三、アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ2
月が代わり二月も半ばを過ぎた頃、ある日曜日にノエルはやっと首都に足を向けることができた。すぐにでもきたかったが、母はなかなか許してくれなかった。
実際多くの市民が怯えて暮らしていた。
ノエルのクラスの何人かも、学校に通ってきていない。あの気丈なアニーですら、今では『血の日曜日事件』と呼ばれるあの惨劇以降、学校で見かけなくなった。
世話になったガポン司祭の為に、お祈りを捧げたい。そう言ってノエルは、母を説得した。
ガポン司祭の教会は閉鎖され、兵士が周りを固めていた。市民は遠巻きにしかできない。幾人かの市民が遠巻きにでも祈りを捧げている。ノエルも皆に習って遠くから祈ることにした。
「……聖母様」
ノエルはガポン司祭の為に、聖母に祈りを捧げる。
祈りを終えたノエルは冬の宮へと向かった。
もう一度見ておきたい。そう思ったからだ。
母にはすぐに帰ってくるようにと言われている。だが自分の目で確かめたい。その思いがノエルをして、マリーの言いつけを破らせた。
あの日曜日に、何も知らずに人々について歩いた、ネフスキー大通りを一人で歩く。ノエルは通りの左右に、不安げに顔を曇らす市民の姿を見た。
冬の宮に近づくにつれて、建物の損傷が目につくようになる。バリケードや護身用の角材にする為に、市民が壊した暴動の爪痕だ。
ノエルはネフスキー大通りを奥へと歩く。
建物の損傷は次第に激しさを増していった。破壊された上に、多くが火で焼かれている。
いくつかの街角に添えられた花々。そこに書きつけられた祈りの言葉。一心に祈る遺族と思しき市民。
その光景を心に刻みつけながら、ノエルは更に奥へと向かう。
冬の宮前は一応の静寂を取り戻していた。
だが宮殿の前は増員された衛兵で、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
ノエルは遠くから冬の宮を見つめる。自分が知らなかったことを知った血の日曜日事件。今この国に何が起こっているのかを、突きつけられたあの日の惨状。自分にはまだまだ力がない――そう思い知らされた魔法皇帝の実力。
冬の宮を後にするノエル。歩きながら魔法の鎌と鎚をイメージした。空手で得物をふるう。
誰よりも鋭く、鎌をふるえるようになりたい。誰よりも強く、鎚をふるえるようになりたい。
ノエルは強くそう思う。そして暇な時間があると、このところ鍛錬にあてていた。
「助けて下さい!」
ネフスキー大通りの半ばまでくると、ノエルは不意に後ろから誰かに呼び止められた。助けを呼ぶ声だ。少女の切羽詰まった声だ。
「あの人達が……」
助けを求めてきたは、赤毛の少女だった。
輝く澄んだ瞳を潤ませて、少女がノエルに走り寄ってくる。
左右で束ねられた艶やかな赤毛が、一度両脇にフワッと広がってから肩に向けて落ちていた。その優雅でしなやかな曲線を描く赤毛が、肩が上下する度に大きく揺れる。
「どうしたの?」
「それが……」
「おっと! もう一人増えたな!」
ノエルの問いかけに少女が答える前に、その少女の後ろから下品な声色で男が声をかけてきた。男は三人組だ。三人とも薄汚れた作業着を着ている。
少女を追いかけてきたらしい。手にそれぞれ得物らしきものを持っていた。
「あの人達が…… 私が道で花を売っていたら、革命の資金を寄越せって。私そんなお金……」
「何? ゆすり? たかり? 強盗ね」
ノエルが少女を自分の背中にかくまった。二人の少女の前に、三人組はいやらしい笑みを浮かべて立ちはだかる。通りをいく市民が、遠巻きに様子を窺った。
「失礼だな、お嬢さん。俺達は革命の義士でしてね。きたるべき空想科学的社会――何だ? 何だった? イーゴリ?」
「さぁ? 何だっけぇ? オレ頭わりぃから分からねぇや。ねぇ、ワシリーの兄貴ィ」
イーゴリと呼ばれた小太りの男は、こん棒のような木切れの得物で頭を掻く。へらへらと笑いながら、イーゴリは隣の痩せた小男に聞き直した。
「俺っちだって知るかよ。イワン兄が知らないもの、俺っちが知る訳ねえ。いつもふんふん頷いてりゃいいって、俺っちは言われているもの」
ワシリーと呼ばれた痩せた男は、手に持ったナイフを神経質に右に左にとやりながら答える。
「役に立たねえな、お前らは……」
イワンと呼ばれたリーダー格の男が、鉄パイプを左の掌に打ちつけながらぼやく。
「何よ? 結局分からないんじゃない。ただの強盗ね。こんなか弱い女の子相手にお金せびって、恥ずかしくないの? あんた達?」
「いやいや、お嬢さん。今この国で起こっているのはまさに市民革命。市民一人一人の力が、そう市民一人一人のお金が必要でしてね」
「はぁ?」
一際震え出した少女を後ろに隠してやりながら、ノエルがあからさまに不審の声を上げる。ノエルは軽く念じ、虚空より魔法の鎌と鎚を呼び出した。必要になりそうだ。
「だからこうして、善意の募金を募っているんだよ。その何とか革命の為に」
「ふん。ろくに革命の名前も言えないくせに……」
「言えるさ。空想科学的社会――何だっけな? てか、空想科学って何だよな? まぁ、空想でも科学でも、何だっていいんだけどよ。こちとらは」
「はぁ? バッカじゃないの?」
「何を! イワン兄を馬鹿にすんな! 俺っちと違ってイワン兄は中学校を出てんだぞ!」
「そうだ。オレいつも分け前は、イワンの兄貴にぃ、計算してもらってるぞぉ」
「お前ら黙ってろ。さぁ、どうせ花をいくら売っても、税金を払う気もなかっただろ? それなら革命の為に、その分をこの義士様が使ってやろおってんだ」
鉄パイプをわざとらしく背中に隠し、イワンが少女に手を差し出す。
「はぁん?」
革命の義士を自称するイワンに向けて、ノエルが鼻を鳴らした。
鉄パイプ片手に、年端もいかない少女にお金を要求する義士。そんな義士がいる訳がない。
冬の帝国はデモや暴動で、治安が乱れ出している。革命騒ぎによる世情の混乱だ。
弱体化する政府の支配に、便乗して騒ぐ不埒者だろう。
「お嬢さん。痛い目に遭う前に、おとなしく言うことを聞きな」
「ヒィ……」
「何を……」
少女の悲鳴を背に、ノエルが魔法の鎌と鎚を構える。
そしてノエルが油断なく相手を見据えると――
「お止めなさい!」
凛と響く別の少女の声が、街道に響き渡った。