一、フランソワ・ノエル・バブーフ4
時はユリウス歴一九@$年。
国はその名を聞けば、誰もが思わず身震いするという『冬の帝国』。
その名の通り、冬が長く続くこの国では、人々の暮らしは貧しかった。多くの者が、今日の暮らしの糧を求め、明日の希望のあてを探していた。
長年続いた魔法皇帝――マジカル・ツァーリを頂点とした帝政政治は、多くの分野でそのシステムが悲鳴を上げていた。一度特権を得た者はその既得権益を手放そうとせず、己を守る為にその力を使った。そして貧しい者はその貧困故に、僅かな蓄えも残すことができない。
その結果一部の者は富み続け、多くの者は飢え続けた。
だがそれももう、限界に近い。一部の夢想家の絵空ごとと考えられてきた『社会意義』革命。『空想科学的社会意義』を唱える過激派――革命論者が、日に日に力を増していた。
彼らは言う。『絵空ごとで結構。空想科学的と思われる程の社会意義こそが、暮らしの糧であり、希望のあてなのだ』と。
国の方々で、暴動や反乱の噂を耳にする日々が続いた。多くが自然発生したものだが、その内幾つかは彼らに率いられたものだった。
混乱の続く冬の帝国。今その国で一人の少女の運命が、大きく動き出そうとしていた。
フランソワ・ノエル・バブーフはノエルと呼ばれている。
魔法の力が人々の生活を左右する世界で、貧農の娘として生まれた。
父は幼い頃に亡くした。今は母と二人で暮らしている。暮らし向きはよくない。借り物の畑に幾ばくかの種を蒔くが、母娘がやっと食べていけるだけの実りしかない。
「ノエル…… 願書はもらってきたの?」
ノエルの母――マリーは、もう何度も訊いた質問を繰り返した。今日娘に町まで塩を買いにいかせた。ついでに高校入学の願書をもらってくるように、言いつけておいたのだ。
九月の入試まで後一年を切ったというのに、娘はまるで関心を示さない。そして吹雪の中を家に帰ってきた娘は、むしろ母の目当てである願書らしき物を持っている気配がまるでない。
「何言ってるのよ? お母さん。高校なんていいって」
娘は――ノエルは、何度も返事をした内容で答える。
高校は自分には過ぎた望みだ。ノエルはそう思っている。自分が中学に通っていた分、農作業を手伝う時間が削られた。それすら心苦しいと思っていた。
貧農の子は皆事情は同じで、多くの者が小学校までしか通っていない。この近所の貧農の子供で、中学校に通っていたのはノエルだけだ。
中学だって贅沢だったのだ。ノエルはそう思う。
ノエルは家に帰ってくるなり、願書の話をし出した母の、心遣いに内心感謝する。だがやはり、高校にはいかないでおこうとも思っている。
「いつも言ってるじゃない。それより、ひどい吹雪だったわ」
ノエルは自分の肩に降り積もった雪を払った。
町から帰る頃には、外はひどい吹雪になっていた。
「ダメよノエル。少しでも上の学校にいかないと…… いつまで経ってもこんな暮らしよ」
凍えた優しい娘の為に、マリーは台所でシチューを温め出した。具など僅かばかりしか入っていない。ただ温まる為だけの夕食だ。
「でもお母さん。どうやって学費を払うのよ? 私が学校にいくってことは、それだけ働き手がいなくなるってことなのに……」
今日のご飯にも事欠くような、こんな暮らしは確かに抜け出したい。だがこんな暮らしだからこそ、高校にいくような余裕はないのだ。
母が時折、空のお碗をかき込んで、娘の前ではご飯を食べた振りをすることがあるのを、ノエルはちゃんと知っている。
ノエルは母がシチューの為に背中を見せた隙に、買ってきた塩を小さなビンに移し替えた。しおらしいことを言いつつ、この隙を狙っていた。破く、こぼす、舐められる――の、己の散々な失態を知られないように、ノエルは素早く塩を移し替える。
「それは……」
「いいの。分かってる。うちにそんな余裕はない」
「ノエル……」
「いいのよ。中学に通わせてもらっただけで、私は幸せ」
「……」
「でね、聞いて。いいもん拾っちゃった」
ノエルは嬉しそうに微笑む。隠し事をしているのを暗に示すかのように、両手を後ろに隠した。そのまま上半身を前に屈めて、母の様子を上目遣いに窺う。
「何? ノエル……」
「へへん」
「お前がそういう顔をする時は、ろくなことがないのよね」
「何言ってるのよ、お母さん! 今日のは凄いんだから! おいで!」
ノエルの合図とともにドアを開け、玄関から姿を現したのは、巨大なアムールタイガーだ。
「きゃっ! 何? ノエル! と、虎?」
「そう、虎よ! お母さん! 凄いでしょ?」
そう、小さなドアから身を乗り出したのは、人を一呑みにせんばかりの巨躯を誇る虎だ。
「ノエル殿――」
その野獣は凛々しくも人語で呼び掛けると、我が身に降り積もった雪を振り落とす。
「こ、この天候で…… そ、外で…… 待機というのは……」
そしてそうとだけ言うと、死相を浮かべた顔で前のめりに家に倒れ込んだ。