四、二月革命16
コミュンが我に返るのは少しだけ遅かった。そう。少しだけ遅かった。
「あ……」
コミュンの右手に走る鈍い衝撃。
それは確かにコミュンの鎚が、鎌を打ちつけた瞬間だった。
「ああ……」
コミュンの左手に伝わる骨を断ち切る感触。
それは間違いなくコミュンの鎌が、魔法皇帝の左肩を打ち砕いた証拠だった。
「あああぁぁぁ……」
コミュンの頬に飛び散る暖かな血。
それは逃れようもなくコミュンが、魔法皇帝の命を奪っている――その現実だった。
「アニーッ!」
コミュンはそれでも鎌を途中で止めた。攻撃とともにほとばしる魔力を、無理に途中で己の中に引き止める。
「グッ……」
それは物理的な衝動を伴って、コミュンの体に戻ってきた。ハンマーで打たれたかのような衝撃が、爆発するかのようにコミュンの全身に広がった。
コミュンの鎌と鎚が、急に引き止められた魔力に負けて弾け飛ぶ。弾け飛んだ鎌と鎚は、コミュンの脇腹と額にそれぞれ襲いかかった。
「ガッ…… グ……」
鎌が脇腹を浅く切り裂いて飛び去り、鎚が額に当たって床に落ちる。もちろんそんなことに、コミュンは構ってはいられない。
「……」
魔法皇帝はまぶたを閉じると、コミュンの胸の中に崩れ落ちてきた。
「アニーッ!」
コミュンはとっさに、魔法皇帝を受け止めた。ほとばしる血にコミュンの手が滑る。慌てて魔法皇帝を正面に向けさせると、更に鮮血が吹き出した。
コミュンの頬を、更なる血が染める。
コミュンは魔法皇帝の傷口に左手をかざした。残った魔力を、全て治癒の魔法に集中する。
「アニーッ! アニーッ! アニーッ!」
コミュンは叫ぶ。そして呼ぶ。治療の為に、ありったけの魔力を送り続ける。だが震える唇は、上手く治癒の魔法を詠唱してくれない。
そんな――
上手く呪文を詠唱できない。こんなに魔法を間違うのは、生まれて初めてのことだ。間違う度に焦り、焦る度にまた間違う。そして焦り、間違い、何も成すことができない。
焦りが間違いを生み、間違いが焦りを呼ぶ。間違いと焦りの螺旋が、コミュンを絡めとる。
こんな時に限って、立て直すことができない。鮮血だけが勢いを増す。
残っていたコミュンの魔力はとても微力で、上手く魔法に力が入らない。
魔法皇帝は――アニーはどんどん冷たくなる。血が抜けていく。命が消えていく。
「どうして…… どうしてこんな……」
コミュンは呟く。疑問と後悔ばかりが、頭の中で渦を巻く。時間が止まって欲しい。時間が戻って欲しい。やり直させて欲しい。できないことばかり、望んでしまう。
「どうしてよ……」
コミュンの――ノエルの涙が、アニーの頬を濡らす。
その涙に、アニーが最後の力を振り絞った。
うっすらとまぶたを開け、右手を挙げてノエルの頬に寄せる。
「……ノエル……」
アニーが友達の名を呼んだ。いつもと変わらない、あの光り輝くような笑顔で。
「アニー……」
ノエルは名前を呼び返す。友達に負けないように、ありったけの笑顔で呼び返す。
「……」
アニーは満足げに頷くと、静かにゆっくりと――目を閉じた。
冬の宮のバルコニーに、赤い旗が勇ましく翻った。
それは革命論者が好んで使う、空想科学的社会意義革命の象徴的な色だった。
ノエルは抜け出した冬の宮前で、そのバルコニーを見上げる。
市民のささやかな要求から始まった運動は、革命という結果に終わったらしい。
翻る赤い旗を見てノエルは思う。そんなことを望んだだろうかと、ノエルは己に問いかける。
ポチョムは兵士の待遇改善を求めた。それが反乱に繋がった。
ストライキの労働者も、当たり前の労働条件を望んだだけだ。
ガポン司祭は生活の窮状を訴える為に、デモの先頭を務めて命を落とした。
女性の祝日に集まった人々も、最初の要求はささやかなものだったろう。
そして皇帝も皇女も、心から国のことを考えていたはずだ。
「……」
ノエルはもう一度赤い旗を見上げる。
その色は、同じ赤でも、己が纏うドレスのそれとは何処か違うものに見えた。
ノエルはそのドレスの上着を着ていなかった。素肌の上にシャツ一枚で、その旗をうつろに見上げる。上着はせめてもと思い、アニーの身にかけてきたのだ。
「アニー……」
ノエルはそう呟くと、一人冬の宮を後にした。