二、血の日曜日10
逃げ惑う人々を避け、ポチョムはノエルと人気のない民家に逃げ込んだ。傷に響かないようにと、ポチョムはゆっくりとノエルを壁にもたれかけさせる。
「……ポ……」
「話さなくていい…… これを……」
ポチョムが魔力を込めて念じる。ガラスの小ビンが現れた。床に直に座るノエルの前に、ゆっくりと漂ってくる。
「……」
「超タウリン。一口だけですぞ……」
いつぞやのかすり傷とは、怪我の具合も深刻さも何もかもが違う。飲んだ分だけ治るのなら、目一杯飲ませてやりたい。だが超タウリンは劇薬だ。弱った体には、毒そのものだ。
ポチョムはノエルに一口だけ舐めさせ、徐々に回復させるしかないと考えた。
「……」
ノエルは見るからに痛々しい腕でビンを掴む。
その血だらけの腕から、思わずポチョムは目を背けてしまう。
「グ……」
一口舐めただけでノエルはやはりむせてしまう。そしてその衝撃にビンを落としてしまった。
「あ……」
中身をこぼしながら、超タウリンのビンが転がっていく。ノエルは思わず手を伸ばしたが、やはり痛みに耐えられないようだ。腕を伸ばすことすらできなかった。
「構わない。安静に……」
ポチョムは転がっていくビンを見送って、ノエルに話しかける。
この様子では、二口目はかなり危険だろう。超タウリンによる回復はあきらめ、ノエルの自然な回復を待つしかない。
だがそれではもどかしい。ポチョムは思わずノエルの傷を舐め出した。
「ごめんね…… ポチョムくん……」
「いい…… 話さなくて……」
「……ごめんね……」
「いいんだ……」
「ごめ……」
「いいんだ!」
「……」
逃げ込んだ先の無人の民家。壁に背中を預けるノエル。
ノエルは痛みのせいか、まるで体を動かそうとしない。
外からはまだ、銃声と喚声が聞こえてくる。だがここだけは、偽りの静寂が支配していた。ポチョムには別世界のように思えた。しかし長くはもたないだろう。
ポチョムはその大きな舌で、ノエルの傷を舐め続ける。ポチョムが静かにノエルの傷口を舐める。黙々と。ただ黙々と。
「……」
ポチョムは一心にノエルの傷を舐める。もちろん魔力を込めている。魔力による回復に比べれば、傷口を舐めることなどたいした効果はないのかもしれない。だがノエルは、身も、心も傷ついている。少しで多く、触れてやらずにはいられない。
外の銃声が大きくなる。悲鳴を伴っていた。ここももう、安全ではないのかもしれない。兵士は民家の中にも踏み込んでくるだろう。この偽りの静寂も、もうすぐ終わりを告げるだろう。
「……」
それでも安心したのか、ノエルがゆっくりと目をつむった。
「ノエル殿……」
ポチョムは舌を休め、その顔に見入る。ノエルはそのまま、眠りにつきそうだった。外の銃声はますます大きくなる。ブーツの足音も聞こえる。兵士は近くまできている。
「……」
ノエルは眠ったようだ。張っていた気が、一気に緩んだのだろう。ポチョムはノエルの寝顔に見入る。そのまだあどけなさを残した顔を、脳裏に刻みつけようとする。そして――
「……」
覚悟を決めた。ポチョムはその身を翻す。
「ダメよ……」
寝ているうちにと思ったが、ノエルはすぐに目を覚ましたようだ。或はポチョムが身を翻したその物音で、目を覚ましたのかもしれない。もしくはその悪い予感で。
「ポチョムくん…… ダメ…… いっちゃダメ……」
ノエルはポチョムを引き止めようとしてか、その体を掴んだ。
だが意識がもうろうとする体では、思うように力が入らないのだろう。かろうじて、ポチョムの脇腹の体毛を掴んでいた。腕はおろか、体中に力が入らないようだ。ポチョムに引かれたその体は前に屈み、力なく頭を垂れてしまう。
「ノエル殿……」
「ダメよ…… 死ににいくつもり……」
ノエルは顔を上げた。今ここで手を離しては、ポチョムはいってしまう。自分に注意を引きつけ、この場から兵士を遠ざける為、囮となりにいってしまう。
「……そうそう、欲しがっていたですな…… 新しい鎌と鎚……」
ポチョムの体が優しく光った。その身から真新しい鎌と、鎚が現れる。ノエルが欲しがっていた鎌と鎚。ポチョムが特別に魔力を込めて産み出した、魔法のアイテムだ。
鎌は短い柄に、三日月を思わせる大きく湾曲した刃がついている。手元から半円を描くその湾曲した刃。その先端は、柄の延長線上を飛び出す形で鋭く伸びている。
そう、先端にいくほど細く、鋭利になるその刀身は、まるで虎がふるう爪を思い起こさせた。
鎚は木製の長い柄に、黒光りする鍛鉄の頭部がついている。大振りだが片手に余る程ではなく、用途によって使い分ければ、片手でも両手でも威力を発揮するだろう。
そして無骨だが重厚なその流線形の頭部は、あたかも虎が獲物に剥く牙で作ったかのようだ。
「これがあれば草刈りも、土木作業も楽ですぞ――」
微笑んだポチョムの口中から、白い歯の光がこぼれて見えた。一際大きな上顎の右の牙が一本、その口からなくなっている。外からは見えないが、右前足の爪も一つなくなっていた。
「何と言っても、魔法のマスコット猛獣の力を持つ、鎌と鎚ですからな」
何時の日かくる別れの日。その時の為の餞別のつもりで考えていた。たとえ自分がいなくなっても、自分の分身で少しでも楽に農作業をして欲しい。
その思いから考えていた、魔法の鎌と、魔法の鎚だ。
あやうく渡し損ねるところだったが、ノエルに一度引き止められたお陰で思い出した。
「……何言ってるの……」
ノエルは別れのしるしに、この鎌と鎚をポチョムが差し出そうとしていることに気づいた。餞別。いや違う。これでは餞別どころではない。
形見と思って下され――
ポチョムは声に出さずにそう告げると、顔をノエルの頬に近づけた。そのまま大きく鼻で息を吸い、ノエルの匂いを脳裏に刻み込む。鼻の調子に関係なく、吸える限り大きく息を吸う。
ノエルの周りの空気とともに、その思い出を胸に納める。息を吸い終わると、一呼吸置いて頬をノエルに押しつける。自分の温もりと匂いを伝え、感謝と信愛の情をノエルに伝えた。
「楽しかったですぞ!」
そう告げるとポチョムは、前に向き直る。もう未練はない。ノエルの顔から、ポチョムが離れる。ゆっくりと歩き出す。それだけで、ノエルの指は引きはがされた。
「いやっ…… ポチョムくん!」
必死に手を伸ばすノエルの叫びもむなしく、ポチョムは振り向きもせずドアに向かう。振り向いてしまっては、ノエルにまだ引き止める希望を持たせてしまう。そんな訳にはいかない。
自らも振り向きたい思いを振り切って、ポチョムはドアをくぐる。
「う…… うう…… うわぁ……」
ノエルは手を伸ばす。だが足が動かない。前のめりに倒れてしまう。
ノエルは慌てて顔を上げた。
だが――
「ポチョムくん……」
ポチョムの背中はもう、ドアの向こうに消えていた。