三、アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ9
首都に不慣れなノエルに、アニーが案内を買って出てくれた。二人は連れ立って街を歩く。
「そう言えば、いつもクラスが違うし、ちゃんと名乗ったことなかったわね。アニー」
「えっ? そうだったかしら? ノエルに、バブーフに、グラキュースよね。聞いてるわ」
町をしばらくいくと不意にノエルがそう切り出し、アニーが慌てた様子で応えた。
「どうしたの? グラキュースは別に名前じゃないわよ。何言ってんの?」
「な、何でもないわ」
「ふーん。じゃ、私からね。私はノエル。フランソワ・ノエル・バブーフ。ノエルって呼んで」
「フランソワって、やっぱり男の人の名前よね? 何でフランソワーズじゃないの?」
アニーはどうしてもそこに引っかかる。名前そのものが冬の帝国人らしくない。おそらく華の共和国辺りの名前だ。だが、何より男性名だということが気にかかる。
「いいのよ! 私は気に入ってるの!」
「気に入っているのなら、フランソワって名乗れば?」
「うっ…… ノエルのほうが…… 可愛いかな…… て……」
「フランソワーズに変えたらいいのに」
「うるさいわね! 放っときなさいよ! アニーこそ、何よ! アナスタシア何よ?」
ノエルが口を尖らせる。少しでも名前におかしなところがあれば、仕返しに大声で笑ってやるつもりなのか、突っかかるように訊いてくる。
「私? 私、実は……」
「何よ? 何黙り込んでんのよ。そんなに変な名前なの?」
「違うわよ。いいわ、ノエルには教えてあげる。私実はアナスタシア以外は、学校では偽名を名乗ってるの。アナスタシア・イツワリノヴナ・カリノナって感じでね」
「はぁ? 何よ、それ? 何でよ?」
「誘拐の危険とかあるからね。市井の学校に通わせてもらう代わりに、お父様と約束したの。本名は絶対に人には明かさないって」
「な……」
「あっ! ノエルは別よ! ノエルには特別に教えてあげる!」
「別に、そんなに強調してくれなくっても、いいわよ……」
「あら、ノエルはもう、私の特別な友達よ」
「……恥ずかしいわね。真面目な顔で、そんなこと言わないでよ」
「そう? でも聞いてね。私は…… 私の名前は、アナスタシア――」
アニーは一度言葉を区切る。もしかしたら、この楽しい時間ももう終わり。一瞬そう思ってしまったからだ。だがアニーは、特別だと思った友達を信じることにした。
「アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ……」
アニーは探るようにノエルを見つめる。皆この名を聞くと、態度を豹変させる。とたんによそよそしくなる。ただのアニーでいられる時間が、いつもそこで終わる。
「偉そうな名前ね。確かに誘拐されそうね。まっ、こんなお転婆ブルジョワは、誘拐犯もさすがに扱いに困るでしょうけどね」
ノエルは一つも態度を変えずに言った。むしろ言いがかりのように、噛みついてさえくる。
「……」
「何よ?」
「それだけ?」
アニーは不思議そうにノエルを見つめる。『ニコラエヴナ』や『ロマノヴァ』と聞いて、何も感じないのだろうかと、思わず隣を歩く少女に見入ってしまう。
確かにノエルの名前は冬の帝国人らしくない。クラスの皆も『工藤』や『郷』など異民族風の名前だ。
冬の帝国の名前の規則性に、この名前に込められた意味に、ノエルは気が向かないのかもしれない。
「だから何よ? 名前が偉そうだからって……」
やはりノエルはアニーの心配に気がつかないようだ。ノエルなら気がついても、それでも友達でいてくれるだろう。だが思い至らないのなら、それはそれでいいとアニーは思う。
「いいの! 気にしないで、ノエル! 私のことは、アニーって呼んで!」
アニーは突然ノエルの両手を、自分の両手で包み込むように掴んだ。そのままアニーは嬉しそうにノエルの体を振り回す。二人の体の中心を軸にして、アニーはぐるぐると回り出した。
「ちょっ、ちょっと! 何よ!」
「ほら! 早く! ノエル! アニーって呼んで!」
「何よ、アニー! 目が回るわよ!」
「あはっ! もっとアニーって呼んで! ノエル!」
アニーは道いく人々の視線をものともせずに、いつまでもノエルと回り続けた。