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二、血の日曜日4

 首都サンクトペテルブルクの冬の宮。それは魔法皇帝の居城。離宮として建てられたその豪奢な建造物は、城としては堅固なイメージを見る者に与えない。

 冬の長く厳しいこの国において、左右に大きく広がるその宮殿は、まるで凍える我が子を抱き締めようとする母親のような懐の深さを感じさせた。実に女性的で柔らかな城だ。

 実際運河――ネヴァ川こそ天然の要害として背後に要するが、前面は人々が集まれる広場になっていた。それもまたこの宮殿の寛容さを表していた。

 そして飾り窓が悠然と並ぶその姿は、触れれば砕けるかと思われる程優美だ。まさに雪の結晶のような儚さときらびやかさで、この地を訪れる人々を魅了していた。

 この国の冬の姿そのもののような冬の宮は、冬の帝国の民にとって誰しもが仰ぎ見る誇りの建物だった。まさに皇帝――ツァーリの住まいに相応しい宮殿だ。

 その冬の宮前の広場で、デモ隊と兵士が睨み合っていた。

 冬の宮前で待機する兵士達は、極度の緊張状態にあった。冬の宮は魔法皇帝の住まい。そしてデモの最終目的地。士官は魔法皇帝から命令を受けている。どんなことがあっても、市民に危害を加えてはいけないと。厳命だった。

 市民への危害は厳禁だと言う。しかしそれは、この数を想定した上での命令だろうか? 冬の宮前を固める軍隊の士官はそう思う。このまま数に任せて冬の宮に雪崩れ込まれては、魔法皇帝を守れない。士官はやはり苦々しくそう思い、デモを先導した司祭を見つめた。

「皆さん落ち着いて下さい」

 そのガポン司祭は、ともすればいきり立つデモ隊をなだめることに、多くの神経を使っていた。市民の怒りは伝えなくてはならないが、まともに怒りをぶつける訳にもいかないのだ。

「ガポン司祭。市民を解散するように」

 幸い士官は冷静な人物だった。武器など持たない司祭に合わせて、士官も丸腰で前に出る。サーベルすら部下に預ける慎重さを見せた。兵士達にも銃口を空に向けさせている。

「分かっています。ですがまずは何らかのお約束が欲しい」

「約束――ですか?」

「はい。集まった市民の数が、それだけ我々の窮状を表しているのだと、思っていただきたい」

「魔法皇帝は慈悲深いお方。元より臣民の生活には、深く心を痛めていらっしゃる」

 だから言われるまでもない。そういう否定の言葉だ。そう言って士官は、まずは軽く拒否の姿勢を見せる。簡単に要求を通しては、市民の中に達成感が湧かないからだ。

「魔法皇帝は聖教会の守護者。民の味方。元より我々の窮状を察し、心を痛めていらっしゃることは重々承知しております」

「ほう……」

「ですが。あらためてお願い申し上げます」

 ガポン司祭は内心の焦りと戦う。要求がすぐに通るとは思っていない。またすぐに受け入れられるよりは、多少時間をかけて要求を通した方がいい。その方が難しい望みを、魔法皇帝が聞き届けて下さったと、市民の心証を良くすることができるからだ。

 相手の士官も心得ているようだ。

 だが市民の数が多い。それだけに市民以外の者も潜伏しやすい。過激な革命論者が潜伏していると見て間違いない。彼らが何らかの行動を起こす前に、約束を取りつけなくてはならない。

 革命論者も機会を窺っているはずだ。要求が出切っていないのに過激な行動に出ても、周りを煽動することはできない。かといって機を逃しては、平和裏に終わってしまう。

 早過ぎず、遅過ぎず。駆け引きの終わりを、彼らは見極めようとしているはずだ。

「聖教会の守護者であらせられます、魔法皇帝ニコラ――」

 司祭の言葉が終わる前に、小さな物影が頭上を飛んでいった。

「――ッ!」

 司祭と士官が同時に互いの目を見る。投石だ。不満を暴力の形に表した小さな石だ。だがこのたった一石が、暴動のきっかけになりかねない。

 石は最前列の兵士の胸に当たって地面に転がっていく。その乾いた音が広場に響き渡った。

 兵士が息を呑み、市民がざわめいた。

「皆さん! 冷静に――」

 ガポン司祭はすぐさま振り返る。

 冬の宮前の市民と兵の間に、触れれば破裂するような緊張感が漂っていた。

 次の石が飛ぶ前に、この投石に正義などないことを分からせないといけない。

 ――パン……

 だが投石に続いたのは、小さな銃声だった。

「グッ……」

 兵士に背中を見せていた司祭が、背後から撃たれた。受け身もとれないままに地面に倒れる。

「キャーッ!」

 市民から悲鳴が上がった。

「誰が発砲を許可したか!」

 士官が叫ぶ。だが叫びながら気づかされる。革命論者は兵士の中にも紛れ込んでいたのだ。

「このっ!」

「司祭様を守れ!」

「あいつらを許すな!」

 次々と市民が――そしてその中に紛れた革命論者が――怒号を上げる。雨霰と投石が始まる。

「待て! 動くな! 発砲は許可しない!」

 今にも各々の判断で銃を向け出した兵士を、別の士官が抑える。市民への危害は許されていない。魔法皇帝の厳命だ。市民に銃を向ける訳にはいかない。

 だがそれは逆効果だった。兵士が動かないと見るや、市民は勢いを増し一気に前に出た。あっという間に何人かが司祭を取り囲み、その他の人間が士官に向かった。

 司祭にいち早く駆け寄ったのは、黒髪の少女だった。

 輝く澄んだ瞳を潤ませて、少女が司祭の耳元にひざまずく。

 左右で束ねられた艶やかな黒髪が、一度両脇にフワッと広がってから肩に向けて落ちていた。しなやかな曲線を描くその黒髪が、優雅に一つ大きく揺れた。

「司祭様!」

「君は…… あの時の…… ぐ…… 私は大丈夫です…… 皆さんは……」

 司祭は苦しげに、そして気丈にも口を開いた。脇腹から一際激しく鮮血が吹き出した。

「そんな…… まずは司祭様です――」

 少女はそう言うと、司祭の耳元へとその可憐な口を寄せる。そして司祭の脇で、治療の魔法を唱え始めた者にすら聞こえない程小さな声で、

「この革命に、尊い犠牲を捧げるのはね……」

 悪意に歪んだ笑みを浮かべながら、そう呟いた。

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