二、血の日曜日2
そしてその週の日曜日。
惨劇の日――
ノエルは久しぶりに、聖教会の日曜礼拝に参加していた。
ノエルの通う教会は、首都サンクトペテルブルクにある。町中の厳かな教会だ。母は家の用事で、滅多にこれない。ポチョムはもちろん、町中には入ってこれない。
ノエルは今日、馬車に便乗させてもらい一人で礼拝にきた。
「ガポン司祭様!」
「やあ。フランソワ・ノエル・バブーフ。久しぶりだね」
神の祝福を受ける為、信者が列をなしていた。列の先頭にきた少女が、一際元気な声で司祭の名を呼んだ。
司祭は生え際が、少し後退してしまった頭をかく。久しぶりに見た少女は、少々大人になっていた。その不意打ちに司祭は何だか照れくさくなる。
だがノエルはそのことに気がつかない。
「へへ。お久しぶりです。司祭様」
「半年振りぐらいだね、ノエル。マリーさんは元気かね?」
ガポンと呼ばれた司祭は、それでもノエルの顔を見て、その母まで思い出した。
ノエルは人目を引く。容姿もその振る舞いも、人の気を惹く不思議な少女だ。誰でも一目見れば、忘れられない。
「元気です。相変わらずうるさいけど」
「はは。ダメだよ。お母さんの言うことは、ちゃんと聞かないと」
ガポン司祭が、ノエルに祝福を与える。自然に笑みがこぼれる。ノエルと話をしているだけで、自然と笑顔になってしまう。本当に不思議な娘だと、司祭は思った。
人にあらざる魔法のマスコット猛獣が、司祭と同じ思いを抱いたことは、もちろん知る由もない。
「二人分やって! 司祭様!」
「これこれ」
「どうしてもこれない友達がいるの! その子の分! 形だけでいいから!」
「足でも悪いのかい?」
「足は丈夫ですよ、その子。むしろ人より多いくらい」
「はは。冗談はおよし」
ガポン司祭はそれでも、ノエルにもう一度祝福を与える。ノエルの頼みを断れない。無邪気な言葉。屈託のない笑顔。裏表のない態度。かげりのない瞳。生きる喜びに赤く染まる頬。
ノエルの全てが、聖職に生きた自分に対するご褒美のように司祭には思えた。
「聖母様……」
司祭は思わず呟く。
そうノエルの笑顔は、まるで聖母が使わした何かの徴のように思えてしまう。
いや。もっと正確に言えば――
「はい? 何ですか? 司祭様」
「はは、何でもないよ…… お友達によろしくね」
「はい。司祭様」
ノエルは一礼すると、列を離れた。司祭が笑顔で見送る。その隙に司祭の横に控えた、別の司祭がガポン司祭に耳打ちをした。
「……分かりました…… この人達に祝福を与えたら…… 私も参ります……」
ガポン司祭の表情が一瞬だけ陰る。
その陰を振り払うと、司祭は次々と信者に祝福を与える。もちろん笑顔で、心底信者の幸せを祈って儀式を続けた。だが今の耳打ちに、心の何処かが奪われたままだった。
「数万人規模の抗議行動…… その先導……」
司祭は小さく呟いて、己の使命を噛み締める。
この日の前日。冬の帝国の全土で、政府に対する大規模な抗議行動が行われた。疲弊した経済活動と、それに伴う弱者へのしわ寄せ。その抗議だ。
そしてガポン司祭は今日、更に市民の窮状を訴える為の、デモ行進の先導をすることになっていた。その準備が整ったとの連絡だ。
司祭も初めは断った。だが一人の少女に心を動かされた。
少女は黒髪を頭の両脇でまとめ、優雅に肩に向けて垂らしていた。
花売りだという少女は、生活の窮状を訴える。家族の苦しみを切実と訴える。
輝く澄んだ瞳を潤ませて、神と皇帝の慈悲を少女は司祭に乞うた。
少女の懇願を受け入れ、ガポン司祭はデモの先導を引き受けた。
魔法皇帝は分かって下さると、司祭は祈るような気持ちで思う。
冬の帝国は、革命論者の思惑に乗らない。皆で力を合わし、この困難に立ち向かう。国を二つに割るようなことにはならない。司祭は自分にそう言い聞かせる。
だが、命が懸かっていない訳ではない。国は浮き足立っており、人々は色めき立っている。それは市民も、兵士も同じだ。司祭は楽観も、悲観もするまいと心に誓った。
祝福に並ぶ信者の列は、終わろうとしていた。あと数人。この信者達に祝福を与えれば、命懸けの抗議に出かける。司祭は我が身が引き締まる思いがした。
信者は残り二人になっていた。大きな男性信者の後ろに、少女のものと思しき長い黒髪が揺れているのが見える。ふと、司祭はノエルのことを思い出した。
先程のノエルの姿に、司祭は聖母の徴を見た。いやもっと正確に言えば、聖母そのものを見た。思わず呟いたのはその為だ。
最後から二番目の男性信者に祝福を与えた後、しばらく目をつむって祈ってしまう。
聖母様の祝福もある――
何故か司祭には、そう思えた。ノエルの笑顔が自然と目に浮かぶ。あの屈託のない笑顔。聖母の祝福そのものに思えた。
ノエルの笑顔。そして生活の窮状を訴えた少女の輝く澄んだ瞳。
ガポン司祭は、ああいう子供達の為に、自分は命を懸けるのだと覚悟を決める。
たとえ二度とあの笑顔に会えなくても――
司祭がそう覚悟を決めて目を開けると、
「司祭様! お母さんの分もお願い!」
最後尾に並び直していたノエルが、やはり無邪気な顔で微笑んでいた。