case1-1 寝過ごした朝
ギィ ギィ
「…………ん」
何かが軋むような物音を聴き取り、俺の意識は覚醒した。
目を覚ますと、視界には白い天井が広がっていた。
シミ一つない真っ白な天井だ。毎朝目を覚ましたら大抵一番最初に目に入る場所である。平日の朝に目を覚まして、この憎たらしいほどに真っ新な天井が視界に映り込む度に、『あぁ、また今日がやってきた』と憂鬱な気持ちで起き上がるのが定番だった。
本来であれば、今日もいつものように寝床から起き上がり、腹も減っていないのに朝食を無理矢理にでも口に入れ、気怠げに支度をして早々に出勤していたことだろう。これから待ち受ける受難への不安を胸の内に抱え、吐きそうになるほどのプレッシャーに苛まれながら、今日一日を乗り越えるための心の武装に苦心していた筈だった。そう、少なくとも昨日までは。
「………………」
俺は仰向けの体勢のまま、たまたま近くに転がっていた目覚まし時計の方へ視線を向ける。
その画面には08:10の文字。今から支度を始めて家を出ても、会社にはもう間に合わないだろうと察することができるのは、約6年もの間を社畜として邁進してきた悲しき経験則に基づくものである。
いつもであれば早急に会社に連絡し、上司からの罵声にメンタルを削られながらも、朝飯やら身嗜みやらをそっちのけで家を飛び出していたことだろう。それほどまでに緊急性のある事態になりつつあることを、これまた経験則が告げていた。
……にも関わらず、俺の心は依然落ち着いたままだった。
不思議なことに、いつも胸中を占めていた『一日の始まり』に対する恐怖心や不安感、この状況に対する焦りや危機感といったものが、頭の中からすっぽりと抜け落ちていることに気づいたのだ。
理性では今の状況の緊急性をはっきりと理解している筈なのに、心の方は依然穏やかで、まるで今まで自分を縛り付けていた一切のしがらみから突然解き放たれたかのような晴れやかな気分だった。
『おや? ようやくお目覚めになったご様子ですね』
ふと、どこからともなく声が聞こえてきた。
目覚めたばかりでまだ寝ぼけているせいか、脳内に直接語りかけてきているような奇妙な感覚に見舞われる。
頭の中を見知らぬ誰かの声が木霊しているという現象は僅かな耳鳴りと鈍痛を引き起こし、まるで二日酔いで潰れていた時のような酷い不快感に苛まれることとなった。
折角の気持ちの良い朝を台無しにされ、僅かな苛立ちを覚えていた俺は、声の主の所在を確かめるためにその場から上体のみを起こし、部屋の中を見回した。
そこは最早見慣れた1Kの一室。一人暮らしを始めて凡そ5年間もの歳月を共に過ごしたもう一つの我が家である。
畳六畳分のスペースは家というよりかは一人部屋と呼んだ方が正確ともいえる手狭さではあったが、誰にも干渉されることのないプライベートの空間としては十分な広さであり、少なくとも物事の管理を殊更苦手とする俺にとっては寧ろ快適とも言える環境ではあった。
尤も、自他ともに認める大雑把な性分故、その清潔さまでは保つことが出来ず、最近ではやたらと物で溢れかえるようになり、今では足の踏み場もない惨状と化してしまっている。
仕舞う場所もなく床に放棄された家電用品の類。終ぞ読まれずに捨て置かれた本が積み重なってできた塔。捨てに行く心のゆとりもなく放置されたゴミ袋の山。見渡すほどに自身の生活力の無さを痛感させられるような事実が網羅されており、部屋の主人でさえも思わず辟易とする始末。もし知らない人間がこの部屋の様子を見に来ることがあったならば、きっと空き巣の被害を疑っていたところだろう。
そんな誰もが目を背けたくなるような、ゴミ屋敷同然の部屋の中央には、ホームセンターで買ったような無骨なデザインの脚立が無造作に倒れており、そこから視線を上へと見上げてみれば、
ギィ ギィ
と、先程から不吉な物音を立ててぶら下がる"それ"と目が合った。
「……………」
みすぼらしい部屋着を着込んでいた"それ"は、天井の間接照明から伸びた一本の縄によって首を括られ、頼りなさげにぶらぶらと揺れていた。
人の形をしてはいるが生気のようなものは感じられず、脱力して無防備に吊るされるがままで身動き一つとる気配もない。
ついこの間まで生きて動き回っていたとは思えないほど無機質で、まるで人形のようである。
どこかで見たホラー映画のシーンで、マリオネットの人形がこのような形で吊るされていたの思い出した。あれはまだ可愛げがあったから見ていられたが、こちらは造形があまりにリアルが過ぎる分、見ていて陰鬱な気分になるだけの不気味なインテリアでしかない。
陰鬱な雰囲気を醸し出している最大の要因となっているのがその表情であり、ただでさえ偏差値がそれほど高くない造形の顔立ちが、苦悶と苦痛に歪められたことでより不細工な出来へと成り下がっている。
我が事ながら、目も当てられない。よくもまぁ今日まで恥じらいもなく生きてこられたものだなと感心さえ覚える。
「……死体を初めて見る割には、随分と落ち着いていらっしゃいますね」
しばらく感傷に浸っていると、先程の声がまたもや聞こえてくる。
男性か女性か判別できかねるーーどちらかと言えば女性寄りに聞こえる中性的な声色だった。先程のような脳内に直接語り掛けてくるような不気味な感覚はなく、しっかりとこの両耳で聞き取った実感のある肉声だった。
「もう少し慌てふためくものとばかり思っていたのですがね。まぁ、死体なんて一生に見る機会なんてそうないでしょうし、ましてそれが自分の死体であれば、動揺よりも困惑の方が優っちゃいますかね」
「………あんたは」
声のする方向ーー背後を振り返ると、廊下へと続く扉の前にその人影が立っていた。
一体いつからそこに立っていたのか、どのようにしてこの家に入り込んでいたのかはわからない。声の主がこの人影なのは明白なのに、再度声をかけられるまで背後に立っていることにすら気づけなかったのだ。この状況も、この人影も、どう考えても普通ではないことは確かだった。
その影は全身を漆黒のローブで包み込み、自らの素性を覆い隠していた。夜の闇を体現したようなその姿はまさに読んで字の如く『人影』そのもので、少しでも目を逸らせばそのまま暗闇の中に溶けていってしまいそうな錯覚さえ抱かせる。外見からでは体格や性別さえ判別できそうにない人影の所在を辛うじて見失わずに済んでいるのは、目深に被ったフードの奥に見える白いがしゃ髑髏の面が目印として機能していたためだろう。薄暗い部屋の中において、それは影にとって唯一無二のトレードマークとなっていた。
「おっと、そう言えば自己紹介がまだでしたね。失敬失敬、これではお上の方々にお叱りを受けてしまう。
おっほん、では改めまして、お初にお目にかかります。猫屋敷様」
やけに芝居掛かった立ち振る舞いを見せる影は、何故か知っている俺の名前を呼びながら、身に纏っていた闇を翻し、恭しくお辞儀をすると、
「この度、貴方様の案内人を務めさせていただくこととなりました。死神の"蝋"と申す者です。つきましては、貴方様の今後について、ご相談をさせて頂く所存。以後よろしくお願い致しますね」
今までよりも仰々しく、更に畏まった態度でそう言った。
闇の中に薄らと浮かぶ白いしゃれこうべが、僅かに怪しげな笑みを浮かべたような気がした。




