一、フランソワ・ノエル・バブーフ5
「なっさけないわね!」
ノエルはポチョムの額をペチンと叩いた。
部屋の中で寝そべっているポチョムの眼前に、ノエルは膝を合わせ、ペタンとお尻を着いて座っていた。両足のかかとは、かなり外側に開いている。ノエルは体が柔らかいようだ。
顔だけで一抱えある――そんな巨大な顔の持ち主を、ノエルとマリーは家の中に引っぱり込んだ。
ポチョムは自分でも動こうとしたが、意識がもうろうとして思うように体が動かなかった。
だが意外なことに、二人だけでポチョムの体を運んでしまう。もちろん腕力でしたことではない。二人の魔力がポチョムを運んだのだ。
ポチョムは二人の魔力に、失いかけた意識の中で感心した。
「野生動物でしょ? シベリアの虎でしょ? ネコ科最大でしょ? 体毛長いんでしょ?」
ノエルは『?』の数だけ、ポチョムの頭を平手で叩いた。その額の感触が気に入ったようだ。
「詳しいですな」
ポチョムはまた素直に感心する。部屋のぬくもりで、息を吹き返してきた。危うく家の灯りを前にして、また凍死しかけた。
夢中になると、ノエルは周りが見えなくなるようだ。だが、基本的には賢い娘らしい。そして叩かれても不思議と腹が立たない。
「ノエルは勉強ができるの」
マリーが嬉しそうに笑う。暖めていたシチューを、ポチョムの為に更に熱している。焦げないようにと、マリーは丹念に鍋をかき混ぜた。
「それにそれ以前に、魔法のマスコット猛獣――魔獣でしょ?」
ノエルはポチョムのヒゲを引っぱった。引っぱりやすそうに伸びていたから、引っぱってみた。そんな感じの無造作な動きだった。相手の痛みとか、都合とか、自尊心とか、そんなことは気にしない――そう気がつかないし、気にならない。そんな引っぱり方だった。
「それを言われると面目ない」
頬の毛皮がピンと引っぱられるのを肌で感じつつ、ポチョムはされるがままに身を任せた。少々痛いが、やはり腹は立たない。ノエルは不思議な娘だと、ポチョムは思った。
「お腹空いてちゃ、誰だって力が入らないわよ」
マリーが湯気とともに立ちこめる鍋の香りを満足げに嗅いだ。
元より広い家ではない。玄関を開けたらすぐに台所だ。ポチョムはドアのすぐ横で、そして台所のすぐ前で床に伏せている。ポチョム一人で、この部屋はいっぱいになっていた。
食事もこの部屋でとる。テーブルは立てかけて、脇にどけた。
「ふわふわの――もとい! ごわごわの毛皮!」
ヒゲを引っ張るのにも飽きたのか、ノエルが嬉しそうにポチョムの毛皮に顔を埋めた。
「ムッハーッ! 獣臭ッ!」
そしてノエルは顔をしかめながらも、嬉しそうに面を上げる。
「これ!」
「がはは。構わんですよ」
「そうよ! だって本当なら、獣臭どころか、死臭を漂わせてるところだったんだから!」
「これ! ノエル!」
「がはは。そうですな」
「恩返しに、バンバン働いてもらうからな。ポチョムくん!」
「これっ! ノエル! もうすいませんね、ポチョムさん。ほら、召し上がって下さい」
マリーが振り返り、寝そべるポチョムの前にシチューを鍋ごと置いた。
「いや…… しかし……」
「遠慮しなくていいぞ! ただし、ただ飯は、今日だけだからな! ポチョムくん!」
「これ! ノエル!」
「ウヘッ! あれ、お母さん私のは? ポチョムくんに鍋ごと渡したら、私の分がないよ」
「大事な塩を放り出して、ブルジョワの子供追いかけるような娘は、干し芋で十分です」
塩は結局あの後、少しずつこぼしながら家に持って帰ってきた。
せっかく内緒で塩をビンに移し替えたのに、ポチョムとの出会いを大げさに話し出したノエル。この娘は母に自分の失敗が知られてしまうことに、全く気がつかなかった。
「えぇー! ポチョムくんだって舐めてたもん! 私のせいだけじゃないもん!」
「干し芋も、贅沢だったかしら?」
「あはは、お母さん。作り笑いこわーい。干し芋サイコー……」
「いや。ノエル殿も、マリー殿も、ワシの為に……」
「いいのよ。ポチョムさん。今一番栄養が必要なのは、あなたよ」
自身はライ麦のパンを手に取ってマリーが笑う。作り笑いとは正反対の優しい笑みだ。
「そうだポチョムくん、遠慮するな! 一口舐めて『もうお腹いっぱい』って言えばいいんだ!」
「ノエル!」
「ウヒャッ! 干し芋、ウッマーッ! 最高! 絶品!」
「……かたじけない……」
ポチョムは込み上げてくるものをごまかそうとしてか、慌ててシチューに首を突っ込んだ。
「でも、お母さん。アムールタイガーってさ――」
「何? ノエル」
「猫舌じゃないのかな?」
「あっ?」
「アツーッ!」
ポチョムが舌を腫らしながら、シチューから顔を上げた。
「……」
「……」
「……」
結局冷めるのを待つ気まずい時間に耐えられず、シチューは三人で分けて食べた。