三、アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ8
「いったーい! 青くなってるじゃない!」
左肩にできた青あざに、アニーは息を吹きかける。
ノエルが言うところの『鎌と鎚の連撃』。右手の鎚で、左手の鎌を打ち込むその攻撃で、アニーは左肩に一撃もらってしまった。ひどい痛みで、直には触れない。
アニーは少しでも痛みを退かそうと、自分の息を吹きかけた。痛みで全く動けない。こんなに本気で叩かれたことなど、アニーの今までの人生には一度もなかった。
「私の勝ちね!」
アニー以上に体中に青あざを作ったノエルが、自慢げに鼻を鳴らす。
「最後に一本とったぐらいで、いい気にならないでよ!」
「最後の一本にこそ、価値があるんじゃない! 私はやられてもやられても戦意を喪失しなかった。アニーは最後の一撃で涙目! 私の勝ちよ! 敵を切り裂く『鎌と鎚の連撃』! ああ気持ちいい! この感じ! 忘れないようにしないと!」
ノエルは興奮覚めやらないと言わんばかりに、喜びにはしゃいでいた。それほどアニーからとった一本は嬉しかったらしい。
「ぐぬぬ……」
アニーが唸る。確かに後半本気で打ち込んだ。その打撃に耐え、ノエルはそれでも戦った。対して自分は肩の痛みに負けて、すでにサーベルをふるうことができない。
「ブルジョワ様は、打たれ弱いですわね」
「打たれよわ…… ぐぐぐ…… あなたがおかしいのよ。痛くないの?」
「慣れよ。慣れ。青あざ作るような痛みなんて、いつも農作業で慣れてるもの」
「ふん。でもこれで、倒した人数で言えば二対二よ。引き分けよ」
「なっ! 強がりね、アニーは!」
「ノエルには負けるわよ!」
「何を!」
「何よ!」
「ぐぬぬ……」
「ぬぬぬ……」
二人はぐぐぐっと睨み合うと、
「……ぶっ、あはは!」
「はは…… あはは!」
どちらともなく噴き出した。そしてそのまましばらく、転げ回るようにお腹を抱えて笑った。
「ひでえ目にあった」
イワン他三人組は、騒ぎを起こしたネフスキー大通りから何筋か外れた通りに逃げ込んだ。
「いてぇよ、兄貴ィ。可愛い女の子だから余裕だって、舐め過ぎたよぉ」
「俺っちも、散々だ。イワン兄が楽勝だって言うから、女の子を狙ったのに」
イーゴリとワシリーが方々を摩りながら、不平を漏らす。
「そう言うなって、お前ら。ほら見ろ。まだ運は俺達の味方だ」
イワンがそう言うと、茶髪の少女がこちらに向けて一人で歩いてくる。
「今度は助けを求められる前に、囲んじまえよ」
「イワン兄もツインテールが好きだね。俺っちは何でもいいけどよ」
「おう。あの髪型に俺はよわ――って、そんなことはどうでもいいんだ。それっ! いけ!」
イワンの合図で、イーゴリとワシリーが茶髪の少女を取り囲む。頭の両サイドで結ばれた茶髪が、立ち止まって大きく揺れた。いやそれは怒りに揺れたのかもしれない。
「役に立たないわね…… 町のチンピラどもは……」
「てめぇ? さっきの赤毛?」
呟く茶髪の少女に、イワンが思わず驚きの声を上げる。茶髪の少女は、髪の結び方はおろか、顔も姿も先程の少女と瓜二つだった。髪の色以外は、全く同じ少女だったからだ。
「ま、おかげで、もっといいこと考えついたけどね……」
「何を…… てめぇ何者だ? 俺達を利用したのか?」
「ふん。知る必要はないわ。あなた達は更迭よ。収容所に送ってあげるわ」
少女は吐き捨てるようにそう言うと、魔力を込めて手を組み合わせた。両の掌を広げて、その甲を相手に向けて指を重ね合わせた。細く優雅な指が、天地左右に交わる。
「何だ? 更迭? 収容所? 何の話だ?」
広げて格子状に重なった指に、鉄格子のイメージがにじんで見える。イワンは少女の仕草にそう思って見入っていると、見る間に自分の体温が下がっていくのを感じた。
「兄貴ィ! さみぃ!」
「凍える! 凍る! 俺っちの体が凍ってる!」
少女の向こうで二人の子分が悲鳴を上げる。だがイワンはそちらを振り向けない。彼自身も瞬く間に体が凍りついていたからだ。
「フンッ!」
「ぐおっ!」
少女が鼻を鳴らすと、三人の体が粉々に砕け散った。そして氷の粉と化した体が、風に巻かれて天高く舞い上がっていく。
「私の代わりに、流刑地で地獄を見なさい」
少女は指を外して冷たく嗤う。
「ふふん。革命の名を利用していいのは私だけよ…… 私の前で二度とあんなこと言わないことね。生き残れるものなら、自己批判して悔い改めなさい」
少女はそれだけ言うと、何ごともなかったかのように軽やかに歩き出した。