二、血の日曜日14
ポチョムは壁際に追い詰められた。兵士による発砲。ポチョムは飛び上がって、銃弾を避ける。逃げた先も壁。周りを取り巻く兵士達。もはや突破できない。多くの兵を引きつけた。ノエルのいた場所から、少しでも多くの兵を遠ざけた。
「後は……」
ポチョムが建物の脇道に逃げ込む。だがそこは袋小路。いき止まりだった。
ちょうどいい…… 後は、人目のつかないところで死ぬだけだ――
その思いを胸に、ポチョムが振り返る。
『戦漢』の二つ名で呼ばれた獣が、己の命の使い道を悟る。
ポチョムを追い詰めたと見た兵士達が、袋小路に雪崩れ込み、立て膝で銃を構えた。
「悪くない…… ですな……」
士官が発砲の号令をかけようと、手を振り上げた。
ポチョムにはそれは、かなりゆっくりとした動きに見えた。
「ここで死ねば…… ノエル殿の目にはとまるまい……」
ノエルの顔を思い出す。マリーの顔を思い出す。三人で囲んだ夕食を思い出す。
「皆…… 今いく……」
反乱の仲間達を思い出す。彼らに比べれば自分は幸せ者だ。ノエルに出会ったあの日。本当ならあの日に死んでいた。いや反乱の時に死んでいてもおかしくはなかった。あの日から今日まで、魔法のマスコット猛獣には過ぎた幸せを味わった。親もいない自分が家族を持てたのだ。
兵士の後ろで、士官が手を挙げる。一斉発射の合図。後は号令ととともに、振り下ろすだけ。士官が大きく口を開いた。
「充分だ……」
ポチョムは覚悟を決め、目をつむった。
その時――
「マルクス! エンゲルス! コミンテルン!」
その声に全員の動きが止まった。
ポチョム。ポチョムを追い詰めた兵士。遠巻きに逃げ惑う市民。その場にいた全ての人間が、その透き通るような少女の声に耳を奪われた。
「世界同時に革命よ!」
十字の閃光が壁に走る。
兵士の横少し後ろの壁に、十字の傷が一瞬にして入った。レンガの壁にだ。十字の細い隙間が開き、そこから光が溢れ出る。
十字の光だ。
瞬時遅れて、その光とともにレンガが弾け飛んだ。
「魔法同志! コミュっ娘! コミュン!」
レンガが砕け散った壁から出てきたのは、軍服と軍帽の少女だった。いや軍服をモチーフにしたツーピースのドレスを身にまとった可憐な少女だった。
長い髪を編み上げ、その軍帽に押し込んでいた。
その左手には鎌。右手には鎚を持っている。
軍服は赤い。真っ赤に染め抜かれている。燃えるように赤い軍服は、まさに少女の勇気を表すかのようだ。そう、国旗にも染められている、勇気を象徴するかのような赤だった。
兵士が上半身だけで振り返る。そして誰もがその姿に声を奪われた。一言も発せられない。
「そうよ! 私は護民官!」
ゆっくりと少女は瓦礫を乗り越えて、袋小路に進み出る。凛とした姿勢で、兵士達の後ろに立った。少女は鎌と鎚を左手に持ち替え、己の腰にその手を当てる。
兵士達は上半身を後ろに捻ったまま、目を奪われる。目が少女に釘づけになったまま、全く瞳が動かせない。
「君のハートに――」
少女は兵士達に、そしてその奥のポチョムに、右手を差し出した。ポチョムも含め十数人はいるのに、全員が自分に手を差し伸べられたのだと何故か思った。
「チェ――」
『チェ』は異国の言葉で、『やぁ』や『ねえ君』等の呼びかけの言葉だ。
少女はその呼びかけの言葉とともに、自分の右手を優雅に動かした。肘を上げ、掌を前に向けながら、顔の前まで持ってきた。掌を大きく拡げ、小指の先までピンと綺麗に、すべての指が伸ばされている。顔の大部分が掌で隠されてしまった。だがかえって指の間からのぞく眼差しが、魅力的な光を放つ。
大きく開いた薬指と小指の間から、左の瞳で少女は前を見つめる。
少女が自分だけを密かに見つめている。その仕草に誰もがそう信じた。『ねえ君』と、自分だけに呼びかけているのだと信じた。そして兵士達は思わず、少女に向き直る。
「ゲバ――」
少女は一転して、腕を拡げる。右手を後ろに伸ばし、掌を上に向けて、大きく胸を張った。
一度は隠した顔があらわになる。一度隠されたが故に、誰もがもう一度見たい。そう切望せざるを得ない美貌が、全ての視線を受け止める。
その少女の切れ長の瞳はつむられていた。武器を持つ兵士を前にして、無防備にして、無警戒。誰がきても構わない。誰でも受け入れる。誰であっても許しを与える。それがたとえ銃殺の為に、自分に銃口を向ける兵士であっても私は愛を与える。そう言っているかのようだ。
まるでイコンの中の聖母のような荘厳さと寛容さ――
それでいて、革命に命を捧げた英雄のような気高さと誇り――
それが、その万人に向けて開かれた胸から、溢れ出ている。
兵士達は我知らずに一歩、前に出る。心を奪われる。次々と聖母の名を口にし、無意識に銃口を下ろしてしまう。
「ラ!」
少女はその言葉とともに、一転して右手で敬礼した。少女の目が一気に見開かれる。
その最後の一言が――
少女の全てを射抜く凛々しい視線が――
兵士の、そしてポチョムの心を貫いた。それは魂をも貫く声と眼差しだった。