三、アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ4
イワンが衆人環視の中、鉄パイプを振り上げた。ワシリーとイーゴリが後に続く。
「フンッ」
「ハイッ」
ノエルが軽々と、アニーが悠々とイワンの一撃を避ける。打ち合わせてもいないのに、奇麗に左右に別れた。すれ違い様に、ノエルがイワンの脇腹に鎚の柄の先を突き入れる。
「痛っ! ぐ…… この……」
「あっ、兄貴ィ! この!」
イーゴリがこん棒を振り上げた。体格に似合わず機敏な動きで振り下ろす。ノエルが半身に体をずらして横に避けると、イーゴリは今度は内から外へ横に薙ぐようにふるった。
「早いじゃない!」
ノエルは左手の鎌の背で、その一撃を上にそらした。その瞬間にイーゴリのお腹が、がら空きになったのをノエルは見逃さない。
ノエルは右手の鎚をすかさず前に突き出した。下から上へと突き出されたその攻撃は、見事に小太りの脂肪の隙間を突いて鳩尾にめり込む。
「ぐえっ!」
イーゴリがつぶれた蛙のような悲鳴を上げた。そのまま大きな音を立てて崩れ落ちる。
「おおお、お嬢ちゃん! 俺っちと遊んでくれ!」
ワシリーが当初の目的を忘れたかのような奇声を発し、アニーにナイフを突きつけた。闇雲に間合いも何もなく、ただひたすら振り回す様は、色に狂った本人の目によく似合っていた。
「ひひひ! どうだ! 怖いだろ?」
「その距離で振り回しても、意味ないと思うんだけど?」
アニーは軽くサーベルをふるった。キンッという金属がかち合う音がして、ワシリーのナイフがあっさりと宙を舞っていた。
「えっ?」
掌を襲った衝撃に、目を剥くワシリー。己の掌からナイフが弾け飛んでいることを悟ると、顔を真っ赤にしてアニーに向かってくる。
「てめぇ!」
「近づかないで――」
アニーがそのワシリーの鼻先に、サーベルを突きつきた。
「ヒッ!」
「危ないから」
アニーがそう告げると、ワシリーの鼻先にナイフが落ちてくる。刃を下にしたそのナイフは、ワシリーの足下の街路に深々と突き刺さった。
「ヒィ……」
ワシリーがその場で気を失ってへたり込んだ。
アニーが鼻で笑ってサーベルを下ろす。
「この!」
そのアニーの上に、イワンの鉄パイプが振り下ろされた。
「アニー!」
ノエルが思わずその名を呼ぶと、アニーは軽やかに振り返る。鉄パイプはアニーの鼻先をかすめて、地面に叩きつけられた。その衝撃に手をしびれさせながら、イワンが毒づいた。
「このアマ!」
「やっと名前を呼んでくれたわね。ノエル」
「何、余裕こいてるのよ!」
「ふふん。だって余裕じゃない」
「てめぇ!」
イワンが怒りに震えて、鉄パイプを振り上げる。
「……」
後ろで怯える赤毛の少女が、両手を祈るように組んだ。目も堅くつむり、一心に何かにお祈りをしているように見える。そう、その腕に隠れた口元が、悪意に歪んでいる以外は――
「えっ?」
アニーが驚きに声を上げる。気を失っていると思ったワシリーが、うつむいたままがっしりとアニーの足首を掴んでいた。まるで腕だけ、別の意思が動かしたかのようだ。
「ワシリーよくやった! くらえ!」
「くっ……」
アニーが唸る。掴まれた足は振りほどけない。振り下ろされる鉄パイプを受け止めようと、アニーがそれでも細身のサーベルを振り上げた。
間に合わない――
アニーが相手の一撃を覚悟したその瞬間、
「アニー!」
ノエルが割って入って鎚を両手で振り上げた。
――ガンッ!
という衝撃音ともとに、イワンの鉄パイプが折れ曲がって宙に舞っていた。だが大振りとなったノエルは、そのままクルッと回ってしまい、イワンに背中をさらしてしまう。
「てめぇ!」
その隙をイワンは逃さなかった。鉄パイプを弾き飛ばされ、更にしびれる腕でノエルの背中に左手を向ける。
「――ッ! 魔法?」
首だけ振り返って目を剥くノエル。魔法で対抗しようにも、完全に背中を見せてしまっている。間に合わない。それでもノエルは障壁を張るべく、己の左手に魔力を集中する。
「くらいな!」
「この……」
「ノエル!」
だが誰よりも早く魔法を放ったのはアニーだった。アニーはとっさに左の掌を跳ね上げる。
「ぐわっ!」
巨大な氷の塊が、雨霰とイワンに横から襲いかかる。一際大きな氷塊を顔面に食らったイワンが、目を剥いて後ろに倒れていった。
「ふふん! どう! アニー様の魔力! 思い知ったか!」
「痛いわよ! 何やってんのよ、アニー! 痛いって!」
「あっ! え、何? ノエル? ご、ごめん!」
とっさに放たれたアニーの氷の魔法。とっさが故に狙いが甘かったそれは、
「痛いって!」
ノエルにも大量の氷塊をぶつけていた。