戴冠式の大聖堂で、千人の頭の上から白い粉がさらさらと落ちてきた。鐘をあと一度鳴らせば、天井が崩れる
「ロゼット。石工の娘だったことは、式のあいだだけでも忘れていなさい」
大聖堂の石段の下で、伯母のオーロールは、わたしの手袋の指を一本ずつ引っぱって整えた。
「今日は戴冠式なのよ。ゴドラン家の嫡男の婚約者として参事会の席に座るの。天井の継ぎ目がどうとか、柱の傾きがどうとか、そういう話はおやめなさいね。あなたのお父さまの話も」
「……はい、伯母さま」
「いい子ね」
伯母は最後の指を引っぱり終えると、わたしの頬を軽く撫でた。白粉と、伯母の好きな菫の香水の匂いがした。
伯母は悪い人ではない。父が死んで行き場のなくなったわたしを、伯爵家に引き取ってくれた。爪のあいだの石の粉を毎晩、自分の手で洗ってくれた。
ただ、洗ったものが、また爪に入ることを伯母はとても嫌がる。
石段の上で、婚約者のジスラン様が、手を差し出していた。
「遅いよ、ロゼット。父上がもう席についている」
ジスラン様はわたしが大聖堂の正面の扉の上を見上げているのに気づいて、口の端で笑った。
「また石を見ているのか。石の話は退屈だよ。今日くらいは王さまの冠でも見ていてくれ」
わたしは扉の上のアーチから目を離した。
アーチの右から三つ目の石の継ぎ目に、新しい漆喰が、白い線を引いていた。去年、鐘楼の補強と一緒に塗り直したのだろう。
継ぎ目が少しだけ、太い。
わたしはそれを頭の隅にしまってジスラン様の手を取った。
手袋ごしの手のひらが、じっとりと湿っていた。
扉をくぐるとき、横の柱の陰に、灰色の上着の男の人が立っているのが見えた。
その人も、扉の上のアーチを見上げていた。右から三つ目の石を。
「……継ぎ目が太い」
独り言だった。わたしにしか聞こえないくらいの。
わたしは足を止めそうになった。そうです、と言いそうになった。
言わなかった。伯母の手袋の指の感触が、まだ手に残っていた。
灰色の上着の人が、ふとこちらを見た。目が合った。その人の眉がほんの少しだけ動いた。
わたしは目をそらして、ジスラン様の腕につかまった。
ヴァルミー伯爵家の遠縁、ロゼット。二十二歳。
母は伯爵家の次女で、王都の石工の親方だった父と恋をして家を出た。
わたしは石の粉の舞う仕事場で育った。父の膝にのって石を叩く音を聞いた。
「ロゼ、石はな、しゃべるんだ」
父は積み上げた石の壁に、わたしの耳を押し当てた。
「ちゃんと噛みあっている石は、黙っている。無理をしている石は、きしむ。もっと無理をすると、継ぎ目から白い粉を吐く。粉を吐いたら、石が逃げようとしている証拠だ。次に大きく揺らしたら、落ちる」
父は大きなごつごつした手で壁の継ぎ目をなぞった。
「石は、落ちる前に、必ず一度、教えてくれる。聞いてやれるかどうかは、人間のほうの問題だ」
八つの年に、母が熱病で死んだ。それからは父と二人で王都じゅうの現場を回った。十を過ぎるころには、足場の縄の結び方も、漆喰の練り方も覚えていた。
十六の冬、父は、古い教会の修理の足場から落ちて死んだ。
足場の縄が腐っていた。教会の参事が新しい縄の代金を惜しんだのだと、葬式のあとで弟子たちが話していた。
伯母が迎えに来たのはその翌月だった。
石工の娘はその日から伯爵家の遠縁になった。
ジスラン様との婚約は、一年前に決まった。
ゴドラン家は代々、王都大聖堂の参事会長を務める名家だ。伯母は遠縁の娘にはもったいない縁だと喜んだ。
ジスラン様は穏やかで話のうまい人だった。音楽の話、詩の話、流行りの外套の話。わたしが黙って聞いていると、ジスラン様は満足そうにうなずく。
嫌な人ではなかった。婚約の披露の夜、わたしが露台で震えていると、何も言わずに自分の外套を肩にかけてくれた。外套はジスラン様の汗と、高い香水の匂いがした。
――寒いなら、寒いと言えばいいのに。
そう言ってジスラン様は笑った。わたしは言えばよかったのだろうか、と思った。寒いと言えば、石の話も聞いてもらえたのだろうか。
その外套をわたしは翌朝、伯母の侍女に頼んで返してもらった。自分で返しに行けばよかったのに、行かなかった。
一度だけ、わたしから話をしたことがある。
大聖堂の東の窓の下の壁が、雨のたびに黒く湿っている。雨樋の継ぎ目が割れているのではないか、と。
ジスラン様は笑って、わたしの髪をひと房つまんだ。
――石の話は退屈だよ、ロゼット。そういうのは職人が考えることだ。
それから、わたしは石の話をしなくなった。
石の話をしなくなってから、夜、眠る前に、天井の梁の数を数える癖がついた。伯爵家の客間の天井には、樫の梁が九本ある。いちばん窓に近い一本だけ、ほんの少し、真ん中が下がっている。
誰にも言わなかった。言っても、退屈だと言われるだけだ。
わたしは、毎晩、その一本の梁が、昨夜より下がっていないかを確かめてから眠った。確かめて、ほっとして、ほっとしている自分を、少しだけ情けなく思った。
石の話をしないわたしと話すのは、ジスラン様にとってきっと楽だったのだと思う。
わたしも、楽だった。黙っていれば、伯母が喜ぶ。ジスラン様が笑う。わたしは婚約者の隣で、天井を見上げないでいればいい。
見上げないでいる自分をわたしは、時々、軽蔑した。
ゆうべも、そうだった。
戴冠式の前の晩、わたしは伯母に内緒で屋敷を抜け出して大聖堂の裏へ行った。どうしても、百年ぶりに十二の鐘を鳴らす鐘楼を自分の目で見たかったのだ。
鐘楼の下では職人たちが最後の片づけをしていた。柱には、去年巻いたという黒い帯が、何本も巻かれていた。
わたしは柱に近づいて、帯に指で触れた。
冷たくなかった。
鉄なら、夜の空気で冷えているはずだった。指先に、黒い塗料のべたつきと、かすかに、塗ったばかりの油の匂いが残った。
おかしい、と思った。
思っただけで誰にも言わなかった。言ったら、伯母に夜歩きがばれる。ジスラン様に、また石の話かと笑われる。
わたしは指の塗料をハンカチで拭いて、屋敷へ帰った。ハンカチは朝、暖炉にくべた。
石の話を退屈だと言う人の隣で、退屈な女の顔をして座っている。父が見たら、何と言うだろう。
――人間のほうの問題だ。
そう言われる気がして、わたしは、なるべく父のことを思い出さないようにしていた。
大聖堂の中は千人の人いきれでむっとしていた。
乳香の煙が高い天井へゆっくりとのぼっていく。色硝子の窓から差しこむ光が、煙の中で赤や青の筋になっていた。
参事会の席は祭壇のすぐ前、身廊と翼廊が十字に交わるところの、いちばん良い場所にあった。
わたしはジスラン様の隣に座った。
座ってから、つい、見上げてしまった。
十字の交わる真上の天井は、四方から石の肋が集まって一点で噛みあっている。その一点に、ひときわ大きな要の石がはまっていた。大聖堂の天井を、最後に締めている石だ。
ジスラン様の手がわたしの手を握った。
「上を見るなって。首が疲れるよ」
ジスラン様の手のひらは、さっきよりもっと湿っていた。
わたしはジスラン様の顔を見た。笑っていた。けれど、その目は、天井のほうを一度も見ようとしなかった。
ラッパが鳴った。
身廊の扉が開いて、まだ二十歳の新しい王さまが、白い外套を引いて入ってきた。
千人がいっせいに立ち上がった。
戴冠の儀は長かった。
祈りの言葉。聖油。誓いの言葉。大司教さまの声が、天井に何重にも反響して、言葉の終わりが、いつまでも頭の上に残った。
大司教さまが金の冠を、王さまの頭の上に掲げた。
冠が王さまの頭に置かれた。
その瞬間、頭の上で鐘が鳴った。
大聖堂の鐘楼の十二の鐘を百年ぶりに全部鳴らすのだと、参事会長が自慢げに話していた。去年、そのために鐘楼を補強したのだと。
ごおん、と、腹の底に響く音だった。
十二の鐘が次々に重なっていった。床が震えた。座っている椅子の脚から、震えが尻に伝わってきた。
千人が歓声を上げた。
わたしは歓声の中で聞いた。
ぎ、と。
頭の上から、ほんのかすかに。
鐘の音の隙間に、石と石がこすれる、乾いた、短い音。
わたしは天井を見上げた。
要の石のまわりの、継ぎ目。
そこから、白い粉が、さらさらと落ちてきていた。
色硝子の光の筋の中で、粉が、きらきらと光りながら、ゆっくりと降ってくる。誰も気づいていなかった。乳香の煙の中で、皆、王さまと冠を見ていた。
粉がわたしの手袋の甲に、一粒、落ちた。
指でつまんだ。ざらりとした。漆喰の粉だった。
――粉を吐いたら、石が逃げようとしている。次に大きく揺らしたら、落ちる。
鐘が鳴りやんだ。
白い粉も、止まった。
大司教さまが式次第を読み上げた。最後に、もう一度、十二の鐘を鳴らして、王さまが大聖堂から出ていかれる、と。
あと一度。
わたしの手袋の中で、指先が、冷たくなった。
「ジスラン様」
わたしはジスラン様の袖をつまんだ。
「天井の要の石から、粉が落ちています。鐘をもう一度鳴らしたら、落ちます」
「……は?」
ジスラン様はわたしの顔を見て、それから、天井を見上げかけてすぐに目をそらした。
「何を言っているんだ。百年もっている天井だぞ」
「百年、鐘を全部鳴らさなかった天井です。去年、鐘楼を補強したと聞きました。鐘楼が重くなって、揺れが大きくなっているのかもしれません。継ぎ目が逃げています」
「ロゼット」
ジスラン様の手が、わたしの手を痛いほど握った。湿った手のひらが、手袋の上から、ぬるりと食いこんだ。
「石の話はやめろと言っただろう。式の最中だ。父上の前で恥をかかせるな」
ジスラン様の向こうで、参事会長が、ちらりとこちらを見た。
わたしは口を閉じた。
閉じて、膝の上で、手袋の甲の白い粉を見下ろした。
言わなければ。
でも、もし間違っていたら。
千人の前で、戴冠式の最中に、伯爵家の遠縁の娘が「天井が落ちる」と叫んで何も落ちなかったら。伯母は二度と社交界に顔を出せない。ジスラン様との婚約も終わる。わたしはただの頭のおかしい石工の娘に戻る。
そう思ったとき、胸の奥のどこかで、小さく、何かが笑った。
戻ればいい。
石工の娘に戻れたら、どんなに楽だろう。
わたしはその考えに、ぞっとした。千人の頭の上に石が落ちるかもしれないときに、わたしは、自分が楽になる方法を考えている。
大司教さまが鐘楼のほうへ、金の杖を高く掲げようとしていた。
あの杖が上がったら、鐘楼の鐘つきたちが、綱を引く。
わたしは立ち上がった。
ジスラン様の手を振りほどいた。湿った手のひらが、ずるりと滑って離れた。
「大司教さま、お待ちください!」
声が天井に跳ね返った。千人の顔がこちらを向いた。
大司教さまの杖が、途中で止まった。
「鐘を鳴らさないでください。天井の要の石が逃げています。継ぎ目から粉が落ちています。もう一度揺らしたら、落ちます」
大聖堂がしんと静まった。
それから、ざわめきが、波のように広がった。誰かが笑った。誰かが何を言っているのだ、と言った。
「ロゼット!」
伯母の悲鳴まじりの声が後ろの席から聞こえた。
参事会長が立ち上がった。
「何という無礼を。陛下の御前だぞ。この娘を下がらせろ。ジスラン、おまえの婚約者だろう!」
ジスラン様がわたしの腕をつかんだ。
「やめろ、ロゼット。頼むから」
ジスラン様の声は怒っているのではなかった。震えていた。
わたしはジスラン様の手を見下ろした。腕をつかむ指が細かく震えていた。
「――その娘の言うとおりだ」
低い声がした。
翼廊の柱の陰から、灰色の上着の男の人が、歩み出てきた。
王宮建築長の、エリオット様。
王宮と王都の主な建物の修理を預かる人で宮廷では「石と結婚した男」と呼ばれている。三十を過ぎても妻をめとらず、夜会にも出ず、いつも図面と石の見本を抱えているから。
エリオット様はわたしの隣まで来て天井を見上げた。
それから、床にかがみこんで、石畳の上に積もった白い粉を指でなぞった。指先が白くなった。
「大司教さま。退出の鐘は取りやめていただきたい。それから、皆を外へ。翼廊の扉から、ゆっくりと。走らせると、床が揺れる」
「建築長、しかし、参事会の――」
「参事会長」
エリオット様は参事会長のほうを見ずに言った。
「去年の鐘楼の補強に、私は呼ばれなかった。図面も見せていただけなかった。……今は、その話はしない。今は千人を外へ出す」
新しい王さまが玉座から立ち上がった。
「建築長の言うとおりにせよ。余から先に出る。皆、続け」
千人が外へ出るのには、長い時間がかかった。
王さまが最初に出ていかれた。それを見て、貴族たちは、騒がずに続いた。翼廊の扉から、列になってゆっくりと。
わたしは扉の横に立って人の流れを見ていた。足が勝手に震えていた。
列の途中で、杖をついた老夫人が、石畳の段差でつまずいた。
わたしは走りかけて走らなかった。走ると床が揺れる、とエリオット様が言った。早足で近づいて、老夫人の脇の下に腕を入れた。
「ありがとう、お嬢さん。足が言うことを聞かなくてね」
「ゆっくりで大丈夫です。扉まであと二十歩です」
老夫人の体は思ったより重かった。香油と、古い毛皮の匂いがした。
頭の上で、また、ぎ、と小さな音がした。
老夫人は気づかなかった。わたしは気づいた。気づいて、老夫人の腕を支える手に、汗がにじんだ。
扉の外の光の中へ、老夫人を押し出すようにして渡した。老夫人の付き人が、慌てて受けとめた。
わたしは扉の内側に戻った。戻りながら、膝が笑っているのがわかった。
もし、何も落ちなかったら。
千人を外に出して何も起こらなかったら。
エリオット様はわたしの隣に立ってずっと天井を見上げていた。
「……あなたは、出ないのですか」
「最後に出る。建築長の仕事だ」
「では、わたしも最後に出ます」
エリオット様はわたしをちらりと見た。何か言いかけてやめた。
最後の一人が出たあと、エリオット様は、鐘楼の鐘つきたちに、綱から手を離して塔を下りるよう、伝令を走らせた。
そして、わたしの手首をつかんで扉の外へ連れ出した。
大聖堂の前の広場は、千人で埋まっていた。皆が大聖堂を振り返っていた。何も起こらない大聖堂を。
ざわめきの中に、笑い声がまじりはじめた。
「何も落ちないじゃないか」
「戴冠式を台無しにして」
伯母が人をかき分けてわたしのところへ来た。顔の白粉が汗で筋になっていた。
「ロゼット、あなた、なんてことを……」
伯母はそれ以上、言葉が続かなかった。
ジスラン様は少し離れたところで、参事会長の後ろに立っていた。わたしのほうを見なかった。
風が吹いた。
大聖堂の鐘楼の上で、鳴らされなかった鐘が、風にあおられて、ひとりでに、ごおん、と一度だけ鳴った。
小さな音だった。
次の瞬間、大聖堂の中から、地鳴りのような音がした。
身廊の扉の隙間から、白い煙が、どっと噴き出してきた。煙ではなかった。石の粉だった。
広場の千人が悲鳴を上げて後ずさった。
粉の煙がおさまるまで誰も動けなかった。
やがて、エリオット様が、一人で扉に近づいて、中をのぞいた。
戻ってきたエリオット様の髪も、肩も、真っ白だった。
「要の石と、そのまわりの石が四つ、落ちている」
エリオット様は王さまの前に膝をついて、低い声で言った。
「参事会の席のあたりです。大人の背丈ほどの石が、椅子を全部、押しつぶしています」
広場が静まり返った。
わたしの膝から、力が抜けた。石畳の上に、座りこんだ。
さっきまでわたしが座っていた椅子。ジスラン様が湿った手でわたしの手を握っていた椅子。
あそこに、石が落ちた。
新しい王さまがわたしの前に来た。白い外套の裾が石畳の粉で汚れていた。
「名は」
「……ヴァルミー伯爵家の遠縁、ロゼットと申します」
「遠縁、か」
王さまは二十歳の、まだ少年の面影の残る目で、大聖堂を振り返った。
「余は、今日、冠をかぶった。その冠を千人の命と一緒に、そなたに救われた。……遠縁の娘に救われた王というのも、悪くない」
伯母がわたしの後ろで、ひっと小さく息をのむのが聞こえた。それから、伯母の手が、震えながら、わたしの肩に置かれた。
白粉の筋のついた伯母の顔をわたしは見上げなかった。見上げたら、泣きそうだった。
人垣の中から、ジスラン様が出てきた。
唇まで血の気がなかった。大聖堂の扉の、粉の煙のほうを何度も振り返りながら、わたしの前まで来た。
「ロゼット……僕たちの席に、石が……」
ジスラン様はわたしの手を取ろうとした。いつものように。
わたしは手を引いた。
引いてから自分でも驚いた。ジスラン様の手が宙で止まった。湿った指先が行き場をなくしてゆっくりと下りていった。
「……そうだね」
ジスラン様は小さく笑った。いつもの、話のうまい人の笑い方ではなかった。
「僕は君に、上を見るなって言ったんだ」
ジスラン様はそれだけ言って父君のほうへ戻っていった。
わたしは引っこめた手を、胸の前で握っていた。握った手の中に、何もなかった。それが少しだけ寒かった。
エリオット様が腰の水筒を外して黙ってわたしに差し出した。口をつけると、ぬるい水に、石の粉がまじっていた。ざらりとした水を、わたしは全部飲んだ。
鐘楼を調べた職人たちが、夕方、王さまの前に報告に来た。
去年の補強で、鐘楼の柱に巻いたことになっていた鉄の帯は、半分が、鉄ではなかった。黒く塗った樫の板だった。
補強を請け負ったのは、参事会長の甥の工房で、鉄の代金は参事会から支払われていた。
参事会長は知らなかった、と言った。甥が勝手にやったことだと。
ジスラン様が父君の隣でうなずいた。
「父は、何も知りませんでした。僕が保証します」
ジスラン様の声は、大聖堂でわたしの腕をつかんだときと、同じように震えていた。
わたしはそれを、王さまの後ろの人垣の中から見ていた。
ジスラン様は嘘をついている。
わかった。手を握られていた一年で、あの人が本当のことを言うときと、そうでないときの声の違いくらいは、わかるようになっていた。
参事会長はその日のうちに、参事会長の職を解かれた。ゴドラン家は大聖堂の再建の費用を、家の財産で負うことになった。
ジスラン様との婚約は、三日後、ゴドラン家のほうから解かれた。
解かれる前の晩、ジスラン様が、伯爵家の門の前まで来た。
門の外の暗がりに立って、ジスラン様は、ぽつりと言った。
「僕は高いところが怖いんだ。子供のころから。大聖堂の天井を見上げると、落ちてくる気がして足がすくむ。だから、君が天井を見るたびに、手を握っていた」
わたしは門の格子越しに、ジスラン様を見ていた。
「石の話が退屈だったんじゃない。怖かったんだ。……父のことも、少しは、知っていた」
ジスラン様はそれだけ言って帰っていった。
わたしは門の前に立ったまま、自分の手のひらを見下ろした。
一年、あの湿った手を気味が悪いと思っていた。手袋の中で、何度も、ドレスの裾で拭いた。
あの手は怖がっていたのだ。わたしと同じ天井を見上げて。
わかっても、何も変わらなかった。あの人は父君をかばうために、王さまの前で嘘をついた。
それなのに、湿った手のひらの感触だけが、いつまでも、手袋の中に残っていた。
その夜、伯母が、わたしの部屋に来た。
手に、湯を張った小さなたらいを持っていた。
「手をお出しなさい」
いつものように、伯母はわたしの手をたらいに浸して、爪のあいだを柔らかい刷毛でこすった。今日の爪には、大聖堂の白い粉が、まだ残っていた。
しばらくして伯母の手が止まった。
「……わたくしは、あの子が嫌いだったの」
伯母はたらいの湯を見下ろしたまま言った。
「あなたのお母さまのことよ。妹なのに。石工と駆け落ちして、伯爵家の名を泥だらけにして、それなのに、手紙をよこすたびに、幸せそうだった。爪に石の粉をつけて、笑っている絵まで描いてよこしたのよ」
伯母の刷毛を持つ手が、小さく震えていた。
「だから、あなたの爪の粉を毎晩、洗ったの。あの子の幸せを、洗い落としたかったのかもしれない。……ひどい伯母ね」
わたしはたらいの中の自分の手を見下ろした。
ひどい、とは思わなかった。思わなかったけれど、許します、とも言えなかった。
わたしはたらいから手を出して、濡れたまま、伯母の手の甲に重ねた。伯母の手は思っていたより、ずっと冷たかった。
十日後、王さまのお召しでわたしは大聖堂へ行った。
崩れた天井の下に、足場が組まれていた。石工たちが落ちた石を一つずつ運び出していた。石の粉の匂い。漆喰の、湿った石灰の匂い。父の仕事場の匂いだった。
足場の下に、エリオット様が立っていた。
「来てくれたか」
エリオット様は落ちた要の石の前にしゃがみこんでいた。大人の背丈ほどもある、四角い石。角が欠けて割れていた。
「陛下から、あなたに礼をと言われた。何が望みかと」
「望みは、ありません」
「では、私から一つ、話をしてもいいか」
エリオット様は立ち上がって足場を見上げた。
「十年前、北区の織物組合の会館の修理の現場で、見習いの若いのが、足場から落ちかけた。縄の結び目が甘かった。足が宙に浮いたとき、下から、子供の声がした」
わたしは息を止めた。
「――そこの縄、握って! 右の! って。言われたとおりに握ったら、下で、十二くらいの女の子が、縄の端を柱に巻きつけて全身でぶら下がっていた。親方の娘だった」
覚えている。
父の現場で、足場から逆さまになりかけていた、背の高い見習いのお兄さん。わたしは縄の端を柱に巻いて、体ごと引っぱった。手のひらの皮が縄でむけた。
お兄さんは地面に降りてから、真っ青になってわたしにお辞儀をした。二十三にもなって、十二の子供に助けられたと、ほかの弟子たちに一年からかわれていた。
「ヤニック親方は、あのあと、縄の結び方を一から教え直してくれた。私は親方の現場で三年働いて、それから王宮の建築局に入った」
エリオット様はわたしのほうを見た。
「親方が亡くなったと聞いたのは、北の国境の砦の修理に出ていたときだった。戻ったときには、娘は伯爵家に引き取られていた。……伯爵家の遠縁の令嬢に、石工の見習いだった男が、何と言って会いに行けばいいのか、わからなかった」
エリオット様は少しだけ、口の端をゆがめた。
「去年、ゴドラン家の嫡男の婚約の知らせを見て、ヴァルミー伯爵家の遠縁の名に、ロゼットとあった。親方の娘の名だった。……それでも、何もしなかった」
わたしは何も言えなかった。
この人は十年、わたしのことを覚えていた。覚えていて、何もしなかった。
ジスラン様が怖くて天井を見なかったのと、少しだけ似ている、と思った。
思ったことは言わなかった。
エリオット様は運び出されてきた石の山のほうへ歩いていった。
新しく切り出された、白い石が一つ、地面に置かれていた。四角くてまだ何も刻まれていない。
「天井を積み直す前に、まず、交差の下の床に、新しい礎石を据える。そこから柱を立て直す」
エリオット様は白い石の前にしゃがみこんだ。
「石工の家には、習わしがあるだろう。礎石には、その建物を建てた親方の名と、もう一人、名を刻む」
わたしはその習わしを知っていた。
礎石には、親方の名と、親方と一生添う人の名を並べて刻む。建物が立っているかぎり、二人の名は、土の下で並んでいる。父と母の名も、王都のどこかの礎石の下に、並んでいるはずだった。
「ロゼット嬢」
エリオット様は白い石に手を置いたまま、わたしを見上げた。
「この石に、あなたの名を刻ませてほしい」
わたしの喉の奥が、ぎゅっと詰まった。
「わたしは、伯爵家の遠縁です。伯母が何と言うか」
「伯爵夫人には、明日、頭を下げに行く。何度でも行く」
「婚約を解かれたばかりです。千人の前で、天井が落ちると叫んだ娘です」
「天井は、落ちた」
エリオット様は静かに言った。
「あなたが叫んだから、千人が外にいた」
わたしは白い石の前に、膝をついた。
石の表面に、手袋を外した指で触れた。冷たかった。ざらりとした、切り出したばかりの石の肌。
指先に、白い粉がついた。
わたしはその粉を、ドレスの裾で拭かなかった。
「……わたしの名を刻むなら、一つだけ、お願いがあります」
「何だ」
「刻むのは、わたしにやらせてください。父に、のみの使い方は教わっています」
エリオット様の目が少しだけ見開かれた。それから、腰の道具袋から、使いこまれたのみと小槌を出してわたしの手にのせた。
のみの柄はエリオット様の手の温かさで、ぬるかった。
わたしは白い石に、のみの刃を当てた。
小槌を振り下ろすと、かつん、と、乾いた音がした。
石の粉がふわりと舞って、わたしの爪のあいだに入った。
伯母が毎晩洗ってくれた爪だった。
わたしはもう一度、小槌を振り下ろした。石が黙ってわたしの刃を受けとめた。
横で、エリオット様がしゃがみこんでわたしの手もとを見ていた。
「親方と同じ角度だ」
「父に、何度も直されましたから」
「私も、直された。……親方の娘が刻んだ名なら、この石は、百年は黙っている」
わたしはのみを持ったまま、少しだけ笑った。それから、三つ目の文字に、刃を当てた。
エリオット様の肩が、わたしの肩に、そっと触れた。二人とも、髪の先まで白い石の粉にまみれていた。
(完)




