二、血の日曜日9
白い軍服の胸が大きく上下した。胸に飾られた勲章が、その声に合わせ波打つように揺れる。
「バカ者!」
魔法皇帝――ニコライ二世――は叱責する。冬の宮の謁見の間で、大臣から報告を受けた。デモは暴徒と化し、兵はその鎮圧に乗り出したと言う。
「何ということか……」
そしてそのまま、歯を食いしばる。奥歯がギリッと鳴る。砕けたかと思う程の音だった。
「……それは……」
要領を得ない大臣の報告。それ以前に聞こえてくる銃声と怒号。何より市民の悲鳴。どんな惨劇が行われているか、想像するまでもない。
「厳命と申したはずだ!」
「は……」
魔法皇帝の激昂に、大臣はただただ縮こまっている。まるで役に立たない。
「ラ――」
魔法皇帝は思わず、皇帝直属の僧侶の名を呼びかける。僧侶はいなかった。彼は今、皇子の病気治療で席を外している。そんな簡単なことも失念していた。
「もういい! 直接指揮を執る!」
他の者に任せてはおけない。苛立つ心そのままに、魔法皇帝は席を立った。
ポチョムは人々が逃げ惑うネフスキー大通りを、奥へ奥へと駆け抜ける。血の匂いと、肉の焼ける匂いが一際鼻につく。だが求めていた匂いが最もする通りだ。
ノエルはここにいる。ポチョムはそう確信する。
「ノエル殿!」
ポチョムは後ろ足で立ち上がり、周囲を見回す。自分程巨大な獣がいて、目立たない訳がない。ポチョムの声を聞いたノエルが、これで自分を見つけて駆け寄ってくる。そう考えた。
「ノエル殿!」
ノエルは現れない。人々が自分を遠巻きに避けて、逃げ惑う。ノエルはこの人波に呑まれて、上手く動けないのかも知れない。自分から見つけなくては。ポチョムはそう思った。
「ノエル殿!」
ポチョムは首を巡らす。匂いは強烈だ。ノエルはここにいる。だがノエルの姿が見えない。こちらを呼ぶ声もしない。ノエルは優しい娘だ。誰か怪我人の手当でもしていて、こちらに振り向けないのかもしれない。ポチョムはそう信じた。
「ノエル殿……」
駆け寄りもせず、返事もなく、姿すら見せない。
ポチョムは低く唸る。あってはならない考えにとらわれる。ポチョムは考えまいと首を振る。
そしてその時、視界の端に何かが映った。
逃げ惑う、人々の足の間に――だ。
ポチョムは怒りのあまり歯ぎしりをする。
あんな優しい娘が、血溜まりの中で倒れていていいはずがない。逃げ惑う人々に、踏まれていていいはずがない。曲がるはずのない方向に、足を曲げていていいはずがない。
「グアアアァァァッ!」
ポチョムは人波を弾き飛ばしながら、ノエルに向かって突進した。
ポチョムは一際大きく跳躍すると、ノエルの上に覆いかぶさった。
「グアアアァァァァアアアアァァァッ!」
渾身の力で、声の限り周囲を威嚇する。誰も近づけない。もう誰にも傷つけさせない。誰の目にも触れさせない。沸き上がる怒りのままに、ポチョムは咆哮した。
「……ポチョムくん……」
ノエルが小さく呟く。その弱々しい声が、ポチョムの心を引き裂く。
「ごめんね…… ポチョム…… くん……」
「話さなくていい……」
逃げ惑う人々から守る為、ポチョムが己の四肢の下でノエルをかばう。遠くに兵士の姿が見える。市民に発砲しながら、こちらに近づいてくる。
「……ごめ……」
「話さなくていい!」
ポチョムは自分の魔力の全てを、ノエルの傷に向けた。まずは血だ。出血を止めなくてはならない。痛みを和らげてあげたい。安全なところに運んでやりたい。励まして力づけてやりたい。そんな当たり前の願いすら、今のノエルの為には後回しにせざるを得ない。
ノエルの顔は蒼白だ。血が足りていない。これ以上の出血はさせられない。
兵士が近づいてくる。人々が逃げ惑う。ポチョムが唸る。ノエルには指一本触れさせない。睨みを利かす。
だが狂気と恐怖に取り憑かれた人々は、ポチョムの気迫にすら負けずにこちらに流れてくる。
「ガアアァァァアッ!」
ポチョムが吠える。怒り任せて吠える。牙をふるいたい。爪を食らわせたい。魔力で蹴散らしたい。ノエルの安全の為なら、他の誰をも犠牲にしても構わない。そう思ってしまう。
だが――
「……」
ノエルがポチョムの足を掴む。その温かくも冷たい手。
ポチョムが耐えている。それがノエルには分かる。だから力づけようと、力の入らない手でポチョムに触れてくる。その思いが、ポチョムの足を通じて伝わってくる。
「ノエル殿……」
出血は止まった。ノエルはそれでも歯を食いしばっている。痛みが退かないのだろう。ノエルは立ち上がろうとしない。できないのだろう。だがいつまでもここにいては危険だ。
ポチョムは思い切って、ノエルの襟足をくわえた。
「――ッ!」
ノエルが声にならない悲鳴を上げる。
構わずポチョムは地面を蹴った。衝突の最前線を逃げ去り、今きた道を引き返す。乾き切っていないノエルの血が、点々と地面に滴り落ちた。