二、血の日曜日5
「キャーッ!」
一際大きい悲鳴がした。雪崩れ込もうとしていた市民の足が一瞬止まる。見れば司祭に真っ先に駆け寄った黒髪の少女が、真っ青な顔で立ち上がっていた。そしてその足下では――
「……い…… 論者…… 過激…… は…… か……」
ガポン司祭がそう呟いて、がっくりと首を垂れた。
「おのれ!」
「司祭様が!」
市民が色めき立つ。一度は止めた足を怒りで踏み鳴らし、兵士に向かって駆け出す。司祭が掲げさせた旗すら、放り出して向かっていく。
「止まれ!」
士官が叫ぶ。だが市民の耳には届かない。投石に対して発砲で応えたのだ。市民は怒りに身を震わせ、士官の言葉に耳を貸さずにいきり立つ。
「クソッ……」
ガポン司祭との交渉にあたっていた士官が、市民の波に飲み込まれた。
「助け出せ!」
やむを得ず別の士官が命令を下す。発砲は未だ許可していない。厳命を守りつつ、この場を抑えるつもりだった。だが二度目の発砲が全てを台無しにした。
――パンッ!
「キャーッ!」
女性の悲鳴とともに、人波が割れる。その割れた人波から倒れて出てきたのは、交渉にあたっていた士官だった。
額に穴が空いている。即死なのは遠目にもすぐに兵士達に知れた。市民の一人が短銃を構えて震えていた。銃口から立ち昇る煙を見るまでもない。士官は市民に撃たれたのだ。
「おのれ!」
そう毒づいた別の士官は自分が発砲を許可したのかどうか、後になっても思い出せなかった。
だがもう事実は変わらない。市民への発砲が始まった。銃声が銃声を呼び、悲鳴が悲鳴を呼んだ。そして銃声と悲鳴が互いを呼び合った。
冬の宮前は、その寛容さとは裏腹に、阿鼻叫喚の地獄と化した。
ノエルは遠くで銃声を聞いた。
歩く度に人が増えていくデモ行進。自分でもよく分からない高揚感を覚えながら、皆について歩いた。先頭は随分と先だ。このまま歩いて終わりなのか、最後に何かあるのかノエルにはそれすら分からない。
だがノエルは正しいことをしているのだと思った。家に帰ったら、母とポチョムにこの様子を話してあげようと思った。自分には関係のないことだと思わずに、デモに加わって力になった。自分は皆と正しいことをしている。二人とも褒めてくれると思った。
しばらくすると、デモの行進が止まった。大人の背中で前がよく見えない。つま先立ちで背伸びをすると、冬の宮の屋根がかろうじて見えた。
どうせここまできたのなら、冬の宮を間近で見たい。もしかしたら魔法皇帝を一目見ることができるかもしれない。そう思うとノエルは、少しだけ緊張感が解けた。
デモと言っても歩いているだけ。聖教会の守護者たる魔法皇帝に、これも聖教会の司祭が会いにいく。それはごく自然なことだ。
もしかしたら魔法皇帝の声でも聞こえはしないかと、ノエルは背筋を伸ばした。どうせなら少しでも多く、土産話を持って帰ってあげたい。そうも思った。
銃声が鳴り響いたのはその時だった。
「何?」
その銃声に驚いて辺りを見回したのは、ノエルだけではなかった。皆がお互いの顔を見て、不安にざわめいている。
「何? 何ですか?」
「さぁ……」
銃声なのは誰の耳にも明らかだったが、その大人は答えをはぐらかした。
遠くから聞こえた、小さく乾いた破裂音。銃声――
いや銃声などとは俄には、信じられない。信じたくない。聞き間違いだと思いたかった。
「おいっ……」
もう一つ銃声が聞こえた。同じく小さい破裂音。誰もが隣の者と顔を見合わす。昨日のストでも軍隊は出動していた。今日も冬の宮の前には、多くの兵士が警備にあたっているという。
デモの民衆がざわめく。良くない想像に心を乱されながらも、それでもそれを信じようとせず、その場でお互いの顔色を窺った。
「は…… だ……」
それは遠くからの小さな声だった。ノエルは耳を澄ます。
「はっ…… ぽ…… だ……」
それは少し遠くからの小さく、幾人かの声だった。ノエルは耳に意識を集中する。
「発砲…… だ……」
それはもう耳をすまさなくても聞こえる、悲鳴まじりの声だった。多くの者が、より多くの者に伝える為に声を張り上げる。
「発砲だ!」
「逃げろ! 奴ら撃ってきた!」
「戻れ! 下がれ!」
怒号が飛び交う。それに混じって聞こえてくるのは、間違いなく銃声だ。市民が雪崩を打って動き出す。悲鳴を上げながら、他の者を押し退けながら、人の流れが渦と化す。
「キャーッ!」
力のない者が押し倒された。逃げ惑う民衆の中で、押され、押し退けられ、足をかけられ、倒れていく。銃声はますます大きくなる。
「大丈夫ですか?」
自分の横で転んだ女性に、ノエルがとっさに手を差し出す。その手すら押し退けて、周りの民衆は逃げ惑う。また銃声がした。自分を押し退けて去っていく大人を、ノエルは睨みつける。だがすぐに人に紛れてその背中は見えなくなった。
銃声と悲鳴がした。
ノエルは思わず首をすくめる。女性は足をくじいたのか、起き上がろうとしない。腰を地面に落とし、足首を手で押さえている。ノエルは民衆に押されて、女性から離される。
そこかしこで悲鳴が上がる。自分も逃げなくてはならない。女性からは離されていく。女性は自分が手を貸さなくても、他の大人が何とかしてくれる。ノエルは一瞬そう思ってしまう。
一際大きい銃声がした。
ノエルは思わず目をつむる。そして更に悲鳴。ノエルは恐る恐る目を開けた。女性の姿は小さくなっている。ノエルの体は更に押し流されていた。すぐに人波に紛れて女性を見失う。
だからもう他の人に任せていい。銃声。自分のせいではない。銃声。ノエルはそう思おうとする。悲鳴。だが体は前に出ようとする。怒号。人の波を押し退けようとする。罵倒。一人流れに逆らうノエルに、ぶつかった大人が罵声を浴びせる。
銃声。銃声。銃声。連続して聞こえる発砲音は、確実に大きくなっている。近づいてくる。
悲鳴。怒号。悲鳴。ノエルは歯を食いしばって前に進んだ。怒号。罵倒。悲鳴。人の流れに逆らうのは、思った以上に難しかった。そして聞こえてくる悲鳴。心が怯みそうになる。それでもノエルは前に進む。更なる銃声がノエルを脅かす。
だが――
「大丈夫ですか?」
ノエルはまだ地面に倒れたままの女性に、手を差し出した。人波をかき分け、やっと見つけた女性は、同じ場所でうずくまったままだった。
「あなたは……」
「大丈夫ですよ」
ノエルは自分にできる精一杯の笑顔を浮かべた。母が自分に心配させまいとする時の笑顔だ。
収穫が上手くいかない時にする笑顔。母のご飯だけが少ないと、内心思った時に見せてくれる笑顔。父が亡くなり自分も泣きたいだろうに、娘を心配させまいとした時に見せた笑顔だ。
「掴まって下さい」
ノエルが女性に肩を貸す。その女性のもう一方の肩を、見知らぬ男性が慌てて掴んだ。
「お嬢ちゃん達! 大丈夫か?」
「ハイッ!」
ノエルはその男性に、力一杯返事をする。同時に呪文を詠唱した。
「痛みが…… 痛みが退いていくわ……」
「お嬢ちゃん。魔法が使えるんだね?」
「はい」
三人が歩き出す。女性は恐る恐る足に力を入れて、ノエルの肩から手を離した。
「ありがとう…… 歩けるわ…… ウソみたい」
「そうですか。でも、まだ一緒に――」
「キャーッ!」
遠くからの悲鳴に、ノエルが立ち止まる。女性にとられていた意識が一瞬で周囲に向かう。
「君?」
女性に肩を貸してくれた男性が、ノエルに振り返る。
だがノエルに合わせて、彼まで足を止める訳にはいかない。女性は歩けるとはいえ、まだ足取りがおぼつかない。彼も一時でも早く逃げなくてはならない。
「君! どうした? 逃げないと!」
ノエルは振り返る。男性の声が少し遠くなった。ノエルはあらためて周りを見回す。
「いいかい! 逃げるんだ! いいね!」
「……」
最後まで言葉をかけようとする男性の声を背に、ノエルは周りを見渡す。
悲鳴が聞こえる。逃げ惑う群衆の中に、痛みに耐える悲鳴が聞こえる。悲しみに耐える嗚咽が聞こえる。助けを求める声が聞こえる。
「今…… いくわ……」
ノエルは人の流れに逆らって、歩き出した。