二、血の日曜日17
皮肉だな――
魔法皇帝は心の中でそう呟く。
前線への攻撃中止命令が伝わらない。そして今また年端もいかない少女と、衛兵が目の前で戦っている。誰がこれを望んでいるというのだろう。誰も望んではいない。
それでも戦いが起こっている。魔法皇帝は現実を見せつけられた気分だった。
「控えよ!」
魔法皇帝はそう命じて、前に出る。奮戦していた若い衛兵が、丁度サーベルを鎌で叩き落とされていた。士官と衛兵が、一斉に直立する。魔法皇帝の前が一瞬にして空いた。
コミュンと戦っていた衛兵すら、相手の間合いに入ったまま無防備に直立する。
「……」
もちろんコミュンは無防備な相手など狙わない。あらためて得物を構え、魔法皇帝に向ける。
「コミュンとやら……」
魔法皇帝は前に出る。冬の帝国の絶対権威が、臣下を脇に控えさせ、自らの足で市民の前に立つ。鋭い視線が、コミュンの瞳を射抜いた。
「魔法皇帝……」
コミュンは息を呑む。魔法皇帝。その気迫。そのすごみ。その威厳。無意識に一歩下がりそうになり、コミュンはそのことに驚く。
「速度の鎌に、威力の鎚か…… いい得物だ」
「何を……」
褒められるとは、夢にも思わなかったのだろう。コミュンは思わず呟く。
「だが左手に鎌では、威力が足りまい……」
「な……」
「そして片手に鎚では、狙いが甘くなる……」
「……この……」
魔法皇帝はコミュンの攻撃を見抜く。その慧眼に、コミュンはやはり気圧される。
「……くっ……」
だが下がる訳にはいかない。だからコミュンはあえて前に出る。それぐらいしないと、気迫に負ける。押し戻される。気圧されしまいと、コミュンは前に出る。
「マジカル・ツァーリ! 覚悟!」
そしてコミュンは気迫に負けた。押し退けなくては、押しつぶされる。その焦りが、短絡な行動を起こさせた。魔法皇帝は抜刀すらしていない。
その魔法皇帝に、コミュンは鎌を振り下ろした。
「いい腕だ……」
魔法皇帝は軽く左手を掲げる。それだけで、コミュンの鎌は防がれる。間を空けず繰り出した鎚の一撃も、見えない障壁に難なく弾かれた。
魔法皇帝が襲われている。それでも脇に控えた、兵士達は動かない。皇帝の命令を守る為、脇に控え続ける。
何故だと、魔法皇帝は自問する。
皇帝の命令を遵守する、鍛えられた兵士達。ただの市民を名乗り、絶対者にすら立ち向かう少女。これだけすばらしい国民がいて、冬の帝国は何故混乱の中にいるのか?
魔法皇帝はそう思わざるを得なかった。
「この……」
コミュンは内心の焦りを自覚する。
魔法皇帝は無傷。兵士は動こうともしない。魔法皇帝が本気を出せば、いや兵士が動き出しさえすれば、コミュンはあっという間に窮地に立たされるだろう。
そのことを分かっていながら、魔法皇帝はコミュンの攻撃を甘んじて受けている。受けて立たれている。そう、コミュンの力は、まるで魔法皇帝に通じていない。
「く…… この……」
コミュンの鎌は届かない。コミュンの鎚は当たらない。繰り出す威力を増し、角度を変えても、その前で弾き返される。魔法皇帝に一撃を入れる前に、その障壁を破らなくてはならない。
「……」
コミュンは目を凝らす。淡い光が魔法皇帝の前に展開されている。同心円を描く光の輪だ。
コミュンは目測を、障壁に切り替えた。とっさに鎌を腰のベルトに差し、鎚を両手で構える。
「ダアッ!」
コミュンが裂帛の気合いとともに、鎚を振り下ろす。狙うは障壁の同心円――その中心。
その狙い通りに鎚が振り下ろされる。そこしかないという、障壁の中心。ただ一点にだ。
「何!」
魔法皇帝は思わず声を上げる。障壁の実体を見破り、ましてやその中心を寸分の狂いもなく打ち抜く。その技量。鎚の先端に集められた魔力も、見事としか言いようがない。
障壁が音を立てて砕け散った。
「これで!」
砕けた障壁が床に落ちきる前に、コミュンは前に出る。ベルトから鎌を抜き放ち、その勢いのまま魔法皇帝の右脇を狙う。
「ぬっ!」
魔法皇帝はついに抜刀した。だが間に合わない。左の腰から抜き放ったサーベルは、構え直すには遅過ぎた。しかし――
「――ッ!」
コミュンは目を見張る。完全にとらえたと思っていた、魔法皇帝の右脇。サーベルは間に合わない。そのはずだった。
だが魔法皇帝のサーベルは、抜かれたままの勢いで、コミュンの鎌を柄尻で迎え撃っていた。コミュンの鎌の先が、魔法皇帝のサーベルの柄に僅かにめり込む。防がれる。
「この!」
コミュンは更に一歩前に出る。前に出る勢いのまま、右手の鎚をふるう。
「食らえ! 『鎌と鎚の挟撃!』」
左手の鎌はそのままに、右手の鎚で魔法皇帝の左脇を狙う。魔法皇帝とは、鎌とサーベルでお互いが釘づけにされている。大振りになりがちな鎚の攻撃でも、これなら確実に相手をとらえることができるだろう。
「陛下!」
流石の家臣も思わず、身構えようとする。
「ハッ!」
魔法皇帝は気合いとともに、サーベルに力を入れた。鎌に柄を抑えられたサーベルは、僅かにしか動かない。それでも刃の角度が変わると、その切っ先は鎚の攻撃を正面から迎え撃った。
――ガンッ!
と、互いの手に響く鈍い衝撃。鎚の面の打撃を、サーベルの点の切っ先が押さえていた。
「うろたえるではない!」
力に負け、たわみ、歪む魔法皇帝のサーベル。それでもコミュンの鎚を、すんでのところで押し止める。魔法皇帝は臣下に一喝し、コミュンの挟撃をサーベル一本で耐え抜いた。
「――ッ!」
「伊達に魔法皇帝は名乗っておらんわ!」
驚愕するコミュンに、魔法皇帝が左手を向ける。かざされた左の掌から、不可視な力が放出された。
「なっ?」
コミュンの体を急激な浮遊感が襲う。一瞬何が起こったのかコミュンには分からない。歪んだサーベルが床に落ちた。
「ガッ!」
コミュンは天井に打ちつけられた。悲鳴が漏れる。その余りの勢いに、身構えることすらできなかった。一瞬の後、重力に負けて、コミュンの体が落ち始める。
だが魔法皇帝の魔力は、まだコミュンをとらえたままだった。
「――ッ!」
今度も何が起こったのか分からない。コミュンは魔力で水平に一度振り回され、壁に向かって投げ飛ばされた。己の身に何が起こったのか分かったのは、眼前に壁が迫ったその時だった。
「このっ!」
激突――その寸前。とっさに身を屈め、コミュンは身を丸くする。コミュンはそのまま放たれた独楽のように、空中で勢いよく回転した。
魔力のありったけを、鎌に集中する。鎌から放たれた魔力は、回転の度に放たれ、壁に次々と切り傷をつけた。
「ハッ!」
気合いとともに身を拡げるコミュン。鎚の柄を両手で持ち直し最後の回転で壁にふるった。
「何と……」
魔法皇帝は思わず唸る。
解き放たれた魔力の激突とともに、砕け散る壁面。そのコミュンのとっさの機転と魔力に、この国の魔力の頂点に立つ者が思わず感歎の声を漏らした。
ここは冬の宮。その最奥の司令所。壁は外壁。その向こうは、もう外だ。
「……この……」
コミュンは瓦礫とともに、穴から空中に投げ出される。
陽がやっと傾き始めていた。緯度の高い、冬の帝国の首都サンクトペテルブルク。その長い冬の一日が、やっと暮れ始めていた。
コミュンは灯りの漏れた、自らが壊した壁面を空中で睨みつける。魔法皇帝の姿は見えない。一撃も届かず、コミュンは魔法皇帝から逃げ出した。
「完敗だわ……」
冬の宮の裏――ネヴァ川の冷たい水面に落ちながら、コミュンは一人歯ぎしりをした。