二、血の日曜日8
ポチョムは駆けた。町を駆け抜けた。人々の驚く顔など構ってはいられない。町を縦断し、もう一度街道に出れば、後は真っ直ぐ首都だ。
「これは……」
その首都サンクトペテルブルクからは、嫌な匂いが漂ってくる。不吉な匂いだ。人間並みに落ちてしまったポチョムの鼻でも分かる。
まず鼻につくのは煙の匂い。多くはものが焼ける匂いだが、その中に混じった火薬の焼ける匂いが、一際ポチョムの心をも焦がそうとする。
そして少し遅れて肉の焼ける匂いがする。熱い鉄に焼かれた肉と血の匂いだ。
「何ということだ……」
肉と血の焼ける匂い。その匂いとともに、悲鳴を上げる人々の顔が浮かぶようだ。自身の反乱の際に、散々と嗅いだ匂いだ。
間に合ってくれ――
そう願いながら、ポチョムは駆ける。街道を駆ける。四肢の限り、魔力の限り駆ける。
首都が僅かに視界に映った。駆ける視界で揺れる首都は、そのまま激動に揺らぐこの国そのものにポチョムには見えた。
乾いた銃声が聞こえた。人の命を奪っているとは思えない程、あっけなく小さな音だ。反乱の際に銃撃で死んでいった仲間の姿が、ポチョムの脳裏に思い浮かぶ。
「ノエル殿!」
ポチョムは力の限り四肢に魔力を送り、街道を駆け抜けていった。
ノエルを撃った兵士は、恐怖からか、奇声を発しながら人々の向こうに去っていった。
「どうして……」
ノエルは自分の状況が信じられない。撃たれて血を流している自分。信じられない。
「く……」
何人かの民衆が、ノエルにつまずき、あるいは踏みつけながら逃げ惑う。
ノエルもこの場を離れようとした。だが足に力が入らない。冷たい石畳の上を手で這う。意識が遠退きそうになる。
「お母さん……」
誰かがノエルにぶつかった。ノエルは力なく地面に突っ伏す。
「お…… 父さん……」
ノエルは足を踏まれる。形容しがたい痛みが走る。
「――ッ!」
思わず足を触ろうとした。だが触っていいのかどうかも分からない。あっという間に赤く腫れあがる。
「……ポチョム…… くん……」
ノエルは歯を食いしばり、遠退く意識をかろうじて引き止めた。
ポチョムは首都に入っても、力を緩めず駆け抜けた。
「ノエル殿!」
ポチョムは自分の鼻に、魔力を集中する。失われた嗅覚を魔力で呼び戻す。
血と鉄の焼ける匂い。そして火薬の匂いがポチョムの嗅覚を、そして脳を直撃した。
ただの匂いだというのに、ハンマーで殴られたかのような衝撃だ。ノエルのことがなければ、すぐにでも魔力を解除するだろう。
強烈な負の匂いが、辺りに充満していた。このまま魔力を鼻に集中していては、最後には鼻がいかれてしまう。ポチョムはそのことを本能で悟る。
それでも魔力は途切れさせない。ノエルを見つける為なら、今のポチョムなら己の心臓だって差し出すだろう。
「虎だ!」
突然のアムールタイガーの乱入に、市民が混乱する。
ただでさえ逃げ惑い、押し退け合っていた群衆だ。今きた道に戻ろうとする者。脇にそれようとする者。仲間とはぐれて首を方々に巡らし、立ち止まる者。前の状況が分からず、後ろから押す者。倒れてしまい、皆に踏みつけられる者。地に伏せ、そのまま動かない者――
元々の混乱に、ポチョムの出現が一部で拍車をかけた。
だがポチョムは構っていられない。この混乱の中にノエルがいるのだとすれば、一刻も早く助け出さなくてはならない。
「こっちには兵士がいるんだ!」
群衆の誰かが叫ぶ。
「怪我人が! 怪我人がいる…… 通してくれ!」
「撃ってきやがった…… あいつら…… 俺達をなんだと……」
「逃げろ! 本気だ! 兵士の奴ら本気で俺達を――」
最後の男性の声は、銃声とともにそこで途切れた。
「ノエル殿!」
ポチョムが叫ぶ。ノエルの匂いが微かにする。だが、ここを通ったであろう――その程度の僅かな残り香だ。
「どけ! どいてくれ!」
ポチョムは更に奥に進もうとした。だが群衆は発砲から逃れる為に、こちらに死にものぐるいで駆けてくる。
「クソ……」
ポチョムは思わず爪を地面に立てる。この群衆を、爪と牙でかき分けて進みたい。弾き飛ばしてやりたい。我知らずそう思ってしまう。
ポチョムが本気を出せば、人間は紙切れのように吹き飛んでいくだろう。
「ダメだ……」
ポチョムは目をつむって首を振る。その考えを意識して振り払う。ノエルの笑顔が脳裏に浮かんだ。ノエルはそんなことを望みはしない。ポチョムにも分かっている。
ポチョムは一歩前に踏み出した。やはり群衆に押され、思うように進まない。たった一歩すらもどかしい。
「グオォォォォッ!」
ポチョムは吠えた。力の限り吠えた。自分のふがいなさに吠えた。
太い四肢も、強靭な顎も役に立たない。巨躯も、しなやかな筋肉も飾り物のようだ。魔力も魔法も、何の為に身につけているのか分からない。その情けなさに、ポチョムは吠えた。
だがその咆哮が、僅かに群衆を左右に分けた。ポチョムの前の人の波が微かに開く。
「ガァーッ!」
ポチョムは憤りのままに、咆哮を上げた。その僅かな隙間に突撃する。人垣が更に割れる。
「ノエル殿…… 今、いく!」
ポチョムは人垣を己の咆哮でかき分けながら、かろうじてノエルの匂いのする方へと急いだ。