一、フランソワ・ノエル・バブーフ3
「何さらすのよ! このケダモノ!」
少女は走ってきた勢いそのままに飛び上がると、自分の何倍もあるようなアムールタイガーの顔に、両足の裏を食らわせた。
「ガハッ!」
獣は一気に目が覚めた。寒さと空腹のあまり、眠りかけていた。
この極寒の国『冬の帝国』で、街角といえども眠ってしまっては命がない。
実際死の覚悟をした。
だが今の一撃で、あっという間に気合いが入った。目が覚めた。
「何をする!」
獣は自分の顔にめり込んだ、少女の足の裏を振り払って叫ぶ。自分でも、先程まで死を覚悟していたとは思えない程の、大きな声だった。
少女は軽やかに着地する。足を振り払われたとは思えない、鮮やかな身のこなしだった。
少女は衝撃を膝を折って吸収すると、何事もなかったかのようにすっと背筋を伸ばす。
その少女の後方には、頭に無数のたんこぶを作った少年達が、山のように折り重なっていた。
少女はそのまま自分が不注意で落とした塩を舐めていた、巨大な獣を見上げて口を開く。
「あら? 人語が理解できるのね。まさか……」
「いかにも。ワシは魔法のマスコット猛獣――戦漢ポチョム……」
獣はそこで言い淀んだ。こんな町中で、本名を大声で名乗り上げようとしている。国に追われる身としては、正気の沙汰とは我ながら思えない。何か調子がおかしい。
「? 何よ? ポチョム――何?」
少女は言い淀んだ獣に、その先を促した。周りに市民が群がる。誰も近づいてこない。
彼らが近づいてこないのは、先程までならその獣の放つ『忌み』の雰囲気によるものだろう。関わってはいけないという暗黙の了解だ。
今は違う。それは王者に対する『畏怖』に変わっている。近寄りがたい王者の気だ。獣の放つ威圧感はそれだけ圧倒的だった。
だが少女は臆するところがないようだ。自分を見下ろす獣を、怯まず見上げている。睨み返している。正義は我にある。その堂々とした顔は、まるでそうとでも言いたげだ。
「ワシは…… ポ…… ポチョ…… ポチョ…… ポチョムくん……」
獣は思わずウソをつく。だがそれほど本名とは、かけ離れていない。言った端から、しまったと獣は思ってしまう。
「ポチョムくん? ガタイの割に可愛い名前ね」
「そ、そうか?」
ポチョムと名乗った獣は困惑する。
軍属でもなくなり、ましてや貴族でもなくなった自分はただの獣だ。怖がられて当たり前だ。それなのに目の前の少女は、全く臆するところがない。
「私はノエル。フランソワ・ノエル・バブーフ。ノエルって呼んで。名前の可愛さなら負けないわ」
ノエルと名乗った少女は自分の名前が自慢なのか、自信満々に鼻を鳴らす。
「フランソワーズ……」
「フランソワ! フランソワ・ノエル・バブーフ! ノエルよ!」
「しかし、フランソワは異国の名前で、確か男性につけるものでは?」
「いいの! 私は気に入っているの!」
「そ、そうか。分かった、ノエル殿か」
「殿って何よ? かたっ苦しいわね」
「そ、そうか? そうだな……」
かと言って元貴族にして元軍属のポチョムには、柔らかい話し方などできない。とりあえず頷いた。どうもこの少女は人の――いや獣の調子を狂わす。
「それより…… それどうしてくれるのよ」
ノエルは地面に落ちた、塩の袋を指差した。
「ん? あの塩は、お主のだったのか?」
「そうよ」
「それは申し訳ない」
「申し訳ないで済むの? 破れてるじゃない」
「えっ、それは最初からでは? 落ちた拍子に破けたのではないですのかな……」
「お黙り! 言い訳なんて男らしくない! あなたに責任がないって言うの?」
ノエルはズイっと前に出た。
取り巻いた市民がどよめく。ちょっと獣が顔を前に出せば、食われてしまうような距離だ。実際この虎の口は、少女の腰から上など一呑みに見えた。
「グッ…… 確かにワシも一口、いただきはしましたが……」
「でしょ! 弁償してもらうからね! ポチョムくん!」
「べ、弁償ですかな?」
「ふふん、そうよ。高くつくわよ……」
ノエルはポチョムを見上げながら、不敵な――それでいて屈託のない笑顔を向けた。