一、フランソワ・ノエル・バブーフ2
「塩……」
その大きな獣は、死にかけていた。飲まず食わずが何日続いただろう。水だけしか口にしていない。いや正確には雪だ。母なる大地に降り注ぐ恵みの雪。農家には恨めしいだろうが、この雪だけが、その獣の命を繋いでいた。
「恵みの塩か……」
獣は目の前に落ちている塩の入った袋を見つめる。顔を近づけてその目で見ないと、塩かどうかすら分からない。獣特有の自慢の鼻は、衰弱のあまり全く利かなくなっていた。
だが確かに塩だ。海に投げ出された時は、その塩辛さが恨めしかった塩だ。塩水はいくら飲んでも、喉を潤すことはない。むしろ焼けるような喉の痛みを呼び起こす。
塩を見て、この獣はあの時の喉の痛みを思い出した。
そして何より大量の塩水を飲んで、海に沈んでいった反乱の同志達を思い出さされた。
ありがたい。そう素直に思いながら、獣は一口塩を舐めた。塩は命に不可欠な物だ。だが彼のように飲まず食わずの状態では、どうしても不足する。しょっぱい味が舌とその身に染みた。
彼の反乱は失敗に終わった。船上での反乱。
攻撃を受け、仲間は皆海に投げ出された。
多くの者が海に呑まれ、生き残った仲間ともはぐれた。獣の身でありながら、軍属であり、貴族の称号すら得ていた彼も、今や追っ手に追われる身だ。
塩を舐め獣はやっと一息吐いた。
皆近寄ってこぬかと、獣は辺りを見回す。
久しぶりの塩分だ。生き返った気がした。周りを見る余裕が生まれた。首都郊外にある小さな街。申し開きの為に首都に向かっていたが、その手前の街で力尽きようとしている。
町中に入るのは危険だと思っていた。だがどうせ死ぬのなら、にぎやかなところで死にたい。そうも思っていた。多くの人々に囲まれた、幸せな時代を懐かしんでの望みだった。
だが今は誰も近寄ってこない。遠巻きに様子を窺っている。
死にかけの、傷だらけの、薄汚れたアムールタイガー――
体長四メートルにもなろうかという、その巨体には、誰も近寄ってくるはずはなかった。
「分かった…… 去ろう……」
誰に聞かせるでもなく、獣は小さく呟く。
貴族に列せられていた時は、子供達が我先にと駆け寄ってきた。まさに飛びついてきた。他の貴族達は敬意を持って接してくれた。子供達は競い合うように、彼の背中によじ登った。
幸せな思い出だ。
獣は町を去る為に、体を翻そうとした。ガクっと上体が傾く。左前足に力が入らなかったのだ。情けないことに体勢を整えることができず、顎から冷たい大地に落ちてしまった。
「クソッ……」
獣は悪態をついて体を起こす。目がかすむ。
もうダメかと、獣は覚悟を決める。だが、ここではと獣は最後の力を振り絞る。
町の住民は怯えている。ここでは死にたくない。弱気になって人恋しくなったが、どうも彼らは歓迎しては――いないらしい。
獣は己に残された力を絞り上げるように顔を上げた。ぼんやりと少女が走ってくるのが目に映る。いつか見た光景だ。獣が姿を現すと駆け寄ってきた子供達。
ついに幻覚が見えるようになったらしい。
「幸せな思い出の中で死ねるとは……」
獣がまさに、これが最後と目をつむろうとしたその時――
幻覚の中の少女は駆け寄ってくると、飛びついて――