を無にして立ち尽くす。それが、何秒なのか何分なねか何時間なのかは記憶にないため定かではない。そこから前へゆっくりと歩き出した。先に地が無い所まで達すると僕は一度、地上へ覗き込んだ。カラフルな洋服をまとった人々がまるで米粒のように見える。それでも僕の足は竦まなかった。
くるりと後ろを向いて大きく深呼吸をした。そして後ろへ一歩踏み出しーー。
今更だが、よくよく考えればただの腹癒せだった。だからといって後悔はしていない。
あと三秒。
突如、右半身を下から押される感覚を感じる。どうやら強風が吹いたようだ。その反動で左腕を軸にして右半身は反転し、地面に腹が面する状態になった。先程とは違い、顔に風が叩きつけるように流れて行く。
なんとか目を開くことができ、地上の様子を窺った。数人の通行人が上を見上げて何かを指差している。その何かとは僕のことだろう。
そしてある者は僕が落ちといるということを認識すると気が動転したのか手で顔を覆ったり、疼くまっていた。また、興味本位で集まる野次馬たちが慌てて携帯を取り出して写真を取り始めた。
僕は『大企業会社の御曹司』と名の肩書きを背負っている。その僕が自殺したとなると、社内は勿論、全国の茶の間にも情報は知れ渡るだろう。雑誌記者は僕のことを根こそぎ調べたてて、読者が惹かれるように面白可笑しく掲載するに違いない。ネットでは、金持ちのくせに生意気だとかまるで僕を分かっていない言葉がつらつらと語られるだろう。
そして僕が悲痛な思いをしていたという真実が明かされたときには、父には汚名が着せられる。徐々に社員は減少し、会社は小企業、あるいは倒産してしまう。父が汚名返上するか次第でその先は変わるが、父は泥沼から這い上がるような人間には到底思えない。
全ては僕の憶測に過ぎないが、限り無く固定された未来に近いはずだ。その可能性を余すことなく許容範囲として僕も構えている。第一、僕が居ない世界のことだなんて知ったことはないとも思う。無関係なのだから。
あと二秒。
腕を前へ伸ばせば、その硬いアスファルトの地面に着くのではと思うほど目前に迫っていた。やっと物が実寸台に見えるようになった。そろそろ心構えをしようと瞼を閉じようとすると、ある人物が目に留まった。鏡の前にいるかのように僕と瓜二つの姿。紛れもなく父だった。
父の表情は険しかった。しかめているのではなく、哀愁が漂っている。父は僕の目に合わせようし必至にこちらを見つめている。戸惑った僕の目は無意識に泳いでいた。冷静になろうと、焦点を合わせたとき、父と目が合う。とっさに反らすものの、未だ視界の端には父が居た。端だったため、鮮明には把握できないが父は僕を凝視していた。何故なのか、理由は探っても一向に見つからない。
僕の脳が混乱していると、父の額が一部光り輝いているように見えた。それが気掛かりで、父が目の映る中心に来るように首を傾けると、父の頬に一粒の液体が伝っていた。
「えっ……」
思わず声が漏れる。
その液体が、悲嘆に暮れていることを表す涙とは限らない。僕が居なくなるということに対して無上の喜びを感じているのかもしれない。この天候がゆえ、降雨という可能性もある。
僕は最後に父を信じたくなった。その液体を父の心の嘆きだと悲痛の叫びだとーー。
あと一秒。
ここまでになると、黒色をして細かな凹凸のあるアスファルトしか見えなくなった。
「未練なんてないさ」
自分にそう何度も言い聞かせて、覚悟を決めた。瞼を閉じて、全身を強張らせる。
最初はカッとなった勢いで飛び降りた。けれど、様々なことを思い返していけば、自分が非力なことに気付いた。
父は確かに冷血漢な人間だ。ただ僕はそれを理屈にして数少ない不自由を父に押し付けていただけだったんだ。そして、無数の裕福を引き出しの奥深くに詰め込んでいた。そして父の涙を見たときその中に愛情があった、ということが可能性から確信に変わった。
なんて今更な意見だということは自覚している。だからこそ僕は胸がえぐられるように痛んだ。自分がいかに哀れだと思い知ったから。
もう一度だけ、強く念じる。
「未練なんてないさ」
そう思うと、目頭が熱くなった。よりむんずと瞼に力を入れ、涙が零れないよう努力する。最期ぐらい立派でいたい。けれど余計に外へ押し出されてーー。
全身に衝撃が走る。腹に感じるアスファルトはひやりと冷たい。痛いはずだが、痛感をでは無く脱力感を強く感じる。
重たい瞼を開き、腕を動かそうと頭で命じるものの言うことが全くきかない。視界がぼやける中、父がこちらをへ駆けてきるのが分かった。
「父……さん……」
口を開けるのが精一杯で、言葉が父に届いたかは不明確。それでも僕は死力を尽くして訴えた。『ごめんなさい、そしてありがとう』と。照れ臭い台詞だけれど、その一言は僕にはとても重みのあるものだ。
父は僕の頬に手を当てて、撫でるように何かを拭き取る動作をした。
「男は涙を流す生物ではないぞ」
父は震えた声で涙ぐみながら言った。本来ならば、僕は微笑んで「父さんもじゃないですか」と言葉で表したかった。今は、口角をあげることさえ満足にできない。
そして、まるで天に吸い取られていくように意識が遠退いていく。最後に見た父は、胸を張って父親の顔をしていた。
この僅かな数秒は僕の非力さと存在の重さを教えてくれた、貴重な時だった。
そう、思い巡る七秒間ーー。
これも遡り中1の夏に国語の宿題で書いた作品。私の作風が変わりだした転機の物語といってもいいかもしれません。
ご愛読ありがとうございました。