第 3 話「理論と現実の溝」
七つの月が輝く異世界の夜空を見つめながら、慎一は自分の過去を振り返っていた。
選択を迫られている今、彼の人生を決定づけた出来事が鮮明に蘇ってくる。
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**三ヶ月前、東京大学研究費審査会**
「田村君の多元宇宙理論について説明してもらえるかな」
審査委員長の voice が響く会議室で、慎一は立ち上がった。プロジェクターには彼が三年間をかけて構築した理論の概要が映し出されている。
「はい。私の理論は、従来の物理学が前提としてきた『単一宇宙モデル』に根本的な疑問を投げかけるものです」
慎一の声は落ち着いているが、内心では興奮していた。この瞬間のために、彼は人生のすべてを捧げてきた。
「具体的には、量子力学の観測問題を解決するため、『多世界解釈』をさらに発展させ、互いに独立した物理法則を持つ複数の宇宙が並存するモデルを提唱します」
審査委員の一人、物理学部の木村教授が手を上げた。
「田村君、それは興味深い理論だが、実証可能性はあるのかね?」
「もちろんです」
慎一は眼鏡を押し上げ、新しいスライドに切り替えた。
「私が設計した実験装置により、次元間の境界面を観測することが可能になります。データによれば—」
「データ?」
別の審査委員、応用物理学の田所教授が割り込んだ。
「君の理論に基づいたシミュレーションデータだろう?それは仮説の上に仮説を重ねただけではないかね」
会議室の空気が重くなった。慎一は深呼吸し、冷静に応答した。
「田所教授、それは論理的な誤謬です。すべての科学理論は仮説から始まります。アインシュタインの相対性理論も、最初は思考実験でした」
「しかし相対性理論は実用的な応用がある。GPS 衛星、原子力発電...君の理論に実用性はあるのかね?」
その質問に、慎一は一瞬言葉に詰まった。
確かに、彼の理論は純粋に学術的な興味から生まれたものだった。実用性を考えたことはなかった。
「実用性...」
慎一は手帳を開き、ペンを握った。彼の癖だった。論理的に答えを構築しようとしている時の行動だ。
「実用性という観点からお話しします」
慎一の瞳に、研究者としての情熱が宿った。
「もし私の理論が正しければ、人類は宇宙の真の構造を理解できます。それは、ニュートンが運動法則を発見した時、マクスウェルが電磁気学を完成させた時と同じ意味を持ちます」
「それは理想論だ」田所教授が首を振った。「研究費は限られている。より現実的な研究に投資すべきではないかね」
その瞬間、慎一の中で何かが燃え上がった。
「現実的?」
彼は手帳を閉じ、審査委員たちを見渡した。
「では、論理的に説明しましょう。現在の物理学が抱える根本的矛盾を」
慎一はホワイトボードに向かい、数式を書き始めた。美しく、流れるような文字で複雑な方程式が記されていく。
「量子力学と一般相対性理論の統合問題。暗黒物質の正体不明。宇宙の平坦性問題。これらすべてに、既存の『現実的』な理論は答えを出せていません」
審査委員たちが注目し始めた。慎一の論理展開が、シャーロック・ホームズのような鮮やかさを見せ始めたからだ。
「しかし、多元宇宙モデルを導入すれば、これらの問題は自然に解決されます」
彼は数式の一部を囲んだ。
「この項が示すのは、観測されない平行宇宙からの重力的影響。これが暗黒物質の正体です」
「次に、この係数。これは宇宙の平坦性を保つバランス項。複数宇宙の相互作用によって自動的に調整されます」
木村教授が身を乗り出した。
「なるほど...確かに数学的には美しい解法だ」
「そして最も重要なのは、これです」
慎一は新しい方程式を書いた。
「多元宇宙間のエネルギー移動方程式。もしこれが実証されれば、エネルギー問題の根本的解決につながります」
田所教授の表情が変わった。
「エネルギー移動...まさか、他の宇宙からエネルギーを取り出すというのかね?」
「理論的には可能です。ただし、現在の技術では観測すらできませんが」
審査委員たちがざわめいた。慎一の理論が、単なる空想ではなく、将来的な実用性を秘めていることが理解されたのだ。
「しかし」
審査委員長が口を開いた。
「君の理論を理解できる研究者は、この大学に何人いるかね?」
慎一は困惑した。
「理解...ですか?」
「君の説明は確かに論理的だった。しかし、それを他者に伝え、協力を得る能力はあるのかね?研究は一人では完成しない」
その指摘は、慎一の急所を突いていた。
彼は優秀だった。論理的思考では誰にも負けない自信があった。しかし、他者との協調、感情的なコミュニケーションは苦手だった。
「私は...論理的に説明すれば、理解していただけると思っていました」
「論理だけでは人は動かない」
審査委員の一人、心理学部の鈴木教授が優しく言った。
「研究への情熱、チームワーク、そして何より、なぜその研究が重要なのかという『想い』を伝える必要がある」
慎一は沈黙した。
確かに、彼は自分の研究に情熱を注いでいた。しかし、それを他者に伝える術を知らなかった。感情的な説明は「非論理的」だと考え、避けてきた。
「研究費の承認は保留とします」
審査委員長が結論を述べた。
「田村君の理論は興味深いが、実現可能性と協調性に課題がある。半年後、改めて審査を行います」
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**現在、ネクシスの部屋**
回想から現実に戻った慎一は、深いため息をついた。
あの審査会の後、彼はさらに孤立していった。理論の完成度を上げることに集中し、人との関わりを避けるようになった。
そして、麻衣との関係も悪化していった。
「論理だけでは人は動かない...か」
窓の外から、話し声が聞こえてきた。統合評議会のメンバーたちが慎一について話し合っているようだった。
「また論理偏重の管理者候補ですか?」
テクニカの冷静な声が響いた。
「前任者のヴォイダス様も、優れた論理的思考をお持ちでした。しかし結果は...」
「でも、彼の瞳には純粋さがありました」
エルダの温かい声が反論した。
「ヴォイダス様も最初は理想に燃えていらっしゃいました。きっと田村様は違うはずです」
「理想だけでは統治はできん」
別の声が加わった。マーカス・ドラコノフだった。
「多元宇宙の平和には、時として厳しい決断が必要だ。感情に流されない冷静さも重要になる」
「しかし、感情を理解できなければ、人々の心は離れていきます」
今度はユーリエの声だった。
「自然の調和は、論理と感情の両方から生まれるものです」
慎一は複雑な気持ちでその議論を聞いていた。
彼らは正しかった。論理だけでは不十分だった。しかし、感情的なアプローチは、彼にとって最も苦手な分野だった。
「前任者...ヴォイダスという方は、本当に私と同じタイプだったのだろうか」
慎一は手帳を開き、今日得た情報を整理し始めた。
**統合評議会の構成:**
- 首席長老:コルヴァン(秘密を隠している)
- 技術長老:テクニカ(論理的、実践重視)
- 調停長老:?(まだ未登場)
- 七世界代表者:エルダ(アルディア)、マーカス(ドラコニア)、ユーリエ(ナチュリア)他
**前任者ヴォイダスについて:**
- 優れた論理的思考
- 理想主義者(少なくとも初期は)
- 500 年前に失踪
- 失踪理由は不明
「なぜ失踪したのか...」
その疑問が、慎一の心に深く刻まれた。
もし自分が管理者になったとして、同じ道を歩むことになるのだろうか?
扉がノックされた。
「田村慎一殿、入ってもよろしいですか?」
コルヴァンの声だった。
「はい、どうぞ」
扉が開き、コルヴァンが一人で入ってきた。その表情には、深い悩みが刻まれていた。
「お聞きになっていたでしょう。私たちの議論を」
「ええ。皆さんが私を心配してくださっているのはわかります」
「田村殿」コルヴァンは慎一の前に座った。「率直にお聞きします。あなたは、なぜ研究を続けてこられたのですか?」
慎一は考えた。それは彼にとって根本的な問いだった。
「真理を知りたかったからです。宇宙の本質を理解したかった」
「それだけですか?」
「それだけ...」慎一は言いかけて、止まった。
本当にそれだけだっただろうか?
「いえ、違います」
慎一は素直に答えた。
「私は...人に認められたかった。自分の価値を証明したかった。そして、世界をより良い場所にしたかった」
コルヴァンの瞳に、温かい光が宿った。
「それこそが、あなたがヴォイダス様と違う点です」
「どういう意味ですか?」
「ヴォイダス様は、完璧な論理によって完璧な世界を作ろうとされました。しかし、完璧すぎて、不完全な存在である私たちの気持ちを理解できなくなってしまった」
コルヴァンは窓の外を見つめた。
「あなたには、まだ迷いがある。不完全さがある。それこそが希望なのです」
慎一は心の奥で、何かが動くのを感じた。
選択の時が、近づいていた。
## 次回予告
**第 4 話「麻衣の最後通告」**
慎一の回想は続く。研究費審査会の後、さらに孤立を深めた彼に、恋人・麻衣が最後の機会を与えていた。祖母の死という人生の重要な局面で、慎一は決定的な失言をしてしまう。
「感情的になっても祖母は戻らない。論理的に考えよう」
その言葉が、三年間の関係を終わらせた。
「慎一くん、計算できない私の気持ちに価値はないの?方程式だけが世界じゃないよ」
一方、現在のネクシスでは—
「明日が最後の夜です。どちらを選ぶのでしょうか?」
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## 後書き
第 3 話では、慎一の過去をより深く掘り下げ、彼の能力と限界を浮き彫りにしました。
研究費審査会のシーンでは、慎一の論理的思考の鋭さとプレゼンテーション能力を描写する一方で、他者との協調性や感情的コミュニケーションの欠如という致命的な弱点も明確にしました。
また、統合評議会メンバーたちの議論を通じて、前任者ヴォイダスとの比較や、慎一への期待と不安を表現しました。
コルヴァンとの対話では、「不完全さこそが希望」という重要なテーマが示唆され、今後の成長への道筋が見え始めています。