第 8 話「異世界への転移」
境界術訓練から三日後。慎一は初めて他世界への門をくぐろうとしていた。
「緊張されていますか?」
エルダが優しく声をかけた。彼女と共に、魔法文明世界アルディアを訪問する予定だった。
「少し」慎一は正直に答えた。「理論的には理解していますが、実際に体験するのは初めてです」
ネクシス中央区画の巨大な七角形プラットフォーム。それぞれの角に設置された門が、七つの世界への入り口となっている。
慎一の前にあるのは、淡い青色の光を放つアルディアへの門だった。
「では、参りましょう」
エルダが先に門をくぐる。その瞬間、彼女の姿が青い光に包まれて消えた。
慎一は深呼吸し、一歩を踏み出した。
青い光が全身を包み込む。重力が消失し、時間の感覚が曖昧になる。意識の奥底で、七つの世界のビジョンが断片的に蘇った。
そして気がつくと、慎一は見たこともない美しい世界に立っていた。
「ようこそ、アルディアへ」
エルダが微笑んでいた。しかし慎一は返事をすることができなかった。
目の前の光景に圧倒されていたからだ。
空中に浮かぶ巨大な魔法学院群。古代の石造建築でありながら、重力を無視して宙に舞っている。建物同士を結ぶ虹色の光の橋。そこを優雅に歩くエルフたちの姿。
「物理法則が...」慎一は呟いた。
「こちらでは魔法が物理法則を上書きしています」エルダが説明した。「慣れるまで、少し時間がかかりますね」
慎一は手帳を取り出し、観察記録を始めようとした。しかし、ペンが震えて文字が書けない。
「どうしました?」
「理解が追いつきません」慎一は困惑していた。「浮遊する建築物の重力制御理論、エネルギー供給システム、構造力学的安定性...すべてが既存の物理学と矛盾している」
「頭で理解しようとせず、心で感じてみてはいかがですか?」
エルダの提案に、慎一は戸惑った。
「心で感じる...」
境界術訓練で学んだことを思い出し、慎一は論理的分析を止めてみた。
すると、不思議なことが起きた。
空中の学院群が、単なる建造物ではなく、長い歴史と無数の学習者たちの想いが込められた場所に見えてきた。虹の橋も、人々を結ぶ絆の象徴のように感じられた。
「これは...美しい」
慎一の口から、計算や分析ではない感想が漏れた。
「そうでしょう?」エルダが嬉しそうに答えた。「アルディアの魔法は、知識だけでなく感情からも生まれるのです」
二人は光の橋を渡り、中央の大学院に向かった。
「田村管理者をお待ちしておりました」
学院の門で、一人の老エルフが出迎えた。長い銀髪と深い緑の瞳を持つ、威厳ある人物だった。
「私はシルヴァリオン、アルディア魔法学院の院長を務めております」
「田村慎一です。よろしくお願いします」
慎一は丁寧に挨拶した。しかし、院長の表情には微かな困惑が見えた。
「実は、新管理者には伝統的な試練を受けていただく必要があります」
「試練ですか?」
「はい。アルディアでは、管理者の資質を『心の調和』によって判定します」
院長は学院の奥へと案内した。到着したのは、円形の大きな部屋だった。
「こちらが『感情の間』です」
部屋の中央には、水晶でできた球体が浮いている。その周囲に、複雑な魔法陣が描かれていた。
「この水晶は、触れた者の感情を可視化します」院長が説明した。「管理者として、多元宇宙の調和を保つには、自分自身の心の状態を理解していることが重要です」
慎一は水晶を見つめた。自分の感情が可視化される?それは彼にとって最も苦手な分野だった。
「もし、感情の調和が取れていなければ?」
「その場合は...管理者としての適性に疑問符がつきます」院長は申し訳なさそうに答えた。「これまでの管理者も、皆この試練を受けています」
慎一は考えた。ヴォイダスも、この試練を受けたのだろうか?
「では、始めさせていただきます」
慎一は水晶に手を伸ばした。しかし、触れる直前で躊躇した。
自分の感情を他者に見られるのは、論理的な彼にとって恐怖だった。
「大丈夫です」エルダが励ました。「ありのままのあなたを見せてください」
慎一は水晶に触れた。
瞬間、部屋が七色の光で満たされた。
水晶の中に、慎一の感情が映像として現れ始めた。
最初に現れたのは、研究への情熱だった。深夜の実験室で、一人黙々と作業を続ける姿。真理への純粋な探求心が、美しい青い光として表現されていた。
「素晴らしい」院長が感嘆した。「これほど純粋な探求心は稀です」
しかし、次に現れたのは、孤独感だった。誰にも理解されない寂しさが、暗い紫の雲として漂っていた。
そして、麻衣との別れの場面。彼女の涙声、自分の困惑、理解できない感情への恐怖。それらが混沌とした色彩となって水晶を満たした。
「これは...」院長の表情が曇った。
感情の映像は続いた。
統合評議会での不安、ヴォイダスへの恐怖、テクニカやエルダとの新しい絆への希望。すべてが混在し、調和を欠いていた。
しかし、最後に現れたのは、境界術訓練での発見だった。
論理と感情を統合した瞬間の喜び。新たな可能性への期待。それらが温かい金色の光として水晶を包んだ。
映像が終わると、部屋に静寂が流れた。
「どうでしょうか?」慎一は不安そうに尋ねた。
院長は長い間考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「興味深い結果です」
「興味深い?」
「はい。あなたの感情は確かに混沌としています。しかし、その混沌の中に、成長への強い意志が見えました」
院長は水晶を見つめた。
「前管理者のヴォイダス様は、この試練で完璧な調和を示されました。感情の乱れが全くない、理想的な状態でした」
「それは素晴らしいことなのでは?」
「当時はそう思いました」院長の表情が暗くなった。「しかし、今思えば、それは感情を完全に制御していたということです」
エルダが補足した。
「感情を制御することと、感情を理解することは違います」
「つまり、私の混沌とした感情は...」
「成長の可能性を示しています」院長が微笑んだ。「完璧すぎる調和は、時として停滞を意味します。あなたの感情の動きは、まさに『生きている』証拠です」
慎一は安堵した。自分の不完全さが、かえって評価されるとは思わなかった。
「ただし」院長は続けた。「この混沌を調和に導く努力は必要です」
「どのようにすれば?」
「感情を理解し、受け入れることです。否定するのではなく、自分の一部として認めることです」
慎一は手帳にメモを取った。今度は、感情的な気づきも一緒に記録した。
**感情理解の課題:**
**1. 自分の感情を認識する**
**2. 感情を否定せず受け入れる**
**3. 感情と論理の調和を目指す**
「では、試練は合格ということでしょうか?」
「はい」院長が頷いた。「あなたには管理者としての資質があります。ただし、学習と成長を続けることが条件です」
「ありがとうございます」
慎一は深く頭を下げた。初めての他世界での試練を乗り越えた達成感があった。
「これからも、定期的にアルディアをお訪ねください」院長が提案した。「感情の理解について、我々がお手伝いします」
「ぜひ、お願いします」
学院を後にする時、慎一は振り返った。
浮遊する建造物は、もはや物理法則の謎ではなく、長い歴史を持つ美しい文化の象徴に見えていた。
「どうでした?」エルダが尋ねた。
「勉強になりました」慎一は答えた。「感情を可視化されるのは恐ろしかったですが、自分を客観視する良い機会でした」
「それが成長の第一歩ですね」
二人はネクシスへの門に向かった。
「エルダさん」
「はい?」
「あなたの感情の調和は、どの程度なのですか?」
エルダは少し悲しそうな表情を浮かべた。
「私も...完璧ではありません。過去の辛い経験が、まだ心に影を落としています」
「過去の経験?」
「いつか、お話しします」
エルダの答えに、慎一は新たな疑問を感じた。彼女にも、隠された過去があるのだろうか?
ネクシスに戻る門をくぐりながら、慎一は考えていた。
論理だけでは理解できない世界がある。
感情を含めて初めて理解できる真理がある。
そして、完璧ではない自分にも、成長の可能性がある。
それが、今日の最大の発見だった。
しかし、統合評議会に戻ると、緊急事態が彼を待っていた。
「田村管理者、急いで議事堂へ!」
テクニカが血相を変えて駆け寄ってきた。
「何があったのですか?」
「コルヴァン首席長老が、ヴォイダス様について重大な告白をすると言っています」
慎一の胸に、不安が蘇った。
アルディアでの学びは素晴らしかった。
しかし、現実は彼に新たな試練を準備していた。
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## 次回予告
**第 9 話「評議会の招待」**
緊急招集された統合評議会で、コルヴァンが 500 年間隠し続けてきた真実を告白する。
「ヴォイダス様の失踪は...我々の責任でもあったのです」
衝撃の事実に動揺する評議会メンバーたち。しかし、さらに深刻な問題が発覚する。
「境界不安定化は、実はヴォイダス様の帰還準備だった可能性があります」
一方、慎一は初めて管理者としての重大な決断を迫られることになる。七つの世界すべての運命が、彼の選択にかかっている。
「新管理者として、あなたはどう判断されますか?」
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## 後書き
第 8 話では、慎一が初めて他世界を体験し、「感情の可視化」という興味深い試練に直面しました。
アルディアの美しい世界観を通じて、論理だけでは理解できない価値があることを、慎一が体験的に学ぶ過程を描写しました。
特に重要なのは、慎一の「不完全な感情の調和」が、かえって成長の可能性として評価されたことです。これは、ヴォイダスの「完璧すぎる調和」との対比となり、今後の物語展開への重要な布石となっています。
また、エルダの「過去の辛い経験」への言及により、第 25-26 話での彼女の過去編への伏線も設置されました。
次回は、いよいよコルヴァンの重大告白により、ヴォイダス関連の謎が深まり、物語の緊張感が一気に高まります。