第 4 話「麻衣の最後通告」
七つの月が西に傾く頃、慎一は麻衣との最後の記憶を辿っていた。
あの日のことを思い出すたび、胸が締め付けられる。もし、あの時違う言葉をかけていたら—
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**二ヶ月前、品川駅近くのファミリーレストラン**
「慎一くん、お疲れさま」
麻衣は慎一の向かいに座り、いつものように温かい笑顔を見せた。しかし、その笑顔の奥に疲れが見えることに、慎一は気づいていなかった。
「研究費の審査はどうだった?」
「保留になった」慎一は淡々と答えた。「論理的には完璧だったが、実用性と協調性に課題があると言われた」
「そう...」麻衣は少し悲しそうな表情を浮かべた。「でも、慎一くんの理論はすごいと思うよ。いつか必ず認められる」
慎一は手帳を開き、審査会でのやり取りを整理し始めた。
「問題は審査委員たちの理解力不足だ。多元宇宙理論の革新性を把握できていない」
「ねえ、慎一くん」
麻衣が遠慮がちに口を開いた。
「今日は研究の話じゃなくて、私の話を聞いてもらえる?」
慎一は手帳から顔を上げた。麻衣の表情がいつもより深刻だった。
「どうした?何か問題でもあったのか?」
「うん...実は、おばあちゃんの容態が悪くて」
麻衣の声が震えていた。
「お医者さんから、もう長くないって言われたの」
慎一は困惑した。彼にとって死は、生物学的プロセスの終了点でしかなかった。
「高齢だからな。自然の摂理だ。悲しむ必要はない」
その言葉に、麻衣は目を見開いた。
「悲しむ必要がない...?」
「論理的に考えれば、すべての生物はいずれ死ぬ。それは避けられない現実だ。感情的になっても状況は変わらない」
慎一は真面目に説明した。彼なりに麻衣を慰めているつもりだった。
「でも、おばあちゃんは私を育ててくれた人なの。私にとってお母さんみたいな存在で—」
「それでも事実は変わらない」慎一は手帳にペンを走らせながら続けた。「死への恐怖は、生存本能による非合理的反応だ。客観的に受け入れれば、精神的負荷は軽減される」
麻衣の瞳に涙が浮かんだ。
「慎一くん...私、すごく怖いの。おばあちゃんがいなくなっちゃうのが」
「怖がる必要はない。統計的に見れば—」
「統計?」
麻衣の声が裏返った。
「私の気持ちを統計で説明するの?」
慎一は麻衣の反応に困惑した。論理的な説明をしているのに、なぜ怒っているのか理解できなかった。
「感情は化学反応の結果だ。脳内物質の分泌により—」
「やめて」
麻衣は立ち上がった。
「もうやめて、慎一くん」
レストランの他の客たちが振り返った。麻衣の声が大きくなっていた。
「私は慣れてしまったと思ってた。慎一くんが私の気持ちを理解してくれないことに」
「理解しようとしている。科学的に分析すれば—」
「科学的?」麻衣は涙を拭いながら言った。「私の悲しみを分析?私の不安を数式で表すの?」
慎一は完全に混乱していた。彼なりに最善を尽くしているのに、なぜ麻衣は理解してくれないのか。
「論理的思考は感情的判断より優れている。それは客観的事実だ」
「客観的事実...」
麻衣は力なく笑った。
「慎一くん、私たちが付き合い始めた理由、覚えてる?」
「君の知的好奇心に惹かれたから—」
「違う」麻衣は首を振った。「私は、慎一くんの研究への情熱に心を動かされたの。あの時の慎一くんは、理論を語る時、目をキラキラさせてた。まるで子供みたいに純粋で」
慎一の手が止まった。
「でも今の慎一くんは、人の心を『化学反応』って呼ぶ。私の悲しみを『非合理的反応』って言う」
麻衣は慎一の手帳を見つめた。
「その手帳には、私の気持ちも数式で書いてあるの?」
「そんなことは—」
「答えて」
慎一は答えられなかった。確かに、彼は麻衣の行動パターンを分析し、予測モデルを構築していた。より良い関係を築くためだと思っていたが。
「やっぱり」麻衣は悲しそうに微笑んだ。「私は慎一くんにとって、研究対象なのね」
「それは違う」慎一は慌てて手帳を閉じた。「君は大切な—」
「大切?」麻衣は首を振った。「私の価値も計算で決めたの?効率的な恋愛関係の維持?」
その瞬間、慎一は言葉を失った。
確かに、彼は恋愛関係すら論理的に分析していた。最適な会話頻度、デートの効率的なプランニング、感情的衝突の回避方法—すべてを数値化していた。
「違う、そうじゃない。君への感情は本物だ」
「感情?」麻衣の瞳に失望が浮かんだ。「慎一くんが感情について語るなんて、皮肉ね」
沈黙が流れた。
レストランの雑音だけが響いている。慎一は何を言えばいいのかわからなかった。
「ねえ、慎一くん」
麻衣が静かに口を開いた。
「私がここにいる理由、わかる?」
「研究費審査の結果を聞くため—」
「違う」麻衣は首を振った。「おばあちゃんが死にそうな時に、私が一番頼りにしたい人に会いに来たの」
慎一の胸が痛んだ。
「私は怖かった。大切な人を失う恐怖に震えてた。だから慎一くんに会えば、きっと支えてもらえると思った」
麻衣の涙が頬を伝っていた。
「でも、慎一くんは私の恐怖を『非合理的』って言った。私の悲しみを『化学反応』って呼んだ」
「麻衣...」
「計算できない私の気持ちに、価値はないの?」
その問いかけに、慎一は答えられなかった。
「方程式だけが世界じゃないよ、慎一くん」
麻衣は立ち上がった。
「人の心だって、大切な要素なんだよ」
「待ってくれ」慎一も立ち上がった。「話し合おう。論理的に解決策を—」
「もういい」
麻衣は振り返らなかった。
「三年間ありがとう。慎一くんの研究が成功することを祈ってる」
「麻衣!」
慎一は追いかけようとしたが、足が動かなかった。
彼は理解できなかった。なぜ論理的な説明が受け入れられないのか。なぜ感情的な反応を優先するのか。
一人になったテーブルで、慎一は手帳を開いた。
**麻衣の行動パターン分析**
**感情的反応の予測モデル**
**効率的コミュニケーション戦略**
すべてが色褪せて見えた。
これらの分析は、麻衣を理解するためではなく、コントロールするためのものだったのかもしれない。
「方程式だけが世界じゃない...」
麻衣の最後の言葉が、慎一の心に深く刻まれた。
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**現在、ネクシスの部屋**
回想を終えた慎一は、深いため息をついた。
あの別れから二ヶ月。彼はさらに研究に没頭し、人間関係を避けるようになった。そして運命的な実験事故が起きた。
「計算できない気持ち...」
窓の外で、東の空が薄っすらと明るくなり始めていた。
選択の時が近づいている。
その時、扉がノックされた。
「田村慎一殿、おはようございます」
コルヴァンの声だった。
「もうそんな時間ですか」
慎一は窓を見つめながら答えた。異世界の夜明けは、地球とは違う美しさがあった。
「一晩考えて、答えは出ましたか?」
コルヴァンが部屋に入ってきた。その後ろに、テクニカとエルダも続いた。
「皆さんで来られたのですね」
「はい。あなたの答えを聞かせていただきたく」
慎一は三人を見回した。
テクニカの冷静な瞳、エルダの温かい眼差し、そしてコルヴァンの慈愛に満ちた表情。
「その前に、一つ質問があります」
慎一は立ち上がった。
「前任者のヴォイダスという方は、なぜ失踪されたのですか?本当の理由を教えてください」
三人の表情が曇った。
「それは...」コルヴァンが口ごもった。
「私と同じタイプだったのでしょう?論理偏重で、完璧主義で」
「そうです」テクニカが答えた。「ヴォイダス様は、論理的思考においては史上最高の管理者でした」
「では、なぜ失踪を?」
「...理由はいくつか考えられますが」エルダが悲しそうに答えた。「最も可能性が高いのは、完璧すぎたからです」
「完璧すぎた?」
「はい」コルヴァンが続けた。「ヴォイダス様は、すべてを論理で解決しようとされました。しかし、世界には論理では割り切れないものがあります」
慎一の心に、麻衣の言葉が蘇った。
『方程式だけが世界じゃないよ』
「感情、ですね」
「その通りです」エルダが頷いた。「最後の頃のヴォイダス様は、私たちの心を理解することができなくなっていました」
慎一は沈黙した。
それは、麻衣との関係でも起きていたことだった。
「私も同じ道を歩むかもしれません」
「いえ」コルヴァンが首を振った。「あなたには、ヴォイダス様にはなかったものがあります」
「何ですか?」
「自分の不完全さを認める勇気です」
慎一は驚いた。
「昨夜、あなたは『自分の価値を証明したかった』と言われました。それは、自分に不安があることの証拠です」
「不安は弱さではないのですか?」
「いえ」エルダが微笑んだ。「不安は、成長への入り口です」
慎一は考えた。
確かに、彼は不安だった。自分が本当に管理者にふさわしいのか、また麻衣のような大切な人を失うのではないか。
「私の答えは—」
慎一は三人を見つめた。
明けゆく空の向こうに、新しい一日が始まろうとしていた。
## 次回予告
**第 5 話「孤独な探求者」**
慎一の回想は最終段階に入る。麻衣との別れの後、彼はさらに孤立を深めていった。深夜の研究室で一人、誰にも理解されない理論を追求し続ける姿。
しかし、その孤独の中でも、真理への純粋な渇望は燃え続けていた。実験データの異常値に気づきながらも、既存の理論に固執する姿が描かれる。
そして現在—
「私の答えは...」
慎一の選択が、多元宇宙の運命を左右する。
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## 後書き
第 4 話では、物語の核心テーマ「論理と感情の対立」が、麻衣との別れを通じて鮮明に描かれました。
祖母の死という人生の重要な局面で、慎一の論理偏重がいかに他者を傷つけるかを詳細に描写しました。麻衣の「方程式だけが世界じゃない」という言葉は、今後の物語全体を貫く重要なメッセージとなります。
また、ヴォイダスの失踪理由が「完璧すぎたから」という説明により、慎一の不完全さが希望であることが明確になりました。
次回は慎一の過去編の最終回として、彼の孤独な研究生活と、ついに下される重要な選択が描かれます。