喪失──イルタ
徒歩で丘を越え、村の外れに着いたときには、太陽は東の空に高く昇っていた。
ちょうど小川に水を汲みに来ていた女たちが、イルタとトーリを不思議そうに見た。いつもの行商人とか近くの村の住人とか……以外の訪問者なんて、滅多にない小さな村だから、当然だろう。
イルタは女たちに、にこり、と笑った。
六年も経ったのだから、みんなそれぞれ変わっている。とても変わった人もいるし、あまり変わってない人もいる。でも、誰が誰なのか、ちゃんとわかる。だから、みんなだって、私が誰かすぐにわかるはずだ──そう思ったのだけれど。
村の女たちは黙ってイルタを見ていた。イルタとトーリを交互に、どちらに対しても同じように戸惑いの目で。
イルタも少し戸惑う。──私が誰かわからない? 確かに、私、変わったかもしれない。背も髪も伸びた。もう頬のふっくらした子どもじゃない。でも……。
女たちの中に、仲良しだったメリを見つけて、急いで名前を呼んだ。
「メリ!」
メリが驚いたように一歩下がる。
「サロのおばさん! アイカ! ルミさん! ただいま」
イルタは女たちの名前を次々に呼んだ。腕を広げ、彼女たちに近寄ろうとした。
ずい、と女たちの前に出て、立ち塞がったのは『サロのおばさん』だった。探るようにイルタを見た。
「どなたさんかしら?」
……冗談だと思った。こんなときに、笑えない冗談。ううん、こんな突然にイルタが帰ってくるなんて、きっと意外過ぎて信じられないんだ。
「イルタよ」
それでみんな笑うと思った。驚いて、笑って、そうして自分を抱き締めてくれると。
女たちは顔を見合わせ、はっきりと不審そうなまなざしをイルタに向けた。
「……それで後ろの人は?」
身構えるように尋ねられて、イルタの心が揺れる。──後ろの人? 私は? イルタが帰ってきたのよ?
トーリがイルタの後ろで落ち着いて質問に答えていた。
「従者です。この方は王国の特別な兵士なので」
「特別な……兵士」
サロが繰り返し、あわてて手にした桶を置いた。彼女に続き、他の女たちも次々と膝を折った。
「とんだ失礼を。特別な兵士様が、こんな辺鄙な村に何の御用でいらっしゃいますか」
「……イルタよ?」
もう一度、イルタは言った。声は弱々しかったけど、女たちの耳には届いたはずだ。でも、誰も伏せてしまった顔を上げない。
背後でトーリが大きく息を吸い込むのがわかった。トーリの手が、何かを伝えようとするように、イルタの腕をつかむ。
だが、そのとき、イルタは見つけていた。小川へと歩いてくる、自分と同じ銀色の髪の──。
「エイレン!」
トーリの手を振りほどいてイルタは叫ぶ。エイレンが驚いたようにこちらを見る。
エイレンに向かって走り出す前に、イルタはトーリをちらっとふり向いた。勝ち誇る気分で。──ほら、エイレンは対価になんかなっていない。村で元気で暮らしているわ。嘘つき。やっぱり、あなたはただの反逆者よ。
駆け寄って抱き締めると、エイレンはイルタの勢いに押されてよろめいた。別れたときはエイレンを見上げていたけれど、今は自分の方がちょっぴり背が高いみたいだ。
いったん体を離して姉に話しかけようとしたら──イルタはいきなり突き飛ばされた。
エイレンに。
突き飛ばされて、イルタは後ろへ下がった。エイレンは持っていた桶を落として身を縮め、何か気味悪いものでも見るようにイルタを見た。
その唇が、
「……誰?」
と、動いた。イルタに向かって。
何を言われているのかわからなかった。──私、そんなに変ってしまった? 私は、一目でエイレンだとわかったのに。
それともこれは何かの術? ──イルタはハッとして肩越しにトーリに目をやる──まさか、トーリが何かした?
トーリの顔はフードにほとんど隠れている。それだけ見える唇は、きつく引き結ばれていた。何だか……苦々しく。
エイレンへと目を戻すと、メリがエイレンに駆け寄っていた。メリは急いでエイレンの腕を引く。
「王国の特別な兵士様よ、エイレン」
早口で囁かれ、エイレンは大きく口を開けた。腕を引っ張られるまま、メリと一緒に地面に膝をつき、おどおどと顔を伏せた。
「すみません。あの、知らなくて」
イルタも膝をつこうとした。エイレンの前に。が、トーリの手が強く腕をつかんで、それをさせなかった。
「立ってください。何でもありません。水を分けていただこうと立ち寄っただけです」
トーリの言葉に、エイレンとメリがほっとした様子で目と目を見交わせた。メリが素早く立って小川に走り、桶に水を汲んだ。トーリはそのあとについていってメリが傾ける桶から水入れに水を受ける。
その間、イルタはエイレンを見つめていた。エイレンはどうしたらいいかわからないようにイルタと目を合わせないように視線をさまよわせていたけれど。
「エイレン」
小川の横で膝をつく女たちの中に、小さく鋭く名前を呼ぶ者がいて、エイレンは弾かれるように立ち上がった。逃げるようにイルタの前から走り去って、女たちの中に身を埋めた。
イルタは、ただ、混乱する。わからない。どうしてエイレンが私から逃げるの。なぜ誰も私を抱き締めてくれないの。
トーリが戻ってきたので、にらみつけた。他に理由は思い当たらない。トーリが何かした、としか思えない。火竜の力か、祝福か、とにかく不思議な力で、村のみんなを操ってしまうとか、私のことを忘れさせてしまうとか。
フードの下の唇が動こうとして、もう一度結ばれた。何か言おうとしたが、ためらったように見えた。
イルタはトーリをにらみ続けた。そうしていなければ、ある恐ろしい考えが心にせり上がってきそうだった。
長い──イルタにとってはとても長い沈黙のあと、トーリの唇からようやく言葉が発せられた。
「対価だ、イルタ」
心が凍った。やっぱり、と思った自分がいた。精霊と契約するためには契約者にとって大切なものが対価として失われるというトーリの話。
──私にとって、大切なもの。エイレンが、村のみんなが私を愛してくれているということ。だから、私、いろんなこと、がんばれたのに。
──辛くてもさみしくても、我慢してがんばれば、みんなを守れると思っていた。私が愛していて、私を愛してくれる人たちを。
トーリがイルタの腕を取った。村の女たちに会釈して、歩き始める。
自分が倒れないのが不思議だった。村の女たちに目をやると、みんな、膝をつき、頭を下げ続けていた。
エイレンの銀色の髪が、女たちの頭と肩の隙間に、少しだけ見えた。
腕を引かれて、イルタも歩き始める。目はエイレンたちに向けたまま。
イルタとトーリが丘を下ってみんなが見えなくなるまで、女たちはずっと顔を上げなかった。