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第 36 話「揺らぐ信念」

ヴォイダスが去った後、統合評議会議事堂には重い沈黙が続いていた。


慎一は議事堂の窓際に立ち、七つの世界への門を眺めていた。どの門も激しく歪んでいる。現実の崩壊が、目に見える形で進行していた。


「田村管理者」


エルダが慎重に近づいてきた。


「お気持ちは分かります。しかし、あの人の言葉に惑わされては...」


「惑わされている?」


慎一が振り返った。その表情は、これまで見たことがないほど苦悩に満ちていた。


「エルダさん、ヴォイダスの論理に、何か間違いがありましたか?」


エルダは言葉に詰まった。


「それは...」


「数学的に考えて、彼の主張は正しいのです」


慎一は手帳を開いた。そこには、ヴォイダスとの対話の内容が几帳面に記録されていた。


「幸福の持続時間:平均数年から数十年」


「苦痛の持続時間:幸福を失った瞬間から死ぬまで」


「論理的結論:存在しない方が、統計的に苦痛が少ない」


「やめてください」


エルダが慎一の手帳を閉じた。


「そんな計算で、生きることの価値は測れません」


「でも、測れるのです」


慎一は静かに答えた。


「私は物理学者です。すべてを数値化し、論理的に分析するのが私の仕事です」


「そして、その分析結果が示すのは...」


慎一の声が震えた。


「存在することの非効率性です」


テクニカが割り込んできた。


「田村管理者、それは極端すぎます」


「極端?」


慎一がテクニカを見つめた。


「あなたは技術者として、効率性を重視するはずです」


「ヴォイダスの提案は、究極の効率化ではありませんか?」


「苦痛というバグを完全に除去する、最終的なアップデートです」


テクニカは困惑した。慎一の論理は確かに筋が通っているが、何かが根本的に間違っている。


「でも...それでは、喜びも消えてしまいます」


「喜びは副作用に過ぎません」


慎一は冷静に答えた。


「主効果は苦痛の除去です。副作用である喜びの消失は、主効果の利益に比べれば些細な問題です」


マーカスが立ち上がった。


「田村よ、お前は何を言っているんだ?」


「論理的事実を述べているだけです」


慎一は振り返った。


「マーカスさん、あなたは戦士として多くの死を見てきたはずです」


「戦場で苦しみながら死んでいく兵士たちを」


「その時、『最初から生まれてこなければ良かった』と思ったことはありませんか?」


マーカスは言葉を失った。確かに、そう思ったことは何度もあった。


「それが、ヴォイダスの慈悲なのです」


慎一は続けた。


「私たちは、愛する人々に苦痛を与え続けています」


「希望を持たせ、努力させ、そして最終的には失望させ、死なせる」


「それが、愛でしょうか?」


議事堂の空気が重くなった。


慎一の言葉は、論理的には完璧だった。反論の余地がない。


「私の統合理論も、結局は同じです」


慎一は自分の手帳を見つめた。


「問題を解決しても、新しい問題が生まれる」


「調和を実現しても、新しい対立が発生する」


「一時的な改善に過ぎません」


「根本的解決は、ヴォイダスが示した道しかないのかもしれません」


「田村管理者!」


アズライトが立ち上がった。


「あなたの論理には、重大な欠陥があります」


「どのような欠陥ですか?」


「前提条件の設定が間違っています」


アズライトは冷静に分析した。


「あなたは『苦痛の最小化』を最優先目標に設定している」


「しかし、なぜそれが最優先なのですか?」


慎一は困惑した。


「苦痛は悪いことです。当然、最小化すべきでしょう」


「それは、価値判断です」


アズライトが指摘した。


「論理ではなく、感情的な価値観です」


「なぜ『苦痛の最小化』が『喜びの最大化』より重要なのか、論理的根拠はありません」


慎一は答えに窮した。確かに、なぜ苦痛の回避を優先するのか、説明できない。


「それは...」


「つまり、ヴォイダス様の論理も、あなたの論理も、どちらも価値観という感情的要素に基づいているのです」


「完全に論理的な判断など、存在しません」


ユーリエが穏やかに付け加えた。


「自然界を見てください」


「どの生命も、苦痛があっても生きようとします」


「それは、生きることに価値があると『感じている』からです」


「論理ではなく、感情による選択です」


慎一は混乱していた。


今まで、論理が感情より優れていると信じてきた。しかし、その論理の根底にも、感情的な価値判断があるというのか?


「では、何を信じればいいのですか?」


慎一は茫然として呟いた。


「論理も感情も、どちらも不完全だというなら」


「私の統合理論も、意味がないではありませんか」


コルヴァンが口を開いた。


「田村慎一殿、あなたは重要な発見をしました」


「発見?」


「完全なるものは存在しない、ということです」


コルヴァンの声は優しかった。


「論理も、感情も、どちらも不完全です」


「しかし、不完全だからこそ、統合する価値があるのです」


「不完全なもの同士を統合して、より良い解決策を見つける」


「それが、真の統合理論なのではありませんか?」


慎一は考え込んだ。


確かに、完璧を求めて一つの方法に固執するより、不完全でも複数の方法を組み合わせる方が、現実的な解決策が見つかるかもしれない。


「でも」


慎一はまだ不安だった。


「ヴォイダスも、最初は私と同じことを考えていたのです」


「統合による解決策を模索していました」


「それでも、最終的には虚無に至った」


「私も、同じ道を歩むのではないでしょうか?」


その時、緊急警報が響いた。


「管理者!大変です!」


通信担当者が駆け込んできた。


「ナチュリア世界の境界安定度が 5%まで低下しました!」


「このままでは、一時間以内に完全消滅します!」


議事堂に緊張が走った。


統合評議会の全メンバーが慎一を見つめている。


今、決断が必要だった。


しかし、慎一の心は揺れ続けていた。


自分の判断は正しいのか?


統合理論は意味があるのか?


それとも、ヴォイダスの言う通り、すべては無意味な足掻きなのか?


「管理者、指示をお願いします」


担当者が催促した。


世界が一つ消滅しようとしている。


何万もの生命が、失われようとしている。


「私は...」


慎一は決断しようとしたが、言葉が出なかった。


もし救済に失敗したら、その責任は自分にある。


もし救済に成功しても、やがて新しい苦痛が生まれるだけかもしれない。


どちらが正しいのか、分からない。


「田村管理者」


エルダが慎一の手を握った。


「完璧な答えなど、誰も知りません」


「でも、今この瞬間、苦しんでいる人々がいます」


「その人たちを救うことは、間違いですか?」


慎一はエルダの瞳を見つめた。


その瞳には、迷いがなかった。


完璧な論理も、完璧な感情もない。


しかし、目の前の人を助けたいという想いは、確かに存在している。


「分かりました」


慎一は立ち上がった。


「ナチュリア世界の救出作戦を開始します」


「論理的に正しいかどうかは、分かりません」


「でも、今できることをやります」


統合評議会のメンバーたちが動き出した。


慎一の迷いは消えていない。


ヴォイダスの予言は、まだ心の奥に刺さったままだ。


しかし、目の前の現実から逃げることはできない。


不完全でも、今できる最善を尽くすしかない。


それが、ヴォイダスとは違う道なのかもしれない。


救出作戦の準備が始まった。


しかし、慎一の心の奥では、不安が渦巻き続けていた。


この選択は、本当に正しいのだろうか?


---


## 次回予告


**第 37 話「決意の再確認」**


ナチュリア世界の救出作戦が始まった。しかし、現地の状況は予想以上に深刻だった。


「森全体が、まるで生命力を吸い取られているようです」


ユーリエの故郷で起こっている異常現象。それは、ヴォイダスによる存在論的攻撃の新たな段階だった。


「これは...意図的に世界を苦痛で満たし、住民に絶望を与える実験です」


慎一たちが発見したのは、ヴォイダスの恐ろしい計画の一端だった。


「苦痛の増大により、住民たちに『存在しない方がマシ』と思わせるのが目的です」


揺らぐ信念の中で、慎一は新たな決意を固めていく。


「それでも、私は諦めません」


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