本当──トーリ
「姉さんは、対価になってなんかいないわ。いつも手紙をくれるもの」
虚を衝かれた。──姉さん?
イルタが最初の契約者だという想像はしていなかった。有り得ることだったのに。それから、イルタの言葉がゆっくりとトーリの心に落ちていく。姉さんが、手紙をくれる──? イルタの気持ちを考える前に、口が動いていた。
「手紙なんか、誰でも書ける。あんたは、契約してからあと、姉さんに会ったことがあるのか?」
初めて、イルタの顔に動揺が浮かんだ。
自分がはっきり言い過ぎたことを感じた。同時に、この子を騙すなんて簡単だろう、とも思った。精霊と契約してサルミアを守る、なんてきれい事を信じるくらいだ。姉のことは適当に誤魔化して、いよいよ誤魔化しきれなくなったら病気で亡くなったことにでもすればいい。
ああ、俺に──火竜の契約者に殺された、って設定もいいかもしれない。イルタはサルミアの正義と姉の仇討ちのために、必死に俺を追っただろう。
腹が立ち過ぎて、笑いたいくらいだった。
「俺が適合者をセルヴィへ連れてくのは、その子の家族が死ぬかもしれないから、だ」
と、トーリは吐き捨てる。
「無理やりにさらっているわけじゃない。契約がどういうことか話して、一緒に来ないか、って誘うんだ。みんな、泣くけど、セルヴィへ行くことを選ぶよ。一生家族や友達に会えなくなるのは辛いけど、自分の好きな誰かが死ぬよりはマシだろう?」
トーリは大きく息を吐く。イルタに尋ねた。
「あんた、俺が父親を殺した、って聞かされたんだよな」
尋ねる、というより、確認かもしれない。イルタがためらいながらも頷くのを見て、続けた。
「なぜ、国民にはそれを公表しない? イルタだって知っているんじゃないか? ──国民の中には俺が現れることを密かに期待している者だっている、って。……国を守るためだからって、十にもならない子どもたちが否応なく連れてかれるのに同情して、反逆者に共感を覚えるやつらがいる。そんなやつらも、父親殺しと聞けば、火竜の契約者から気持ちが離れるかもしれないのに?」
イルタは何も言わない。ただトーリを見つめる。
それで、トーリは自分の問いに自分で答える。火竜の契約者が父親を殺したと、なぜ、国民には教えないのか。
「……情報を出したくないんだよ。すべての魔法術師が王に仕えているわけじゃない。その辺の町や村にも優れた魔法術師がいることがある。その中の誰かが気づくかもしれない、契約の方法に。父親を殺したのは契約者じゃなくて、火竜の方じゃないか、って。契約には対価が必要なことが国民に知られたら、まずいだろう?」
周囲にはわずかな星明かりしかなかったけれど、イルタの顔が青ざめていくのはわかった。俺の話を理解して……ショックを受けているんだろうか。
「……さっきキスしたことは、謝るから」
謝ってしまった。キスしたあとのその場のノリで、ごめんどうしようもなくて、なんてセリフを薄っぺらく唇にのせたことはあったけれど、ホントに謝ったのは初めてだった。
「ごめん。謝るから、一緒にセルヴィに来ないか。……もう何もしないから」
すぐに返事はできないだろう、とは予想していた。だから、待った。イルタが気持ちを決めて口を開くのを。
イルタは長い時間トーリを見つめていた。ようやく出たのは、かすれ声。
「もう、遅いわ」
それはそうだな、とトーリも思った。もう遅い。イルタが契約者だってことは、すでに対価は支払われているということだ。たぶん、姉さんの命が。
「……それでも、姉さんを対価にしたやつらのために働くよりはいいんじゃないか、と思ってさ。イルタなら、湖水の民も精霊たちも喜んで受け入れてくれる」
そう言ってまた少し待ったが、やっぱり返事はない。
仕方ないか、と思った。イルタはこれまで連れ去ってきた子どもたちとは違う。時間をかけて教え込まれただろう王国の正義を反逆者から否定され、こっちを信じろ、と言われたって、そんなに簡単に考えを変えることはできないだろう。
それに……本当は、トーリも自分が正しいと信じているわけではなかった。契約者がつくられたと風に聞いたとき、最初は立ち竦んだだけだった。そのときトーリは十をちょっと過ぎたばかりの子どもだったし、湖水の民との静かな暮らしは心地よかったし。
風はトーリの知りたいことを都合よく教えてくれるわけではなかったけれど、また人間が精霊と契約したよ、なんて囁きがそのあとも何度も耳をかすめていった。何かするべきなのか、自分に何かできるのか、このまま静かな暮らしを続けるか、迷いつづけて、動こうと決意したときには季節が幾つも変わっていた。
動こう、と決めたのだって、正義感の類からではない。ただ、自分と同じ思いをする子どもがつくられるのが、やっぱり、どうしても、嫌だった。
イルタにそんな自分の感情を押し付けることはできない、けれど。
「俺はもうタイミへ行くよ」
立ち上がると、イルタは驚いたようにトーリを見上げた。
「俺の話が信じられないのはいいけど、姉さんのことは、自分でちゃんと調べろよ。風の妖精を使えば、難しいことじゃないだろう?」
それで、どうするか、自分で考えて決めればいい──と思ったのだけど。
「か、風の妖精は、サルミアのためにだけ使えるのよ。私ごとに使うなんて、許されない」
反射のように返った答えに、トーリは目を開いてイルタを見てしまった。そんなふうに教えられているのか。イルタのために何かしたいような気持が胸の奥で動いたけれど……。
トーリは小さく息を吐いてイルタから目を逸らした。イルタに背を向ける。歩きはじめる。
「待って」
後ろで、イルタも立ち上がっていたが。
──待つわけがないだろう。
イルタの肩の辺りにいた風の妖精が姿を消していた。伝令として軍に飛ばしたということだ。火竜の契約者を見つけた、と。兵士が駆けつけるのが怖いわけではないが、いちいち相手をしてやる義理はない。
泉を離れてマントを拾うトーリを、イルタがあわてたように追ってきた。腕をつかまえ、尋ねてきた。
「あなた、な……何とも、ないの?」
質問の意味がわからなかった。トーリは答えるかわりに眉を寄せてやる。
「だって、あの……あたしの水、飲んだわよね?」
水? ──そう言われて、ようやく思い当たる──さっきの、水入れの水のことか? ひょっとして、何か、入っていたのか? でも、あの水はイルタも飲んだ。……ああ、そうか、自分が飲んだあと、水入れに蓋をしようとする素振りで何かを入れて、それから俺に渡したのか。もう遅い、って、そういう意味か。
「毒? 入れた?」
気づかなかった。イルタを見くびって油断していたことに背中がひやっとしたけれど、
「痺れ薬」
正直に答えが返って、トーリの体から力が抜ける。
「……あんたさ、ドラゴンに薬とか毒とか、効くと思うの?」
「効かないの?」
「効かないよっ」
「で、でもっ! あなたは人間じゃない。いくら火竜と契約していても──」
「違うんだよ。俺は。あんたたちとは」
イルタも含めて何人かの契約者を見たことはある。みんな、ホントに小さな妖精を使い走りにしている程度だった。──だが、俺は違う。
「あの人──ラッシの魔法術が凄かったのか、俺がもともと祝福者だったからなのか、理由は知らない。けど、俺は身の内に火竜がいるんだ。火竜と同等の力がある」
言ってしまってから、トーリは自分に舌打ちした。敵に情報くれてやってどうする。それでなくても、今回のことで現在の自分の容姿はサルミア軍に正確に伝わってしまうわけなのに。これからはサルミアで動くときは変装しなくてはならない。
イルタが驚いたようにトーリの腕を離す。トーリは逆にイルタの手を素早くわしづかみにし、不意を衝かれて見開いた青い目に笑った。冷たくて情の薄そうな笑い方には結構自信があった。──女の子たちは、怯えた表情を浮かべるくせに、俺から目が離せなくなったりするんだ。
「あんたを焼き殺すなんて、簡単なんだ」
なあんて、脅しておけばもう追ってこないだろう。投げ捨てるように乱暴にイルタの手を離し、改めて背を向ける。
ぎゅっ。──今度は肩にかけたマントが引っ張られた。
「に……逃がさない」
ふり向くと、イルタがマントの裾を両手で握り締めている。
「……捕まるわけないだろう、おまえなんかに」
人の話を聞いていたのか、この女の子は。俺は、おまえを焼き殺す、と言ったんだぞ?
「風の妖精を飛ばしたわ。ラークソン将軍が兵を率いてくるわ」
「手の内明かすなよっ。気づいてたけどなっ。──あのさ、兵士が捕まえられないから、おまえが適合者のふりして俺を騙そうと企んだんじゃないの? もうばれたんだから、一緒に行かないなら、離せよ」
「じゃあ、私、どうしたらいいの!」
イルタの両手に、ぎゅっ、と力がこもった。
「私の任務はあなたを捕まえることで、でも、あなたそんなに悪い人に見えないし。……会ったばかりの女の子にキ……キスするなんて最低だと思うわよ? 反逆者の言うことなんて信じないわよ? あなたを捕まえたらお姉ちゃんに会えることになっているもの。でも、六年間も会ってなくて……会わせてもらえなくて、もし、お姉ちゃんが──」
最低、と言われてしまった。いろいろと言っていることは支離滅裂だったけれど、イルタのいちばんの気持ちは伝わった。要するに……。
トーリを見上げるイルタの薄青の目から、ぽろ、と涙が零れた。
「あたし、お姉ちゃんに会いたい」
──そういうことだ。
ずっと我慢してきたんだろう。姉さんに会えないことも、辛い訓練も、それが大事な人を守ることになると信じて。この女の子の心を鎧のように覆っていたその信念に、俺の話がひびを入れてしまったんだろうか?
……ふと浮かんだ考えを、トーリは心の中で一転がしして口にした。
「イルタの村、どこ?」
尋ねると、イルタは濡れた睫毛で瞬く。瞬いてこちらを見るだけなので、もう一度言う。
「連れてってやるよ。何て村?」
姉さんには……会えないと思うけど。この女の子が騙されたままでいるのが嫌だった。自分の目で本当を確かめれば、イルタだって、どうしたらいいか、どうしたいのか、考えられるだろう。
もしも、本当を知ることでイルタの心を守る鎧が砕けてしまったら、代わりにイルタのそばにいてもいい、と思った。イルタが気持ちを決められるまで。イルタが俺を嫌いなら、陰で見守っても。
イルタはしばらくぼう然と俺を見つめていた。そして、ぎこちなく首を左右に動かした。
「村は……アーム。……でも、だめよ。そんな、許可なく……勝手な行動……」
アーム──知っている。近くはないが、飛べば、夜明け前には着くだろう。
「大丈夫。火竜の契約者に無理やり連れてかれた、ってことなら、イルタは悪くない」
肩にかけていたマントを広げてイルタをくるんだ。『上』は風が冷たいから。マントをつかんでいたイルタの手からは力が抜けていたから、トーリはしっかりとマントでイルタを包むことができて。
そのあとのイルタの反応はまったく無視して、イルタを抱き上げた。泉の上の夜空に向かって強く地面を蹴った。