四、二月革命18
白地にネズミ色の柄をした子猫が一匹、野道で犬に吠えられた。
失せろ! 貴様など本当なら一噛みだぞ!
子猫はそうとでも言いたげに小さく唸る。だが声には出さない。口に大事な新聞をくわえているからだ。
犬は更に吠えたが、相手が怯まないと見るや興味をなくしたのか去っていった。
急がなくては――
子猫はやっとの思いで手に入れた新聞を、大事にくわえて野道を急ぐ。
『二月革命』と名づけられた暴動から、三日が経っていた。魔力をほぼ使い尽くしたこの子猫は、宮殿から抜け出すだけで丸一日かかった。
あの日からもう三日かと、子猫はその可愛らしい姿に似合わない深い溜め息を吐いた。
この子猫はあの日の『あの時』に使った最後の魔法に、全ての魔力を費やした。回復がいつになるのか、自分でも分からない。
草陰に隠れて、体力を回復するだけでも、更に一日がかりだった程だ。
今は何の魔法も使えない。
力強く雪の野原を駆けることも。魔法の劇薬を呼び出すことも。そして――
「うわっ! 可愛い!」
何をする!
子猫は急に少女に抱きかかえ上げられた。少女の腕の中で、そうとでも言いたげに身を捩る。だがあっさりとその少女に、口から新聞を取り上げられてしまう。思わず声を荒らげた。
「ニャッ!」
「『ニャッ』だって! まだ歯も生え揃ってないくせに生意気! でも、可愛い!」
そうこの子猫は上顎にあるべき牙が二本ともなかった。そこだけすっぽりと隙間を空けていた。牙の生え揃っていない子猫――いや牙と巨躯と虎柄を失ったアムールタイガー――ポチョムだ。
少女は子猫のように小さなポチョムに頬ずりをした。ポチョムは抗議の声を上げる。
「ニャッ! ニャン! ニャーッ!」
「可愛い! ちょっとゴワゴワしてるけど…… 何、この新聞? お遣いなの? えらい!」
ポチョムがくわえていた新聞に目を見開くと、少女は勝手に紙面を拡げ出した。
「ニャッ!」
ポチョムは更に抗議の声を上げる。
だが魔力を失ったポチョムは、声も失ってしまっていた。
そう子猫のように小さくなってしまった体で、子猫のような鳴き声しか出せない。犬に吠えられ、年端もいかない少女に抱きかかえられる始末だ。
ノエルの家までの道のりが、随分と遠い。
「おっ? 載ってる。載ってる。悲劇の皇族の記事」
少女はここ二、三日、町をにぎわす革命関係の一面トップ記事に目を落とす。
「何々…… 魔法皇帝と子供達、すでに――」
「ニャッ! ニャーッ!」
ポチョムは少女の腕から飛び跳ねて逃げ出すと、その手から新聞をくわえて奪い返した。
「あはは。ごめんごめん。お遣い中だったんだね。じゃねー」
少女は笑って手を振り去っていく。
取り残されたのは大きく拡げられた新聞紙と、小さく無力な魔法のマスコット猛獣。
コラッ! 畳んでいけ!
とポチョムは叫んだつもりだったが、やはり口をついて出たのは、
「ニャーッ!」
という可愛らしい鳴き声だけだった。
「ほら。ここなんかどうだい? これが願書」
一通の封書を家の棚から取り出し、マリーはノエルに手渡した。ライカに頼んで、マリーが密かに取り寄せていた高校受験の願書だ。
「何処? ここ? 聞いたことのない学校だよ」
願書の中には、ノエルが聞いたことのない学校名が載っていた。表紙に完成予想図として、目を引く立派な校舎が描かれていた。
「新設されるんだよ」
「ふーん」
ノエルはその完成予想図に見入る。ノエルからすればまるで王宮のような豪奢な建物だった。
「『ソヴィエト社会意義共学制連校』――略して『ソ連校』だってさ。幾つかの共学制の学校が集まって、一つの学園になってるって話だよ」
「ソヴィエト?」
ノエルが聞き慣れない単語を聞き返す。
「評議会って意味だそうよ。書記長を中心とした学生自治を、建学の精神の柱にするそうよ」
「ふーん。評議会…… 書記長…… それに、学生自治ね……」
ノエルは呟き、窓から遠くを見つめる。目に浮かぶのは、やはり親友の顔だ。
身分の違いを少しも感じさせず、貧農の娘と話をした皇女。むしろ皇女だと知っていれば、もっと話し合えたかもしれない。違った結果があったかもしれない。
アニー…… 私――
微笑みを絶やさなかった少女は、ノエルの心の中でも笑っていた。
「お母さん! やっぱり私――」
そしてノエルは立ち上がる。アニーの笑顔に背中を押されて立ち上がる。
「高校にいく!」
いつまでも悲しみに沈むノエルなど、アニーは友達と思ってくれない。ノエルはそう思う。だからノエルは、自分だけでも約束を果たす為に立ち上がる。
待ちに待った言葉に、マリーが嬉しそうに微笑み返す。
その母の笑顔に、ノエルは信じる。アニーも喜んでくれると。
ポチョムくん――
ポチョムなら何と言ってくれるだろう。ノエルがそう思ったその時、
――カタ……
玄関の方で何か物音がした。