国王陛下の寵姫ですが、別れさせ屋をさせられています!
グロリオサ夫人が纏う真っ赤なドレスの裾が揺れている。
大胆に開いた胸元は紳士達の視線を釘付けにし、口元にぽつりと落ちた黒子が淑女達の噂心を誘う。
ある侯爵主催の夜会で、夫人はひとりの若い紳士に寄り添っていた。
アラン・レイク子爵子息——結婚間近な婚約者のいる紳士に、だ。
夫人がアランに何事か囁いて、白く滑らかな指先で卿の唇をなぞる。
すると、アランは夫人を伴い、壁の花と化していた婚約者のもとへ向かった。
そうして——
「ライラ・リリック伯爵令嬢。君との婚約を、ここで破棄する! ……私の純潔を捧ぐに相応しい女性に、愛を誓う!」
途端に、広間がざわめき、婚約破棄を言い渡されたライラの顔から血の気が失せる。
驚きのあまり目を見開いたライラの肩が、ブルリと震えた。
「こんな……こんなことって……うぅっ!」
ライラはこぼれ落ちようとする涙を堪え、貴族達の視線から逃げるように広間を去る。
「……またグロリオサ夫人ですわ。この社交期で何人目? リリック伯爵令嬢は本当にお気の毒ね」
「エドリック陛下の寵愛を受けてなお、愛を求めるなんて……陛下が夫人に甘いのをいいことに、やりたい放題ですわね」
恋の噂が絶えないヴァルデュア王国の毒婦。
国王エドリック・ヴァルデュアが溺愛して止まない寵姫。
それが、グロリオサ夫人の肩書きであり、社交界に広まる評判だ。
けれど、広間の隅で囁かれる嫌味と悪口など、グロリオサ夫人は気にしたことがない。
走り去るライラの背中を見つめていると、アランが夫人の細く妖艶な腰を抱き寄せる。
「グロリオサ夫人……いや、ノエラ・グロリオサ伯爵夫人。私はあなたと真実の愛の虜。どうか今宵、私のものになってくれ!」
公衆の面前であることを忘れたか。アランが熱っぽい眼差しでグロリオサ夫人に迫った。
あちこちで上がる小さな悲鳴と、囃し立てる紳士達。
やはり気にせず、夫人はアランの耳元に唇を寄せ、吐息混じりに囁いた。
「アラン卿、こんな夜に無謀な決断をなさるなんて……勇気がありますわ。とても素敵よ」
夫人の声はまぁるく甘い。けれど、どこか冷たい響きが混じっている。
「……でも」
するり、と。アランの腕からすり抜けて、夫人がバサリと扇子を広げた。
困惑するアランの視線を真正面から受け止めて、グロリオサ夫人は目を細めて微笑んだ。
「わたくし、言葉だけなんて信じられませんの。きちんと、正式に、ライラ嬢との婚約を破棄したのなら……あなたにいい夢を見させてあげましょう」
毒婦の妖艶な笑みに、アランが顔を赤らめる。
それを見ても、夫人の心は空っぽだ。豊かな胸の内には、空虚が詰まっている。
——陛下のご命令は、果たせましたわ。
グロリオサ夫人はゆっくりと。アランに背を向けて、騒がしい夜会を後にする。
* * *
夜会の喧騒を背にしたグロリオサ夫人は、エドリック陛下が待つ寝室へと足を運んだ。
ノックは4回。「入れ」の応答を得てから扉を開ける。
燭台の灯りに照らされたエドリック陛下が、寝台の縁に腰掛けていた。
サイドテーブルには赤ワインが注がれたグラスと、書類の山。
それから、炎のような真っ赤な花弁を持つ一輪の花。
ゆったりとしたローブを纏い、ペラリと書類をめくる。
陛下の眼差しは、静かに凪いでいた。
「国王陛下。あなたの……ロクでもないご命令、遂行して参りましたよ」
グロリオサ夫人は真っ赤なドレスの裾を広げて一礼しながら、そう告げた。
きしり。陛下が寝台から降りる音がする。
夫人は床をジッと見つめたまま。
陛下の冷たい指が顎を掴み、強引に顔を持ち上げる。
夫人は、抵抗しなかった。
「これでライラ嬢は、不正を重ね裁判直前のレイク子爵家とは縁が切れ、陛下の息のかかった臣下との婚姻を進めることができるでしょう」
にこりともせずに、夫人は淡々と告げた。
その眼差しは氷のように冷たく、悪魔を睨みつけているかのように鋭い。
「つれないな、ノエラ。君のその冷たい態度が、私を燃え上がらせることを知っているか?」
挑発するようなエドリックの視線が、夫人の身体にまとわりつく。
今にも肌に触れそうなほど、吐息が近い。
グロリオサ夫人は、エドリックがそれ以上近づくことを許さなかった。
するりと身を躱し、閉じた扇子で陛下の手をピシャリと打つ。
「冗談はよしてください、陛下。わたくしの愛も身体も、あの方のもの。陛下に捧ぐのは、臣下としての忠誠心だけです」
「ははは! それでこそ、私の愛しい宮廷調整官だ。ヴァルデュアの闇を請け負う愛しい毒花だ!」
エドリックは快活に笑うと、夫人から離れて寝台に戻った。
世間は、若き王と寵姫の愛を信じている。
愛ゆえに、エドリック陛下はグロリオサ夫人の奔放な愛を黙認しているのだ、と。
けれど本当は、忠誠と憎しみで縛られた関係だった。
「……わたくしから婚約者を奪い、勝手にグロリオサ伯爵と婚姻させたくせに」
「仕方がないだろう。君の美貌と才能を、ただの近衛騎士などにくれてやるのは惜しい。普通の結婚など、君を枯れさせるだけだ」
ヴァルデュア王国に限らず、貴族の令嬢は結婚すると跡継ぎを残すことが第一使命となる。
子爵家や男爵家などの下位貴族ならともかく、伯爵家以上ともなると、稀に家業を手伝うことはあっても、表立って仕事をすることはない。
「私のそばに置いておくためには、君を結婚させて寵姫として宮廷に招くことしかできなかった」
「わかっています。陛下の寵姫として囲われることで、わたくしの身の安全と立場が守られていることも。……納得はしておりませんけど」
憮然とした態度を隠しもせずに、夫人は首を横へ振る。
夫人は、エドリックと呑気に話す気などなかった。
「そんなことよりも、報酬をいただきたく」
「本当につれない。もう少し気を許してくれてもいいだろう?」
「いいえ、お断りいたします」
瞬きほどの静寂。
グロリオサ夫人とエドリックの視線が、ばちりと合わさる。
押し負けたのは、エドリックだった。
「仕方がない。 ——ほら、王国第三騎士団所属ダリウス・グレイヴナーからの手紙だ」
エドリックが、書類の間から取り出した一通の手紙を夫人に差し出した。
夫人はその手紙を素早く受け取ると、大事な大事な宝物のように抱きしめて目を伏せる。
封筒に記された日付は、五日前。
ちょうど、グロリオサ夫人がアラン卿とライラ嬢を別れさせるように、とエドリック陛下から命令を受けた日だ。
——生きてる。まだ、あの方は生きている。
グロリオサ夫人の氷のような胸の内に、小さな火が灯る。
ダリウス・グレイヴナー卿は、グロリオサ夫人のかつての婚約者だ。
相思相愛で結婚も間近だった恋は、エドリックによって引き裂かれてしまったけれど。
「……っ、ダリウス」
「君が私に忠誠を誓う限り、ダリウス卿の命は保証される。忘れるなよ、ノエラ」
「——本当に酷いひと」
「おっと、睨まないでくれノエラ。君の美しい顔が、さらに美しくなってしまう」
くつくつと喉を鳴らして笑うエドリックに、夫人は諦めたようにため息をついた。
「——さあ、ノエラ。次の仕事の話をしよう」
どちらが吐いた息で揺れたのか。燭台の炎が、ゆらりと揺れる。
エドリックに命じられたのは、新たな婚約破棄の仕事だった。
* * *
——クラリス・ドローム男爵令嬢とフェルド・カーヴェイン子爵子息の婚約を破棄させよ。
たったそれだけの命令と情報を与えられたグロリオサ夫人——ノエラは、フェルド卿とクラリス嬢が揃って出席するという夜会に足を運んだ。
「……謀ったかのような夜会だわ。きっとこの宴も、陛下の掌の上」
それでもノエラが夜会に行かない、という選択肢はない。
エドリックの命令を無視することも、当然ない。
王国第三騎士団所属ダリウス・グレイヴナー卿の命が、エドリックに握られているから。
もしノエラがエドリックの命令に背けば、ダリウスはすぐさま前線に送られ、命を落とすことだろう。
——ダリウス、どうかご無事で。あなたの命は、わたくしがお守りいたします。
ノエラは切なさに目を閉じ、華奢な手をきつく握りしめた。
そうして、辺境に飛ばされたダリウスを恋しく想う。
愛しいひと、わたくしのあなた。
今は文を交わすだけで会うことはできないけれど、いつか必ず——。
目を開けたノエラの顔に、恋する乙女の清らかさはない。
身体は清いままなのに、心だけが穢れてゆく。
ノエラはヴァルデュア王国の毒婦の仮面を被り、夜会への扉を潜る。
華やかな夜会だった。
眩いばかりのシャンデリア、惜しみなく置かれた燭台。揺れる灯りを反射して、ますます輝くクリスタルの数々。
どれほど財を尽くしたのか。噂では、この夜会を主催する伯爵家にはドローム男爵家の後援があったという。
——なるほど。陛下はドローム男爵家の財力を、政に取り込みたいのね。
ノエラ——グロリオサ夫人は、妖艶に微笑みながら広間を見渡す。
財界の中心的な人物や、国政に影響を与えるほどの商家の娘たちがちらほら。
彼らの中心にいるのが——ドローム男爵だった。
ドローム男爵は立派な顎髭を撫でながら、貴族や商家たちと談笑している。
もしかしたらエドリックは、この夜会に出席している彼らを丸ごと取り込みたいのかもしれない。
——我が王は、強欲でおられるから。
次にグロリオサ夫人が探したのは、今回のターゲットであるフェルド卿だ。
フェルドは、すぐに見つかった。
ドローム男爵が娘可愛さに、時折、視線を彷徨わせ、クラリス嬢を探していたから。
フェルドは傍に、自信がなさそうに俯くクラリス嬢を従えて、談話スペースで友人達と話していた。
夫人は迷わず、フェルドの元へと向かう。
「こんな華やかな夜なのに、もう休んでおられるの?」
夫人はフェルドとクラリスの仲を引き裂くように、二人の間に遠慮なく腰を下ろす。
追いやられたのは、露出の少ない地味なドレスを着たクラリスだ。
大胆に肩を露出したドレスを纏う夫人の素肌が、フェルドに触れる。
真っ赤に咲き誇るドレスの裾が、フェルドの脚にまとわりついた。
「あ、あなたは……グロリオサ夫人!?」
「フェルド卿、なんて素敵な方。社交界でクラリス嬢の噂が流れているのはご存知?」
赤く染まるウブな耳元で、夫人はとろけるような甘い声で囁いた。——隣のクラリスには聞こえないように、唇を近づけて。
ごくり、と上下するフェルドの喉元を冷ややかに見ながら、夫人の白く滑らかな指先がフェルドの胸に触れる。
クラリスの噂が社交界に流れているのは、事実だ。
ドローム男爵家が栄えたのは、ひとえにクラリスの手腕によるものだ、と。
彼女が財政難のカーヴェイン子爵家に嫁げば、子爵家も盛り返すだろう、と。
どれも皆、彼女を褒め称える噂ばかり。
「彼女……本当にあなたに相応しいレディなのかしら」
夫人がフェルドの思考を誘導するように、妖艶に目を細める。
刹那の欲に溺れたフェルドは思惑通り、夫人の言葉を悪い方に受け取った。
……自分の都合のいい方に。
「それは……あなたこそが僕に相応しい……と?」
フェルドの問いかけに、夫人は言葉を返さなかった。
代わりに誘うような眼差しで、ふっくらとした艶やかな唇の口角を上げる。
フェルドが息を呑む音が聞こえる。彼の手が、夫人の細い腰に伸びた。
けれど、夫人は素早く扇子を取り出してフェルドの指をピシャリと叩く。
「焦らないで、フェルド卿。愛は、常に試されるものですわ」
グロリオサ夫人は扇子の先でフェルドの首筋から顎までなぞると、にこりと笑った。
そうして、目の前で婚約者が夫人に色目を使っている様に抗議することもできず、青褪めたまま震えるクラリスを置き去りにして、夫人は静かに踵を返す。
夜会を盛り上げる演奏は、まだ続いていた。
けれど、グロリオサ夫人の耳にも心にも、なにも響くことはなかった。
* * *
フェルド卿を誘惑した宴の翌日。
グロリオサ夫人はドローム男爵邸を訪れていた。
夫人の手には、小さなメッセージカード。
そこに記されていたのは——
『本日、午後2時。ドローム男爵邸、薔薇庭園にてお待ちしております』
たった一行。けれど、儚く乱れた文字の震えが、すべてを物語っている。
——毎回、これだけは慣れないわね。
夫人はそっとため息を吐くと、薔薇庭園の門をくぐった。
グロリオサ夫人の仕事は、陛下の命により、恋人達の仲を引き裂く仕事だ。
持って生まれた美貌と肉体を使い、男性側に接近する。
身体だけは、決して許さない。
代わりに、言葉と仕草で翻弄する。
そうすると、決まって女性側からご招待されるのだ。
例えば、今日のように。
「……グロリオサ夫人、なぜ私の婚約者を奪おうとするのです。あなたほどの方が、わざわざフェルド卿などを誘惑するなんて」
美しく咲き誇る薔薇に囲まれたクラリスが、庭園の奥で夫人を待っていた。
すらりと芯の通った背筋に毅然とした表情。
昨夜の夜会とはまるで別人のよう。
けれど、首元から足首まで徹底的にレースや絹で肌を隠したドレスだけは、同じだ。
夫人は、すぅ、と目を細めて微笑んだ。
「その婚約者から与えられる『愛』は、本物かしら?」
真夜中に浮かぶ細い三日月のような笑みで、クラリスを見つめる。
よく晴れた初夏の午後だというのに、一瞬にして夜の帷が落ちたかのよう。
クラリスは思い当たる節があったのか、青褪めた顔で反論した。
「彼は……私を愛してくれています! ……情熱的な愛で、私に証を下さるのです」
「レディが夜会で流行りのドレスを着れないほどの苛烈さで?」
「……っ! どうして、それを……!」
クラリスの瞳が、ぐらりと揺れた。
最近、夜会で流行しているのは、グロリオサ夫人が来ていたような露出度の高いドレスだ。
それを下品にさせずに着こなすこと。それが、貴族令嬢や夫人達の間で流行っている。
けれどクラリスは、違う。
肌を露出することを避け、覆い隠している。
夫人は静かに前へ踏み出した。
さく、と芝を踏み締める音が心地良い。
クラリスの前に歩み寄り、レースで覆われた彼女の腕をそっと撫でて——掴む。
「……っあ、痛!」
「わたくしの目は、誤魔化せませんわ。……ねぇ、怖かったでしょう?」
優しく、甘く。
労わるようにクラリスの腕を撫でる。
美しいレースで飾られた華奢な腕には、青や黄色の痣が浮かんでいた。
夫人が柔らかな視線でクラリスを見つめると、彼女の目頭からじわりと涙が染み出してくる。
「……はい。とても、とても怖かった。誰にも……誰にも、相談できなくて……」
はらり、と頬を伝う涙を隠すように、夫人はクラリスを抱きしめた。
「わたくし、何人もの迷える乙女を解放してきましたの。あなた程の才女が、縮こまって声も上げられないなんて……冗談じゃありませんわ」
「グロリオサ夫人……でも、でもっ! フェルド卿は私を愛しているから、と! だから私を従順で模範的な淑女に躾けるのだ、と……」
「愛は支配ではないわ、クラリス」
そう囁いた夫人の髪と薔薇の花弁を、一陣の風がさらって吹き抜ける。
「愛は、相手を尊重するものよ。……たとえ、それが自分を傷つけるものだとしても」
そう告げたグロリオサ夫人の胸の内には、愛しいダリウスの面影が疼いている。
かつて救えなかった恋が、夫人の唇を衝動的に動かしていた。
「あなたを傷つける男に、あなたの未来を委ねる必要はない」
はっ、と。クラリスが息を呑む音が聞こえた。
ぶるぶると震える腕が夫人の背中に回り、縋るように指先に力がこもる。
「……っ、夫人……どうか私を、助けてください」
「彼の本性を、わたくしに教えてちょうだい。真実を知る勇気は、あなたの中にある」
「フェルド卿は……私を罵り、腕を強く掴んで、それから……。でも、いつか彼は変わると信じたかった!」
クラリスは嗚咽を漏らし、フェルドの罪を告白する。
「お父様とお母様のように、お互いに支え合いたかった! カーヴェイン子爵家の財政を立て直し、領民に誇れる仕事をしたかった!」
ぼろぼろとこぼれ落ちる涙が、夫人の肩を濡らしてゆく。
「……でも、フェルド卿にはそんな意志はありません。領民を救いたいなんて気持ち、最初から」
こんなにも誇り高き令嬢を、あの男は踏みにじったのだ。
グロリオサ夫人の冷えた心に炎が灯る。ダリウスを想うときの暖かさとはまた別の炎が、胸に満ちてゆく。
「あなたは自由になるべきよ。わたくしがその道を開くわ」
フェルド卿を陥れることで、エドリック陛下に復讐しているのかもしれない。
それでもいい、と。ノエラ・グロリオサは思う。
身を結ばない復讐だとしても、ひとりの令嬢が救われることに違いないのだから。
* * *
薔薇庭園でクラリスと話してから一週間後。
今夜もヴァルデュア王国の王都では、豪奢な夜会が開かれている。
主催はカーヴェイン子爵家。すなわち、フェルド卿の家である。
「見て。次期子爵のフェルド卿と、婚約者のクラリス嬢よ。本当にお似合いの二人ね」
「今夜の宴もドローム男爵家が援助しているのでしょう? カーヴェイン子爵家は安泰ね。こんなに素晴らしい夜会を開けるようになったのだもの」
フェルドとクラリスは主催者の家族とその婚約者として、カーヴェイン子爵とその夫人の傍で挨拶を受けている。
美しく繊細なレースで痣を隠すクラリスの瞳には、微かな希望の光が灯っていた。
一方でフェルドの目には濁った欲が滲み、視線は絶えず広間の中を彷徨っている。
フェルドが探しているのは、蠱惑的な曲線を持つグロリオサ夫人だ。
誘惑に抗うことすらしなかったフェルドは、もう、夫人の虜。
夫人の登場を今か今かと待ち望み——それはすぐに叶った。
燃えるように真っ赤なドレスの裾が、見るものすべてを魅了するかのように揺れている。
傍には、先週、夫人が堕としたアラン卿が恋する紳士の目をして寄り添っていた。
途端に、広間の空気が凍りつく。
皆、思い出したのだ。
今宵の宴が、カーヴェイン家が開いたものだということに。
そのカーヴェイン家には結婚間近な子息がいて、確か、毒婦に誘惑されていたんじゃないか——と。
誰もが緊張して、ごくりと唾を呑み込んだ。
夫人がもたらす新たな恋の醜態が、間近で見られるかもしれない、と。
空気を読めずに浮かれているのは、夫人に寄り添うアランと……嫉妬に焦がれたフェルドだけ。
「グロリオサ夫人! 僕のために来てくださったのですね!」
フェルドが婚約者であるクラリスを突き放し、夫人に駆け寄った。
呼び止めるクラリスの声など、聞こえていないかのよう。
とろんと蕩けた目で夫人の手を取り、アランを挑発するようにその甲に口付ける。
手袋越しとはいえ、夫人の目元が嫌悪でひくりと僅かに跳ねた。
——いけない。仕事をしなければ。
夫人はすぐに華やかな笑みで嫌悪感を上書きして、魅惑的な黒子で飾られた唇を開く。
「今宵はお招きいただきありがとう存じます、フェルド卿。……あら、清楚可憐な薔薇は……もうよろしくて? それとも……あなたの棘で、わたくしを楽しませてくれるのかしら?」
誘うようにフェルドを見つめながら、夫人が甘く告げた。
ちらり、と。クラリスへ視線を走らせると、彼女はなにかを決意したような強い眼差しで、夫人に向かって小さく頷く。
それを見て、夫人の唇が持ち上がった。
美しい毒花が咲くように綻ぶ笑顔が、フェルドの頬を赤く染める。
「フェルド卿……いかが?」
夫人はそっとフェルドの手に指を這わせてから、じりじりと長い指を袖口まで忍ばせた。
くるり、と手首を撫でてあげると、フェルドの身体がビクリと跳ねる。
「……っ、ええ、ええ! 勿論、喜んで。夫人に奉仕させていただきたく——」
「本当に? 本当にわたくしに奉仕してくださるの? でも、どうして? あなたには愛を誓った婚約者が……」
「彼女への愛など! 真実の愛ではありません!」
フェルドの叫びが、広間を駆け抜けた。
あちこちで息を呑む音が聞こえる。夫人にまつわる噂が、新しく囁かれる声がする。
フェルドの後ろには、唖然とした表情で息子を見つめるカーヴェイン子爵家の面々と、義理の父になるはずのドローム男爵の姿が。
けれど、欲望の忠実なる僕と化してしまったフェルドは気づかない。
「僕の愛は、誓うべき愛は……グロリオサ夫人、あなたのものです!」
「ふふ。殿方は皆、誓いの言葉を使うのがお好きなのね。けれど——誓いが二度あったとして、そのどちらが偽りになるのかしら?」
「あなたへの愛は、偽りではない!」
フェルドは鼻息荒く、言い切った。
——ありがとう、その言葉が聞きたかったの。
夫人は、フェルドの宣言が嬉しそうに見えるように、口元に手を当てて瞳を潤ませた。
一方で、アランの顔が青褪める。フェルドの言動に思い当たる節でもあったのか。目が醒めたらしいアランが、強張った顔で夫人を見つめている。
夫人の胸の内は、渇いて凪いだまま。
なにも響かない心で、フェルドを熱く見つめているフリを続ける。
「——では、どうすればいいのか……わかりますわね?」
「わかりますとも! ……クラリス・ドローム男爵令嬢、君との婚約は破棄する!」
「……っ!」
突然、注目を一身に受けたクラリスの目が、大きく見開かれた。
唇を噛み締め、驚きで叫び出さないように堪えている。
それでも、クラリスはすぐに冷静さを取り戻した。
す、と一歩前へ出て、理知的な瞳でフェルドを見つめる。
「……私に誓った愛は、嘘だったのですね、フェルド卿」
クラリスのか細い声が、静まり返った広間に心地よく響いた。
けれど、その声を良しとしない者がひとり。
「お前が……お前が淑女らしく振る舞わなかったからだ! 女のくせに、我が子爵家の事業に口出ししやがって!」
夫人に愛を乞うていた時とは打って変わって、目を吊り上げたフェルドがクラリスを怒鳴りつける。
フェルドはクラリスを罵倒するだけに留まらず、感情の赴くままに彼女に掴み掛かり、何度も打ち据えた。
その姿が、クラリスを叩き慣れている者の手付きだったから。
あまりの酷さに淑女たちから「きゃあ!」と。非難めいた悲鳴が上がり出す。
その声を皮切りに、クラリスへの同情とフェルドを咎める囁きが広間に満ちてゆく。
フェルドの凶行を止めようと、ドローム男爵とカーヴェイン子爵が駆けようとする——のを、夫人が鋭い視線で止めた。
「フェルド卿」
グロリオサ夫人の凛々しい声で、ざわめきが一瞬にして静寂へと変わる。
錆びついたネジのように、ぎぎぎ、と首を回して夫人を見つめるフェルドの目には、己の醜態を恥じる色はなく、ただクラリスへの憎しみしかなかった。
だから夫人は、遠慮なく微笑んだ。
空っぽの笑みでフェルドの膝を折り、項垂れる彼と野次馬の貴族たちに向けて言葉を投げかける。
「レディを打ち据え、声を荒げる。そのような振る舞いを『愛』だと許す国が、どこにありまして?」
夫人の問いかけは、フェルドを除く貴族達の心をひとつにまとめた。
「恥を知れ!」と貴族達が口々に叫び出す。
すなわち——否、と。
そんなものは愛でなく恥ずべき行いだ、と。
「エドリック陛下はそのような『愛』など、許しませんわ」
と。国王陛下の寵姫の言葉の後押しもあったのだろう。
震えながら立ち上がったクラリスが、打たれて赤く腫れ上がった顔を晒し、勇敢な宣言を果たした。
「フェルド・カーヴェイン卿。私、クラリス・ドロームは……あなたの申し出を受け入れ、婚約を破棄いたします」
王命を遂行したグロリオサ夫人は、クラリスの勇気ある宣言で沸く夜会を静かに後にした。
その傍らにアランの姿はない。
フェルドの失態を目の当たりにし、自分の言動と照らし合わせて目が醒めたのだ。
きっと今ごろ、謝罪のためにライラ嬢を訪ねているところだろう。
——謝ったところで、許されるわけがないのにね。
王都の冷たい夜風が、夫人の身体と心を撫でてゆく。
はじめから熱を持たないそれが、ますます冷えて重しになってゆくのを感じた。
「……ダリウス、愛しいひと。必ずあなたを生かしてみせる」
髪留めが風で緩んだか。はらり、と解けた長い髪が夜風に遊ぶ。
夫人の——ノエラの熱のこもった祈りを、王都の風が攫っていった。
【完】




