代償──トーリ
ため息がこぼれかけた口を、トーリは片手で押さえた。
トーリ。
自己紹介なんてしていない。するとしても、その名前は使わない。わざわざ本当の名前なんて。
少女は──そう、イルタ、だ。それもうっかり出た本名だろう──イルタはトーリの返事をじっと待っている。語るに落ちた自分の発言にも気づいていないようだ。よほど動揺させてしまったらしい。
キスしたこと、謝ろうかとも思った。だけど、しちゃったもの謝ってもな。
それよりもちゃんと話そう、と思った。こんな真面目な子が相手では。
「そう。俺が、火竜の契約者、トーリだ」
しばらくぼんやりとトーリを見つめ、イルタはあわてて自分の口を両手でおおった。いや、遅いって。心の中でつっこんでから、トーリは人差し指をイルタに向ける。
「で、あんたは──イルタ、か。王国の特別な兵士。風の妖精と契約しているな」
イルタは何も言わない。
声が出ない、か。自分が相手にしているのが火竜の契約者ということには薄々カンづけても、こちらが彼女の正体を知っているとは予想していなかったようだ。
でも、それで固まって何の行動もとれなくなってしまうなんて、随分と素人くさい子を囮に使ったものだな。トーリはちょっと呆れる。まさか、これが初仕事だなんていうんじゃないだろうな?
「……俺について何を知っている?」
声を出させてやろうと思って、質問した。思った通りの律義さで、イルタは問いに答えようと唇を動かす。
「……知らない……わ」
トーリは頷いて、質問を変えた。
「俺の父親が、初めて契約を成功させた魔法術師だってことは、知ってる?」
ぴく、とイルタの肩が動いた。あわてて首を左右に振る。
わかりやすい反応だ。次の質問をする。
「でも、ホントの父親じゃないことは?」
イルタが目を開いた。──これは知らない、と。
「で、最初に成功した契約者が、俺なんだけど。契約のとき、父親が死んだのは?」
一瞬強くトーリを見て、イルタはその視線をさっと逸らす。とても緊張しているように見えた。
「なぜ死んだか、知ってる?」
イルタは視線を外したまま答えない。
ぽん、と投げ出すように、トーリは言った。
「火竜に喰われた」
弾かれるようにイルタは顔を上げていた。
「あなたが……!」
「……俺が?」
口走った先を促すと、イルタはきっとにらんできた。トーリは笑った。
「もしかして、俺が殺した、って聞いた?」
「違うの?」
驚いて聞き返す、イルタ。ああ、まったく、木霊たちが味方するのがわかる。
「違う」
トーリはふざけた笑みを消した。ちゃんと話したいのは、ここだ。
「精霊との契約には対価が必要で、火竜が求めたのは魔法術師の命だった」
イルタは眉を寄せた。理解できないことを聞いたみたいに。
やっぱり、知らないか。
疑いを滲ませる青い目をまっすぐ見つめて、トーリは繰り返す。
「精霊と契約するには、対価が必要なんだ」
「私は風の妖精に対価なんて……」
そう言う途中で、イルタはハッと口を閉ざす。が、わずかに沈黙したあと、開き直ったのか、きっぱりと続けた。
「対価なんて求められていないわ」
「求めないよ、契約者本人にはね。魔法術師が精霊と人間を仲介して、精霊がほしがるものを対価として精霊に渡す。それが契約の儀式だ。そうやって、あの人は、俺と火竜の契約に成功したんだ」
真面目にちゃんと話そうと思ったのに、気がつくとトーリの頬には冷たい笑みが浮かんでいた。──真面目に話していられるか、こんなこと。
「精霊と契約するには、対価が必要なんだよ。契約者にとって大事な──」
……言いかけて言葉が詰まる。トーリは唇を噛んだ。七年もたつのに、まだ、思い出すと平静じゃいられなくなる。
──火竜との契約なんて承知しなければよかったのだ。あんなことになるなら。それであの人の関心を失っても、捨てられても、たとえ自分が殺されることになったとしても。
数回、深く静かに呼吸して気持ちを抑え、ふと、泉を見た。青い光はもう揺れていない。あたりにふうわりと浮いていた精霊たちの気配も消えた。あのときのことを思い出した自分の暗くて強い感情が、みんなをひっそりとさせてしまったんだろう。
……ちょっと残念な気がした。泉の青い光に柔らかに照らされたイルタの銀の髪は、本当にきれいだったから。ハッとして見つめて──うっとりしたというのも、半分くらいは嘘じゃない。
トーリはイルタのそばへと動いた。不意にだったから、イルタをびくりとさせてしまったが、トーリにはイルタに何をするつもりもない。ただ、イルタが背にした大きな木に、自分の体も支えてもらいたかった。
大きな木の太い幹はがっしりとしてほんの少し温かい。背中でもたれて頭上を見れば、葉の一枚一枚を縁取っていた淡い緑の光も失われていた。辺りは夜の深い闇に包まれている。泉の上に開けた空から降る星明かりが、泉とその周囲をわずかに照らしているだけだ。
順を追って話そう、と思った。この子がちゃんと理解できるように。
「……あの人は──魔法術師のラッシは、俺にとって大切な人間だったんだ。契約の対価になるくらいに」
ラッシに出会ったのはトーリが五つか六つのときだった。暮らしていた村に恐ろしい流行り病が出た。村は軍に封鎖され、人も家も全部焼かれた。病人はもちろん、その家族も近所の人も、住んでいた家も物置の小屋も、全部。国中に病気が広がるのを防ぐためにはしかたのないことだったのだと、トーリはあとで聞かされた。
村が燃えている間、トーリは火の中でうずくまっていた。炎が消え、焼け落ちた家から外に出ると、村を囲んでいた兵士たちが信じられないようにトーリを見た。そして、幾本もの槍が向けられた。
──なぜ生きている。
──流行り病の村の人間だ。殺せ。
トーリは一歩、二歩、後ずさることしかできなかったが。
──待ちなさい。
静かな声が兵士たちを止めてくれた。緑のローブの男だった。兵士を止めおいて、トーリに近づき、腕をとった。
──ラッシ様。触れてはいけません。流行り病の村の人間です!
兵士たちはあわてて口々に叫んだが、男はトーリに微笑んだ。トーリを兵士たちの前に押し出し、両腕をつかんで広げてみせた。
──ご覧。あの炎の中にいて、この子は火傷ひとつしていない。この子は祝福者なのだ。ああ、占いのとおりだ。ここに来れば祝福者に会えると星が教えてくれた。
男の言葉に、兵士たちは顔を見合わせ、ひとり、またひとりと槍を下ろして。
「流行り病のせいで村が焼き払われてひとりきりになった俺を、あの人は引き取って育ててくれた。──俺が祝福者だったから。あの人は精霊との契約を研究していて、祝福者なら契約が成功しやすいんじゃないか、と考えたんだ。それも、力の強い精霊との」
家族も友達もいっぺんに失くしたトーリは、優しくしてくれる魔法術師になついた。ラッシが自分に夢中なのは自分が祝福者だからだとわかっていても、自分を大事にしてくれて、子どもが遊びに熱中するように精霊を研究し、その成果を浮かれて語る、魔法術師が好きだった。
「俺は、あの人が喜ぶなら、契約者になってもいいと思った。そのせいであの人が死んでしまうなんて知らなかったから」
おそらく、ラッシ自身もそんなことになるとは予想していなかっただろう。ラッシは対価を求めた火の竜に、俺の片目を渡そうと申し出たのだから。
さすがにショックで、恐ろしくて、トーリの体は冷たくなった。同時に、やっぱりそのために自分を育ててくれていたんだな、と納得して、仕方がない、と諦める気持ちもあった。
命を助けてもらったのだから、あの人の大事な研究のためなら、片目くらいは取られても、仕方ない。
だが、火竜は俺の片目では足りないと、魔法術師の胸を破って心臓を喰ったのだ。
ラッシの断末魔の声を聞いて、扉の向こうで儀式の成功を待っていた弟子や護衛の兵士たちが部屋になだれ込んだ。ラッシの心臓の血を浴びてぼう然と立つトーリを見て悲鳴を上げ、トーリに向かって武器を構えた。
それで、トーリは逃げてしまった。どうしたらいいかわからなくなって、儀式の行われていた高い塔の窓を飛び出した。
契約したばかりの火竜の力で炎をまとい、夜の空へ。
「あの人は死んで、俺は逃げた。その状況だけ見れば、俺があの人を殺して逃げたと思われてもしょうがない。だけど、魔法術を研究する者の中には気づいた者もいたはずだ。儀式の中で何かがあった──と」
言葉を切ってイルタを見た。イルタは何も言わない。じっとトーリを見つめ、話すことを聞いている。
その冷ややかな表情からは、イルタが何を考え感じているか、うかがえなかった。トーリは軽く息をついて話を続けた。
「俺は十のガキだったけど、サルミアにいられないことぐらいはわかった。セルヴィの伝説はあの人から聞いていたから、北へ逃げた。火竜と契約した俺には古い谷も軽々と越えられて……湖のそばに住んでいる人たちを見つけたときは、本当に嬉しかった。そこでは誰も精霊を利用しようとはしてなくて、だから精霊たちも隠れたり逃げたりしなくて、必要なときに少しだけ精霊に祝福をもらうのが当たり前のことで……」
湖水の民は、火竜と契約したトーリを、穏やかに迎え入れてくれた。森で摘み取った果実を分けてくれた。湖で魚を獲る方法を教えてくれた。トーリは火竜の力を使えることなんて忘れてその人たちと静かに暮らそうと思ったのだけど。
「……季節が一巡りした頃、風が、谷を越えて、ウワサを運んで来たんだ。サルミアで契約者がつくられた、って」
あの人の命と一緒に、契約の儀式の次第も失われたと思っていたのに。
「俺の契約自体は成功したのがわかっていて、弟子たちが研究を引き継いだんだろうな。そうして、辿り着いたんだ、精霊に対価に差し出すって結論に。契約者の大切なものを」
そこでトーリはイルタを見つめる。つまり、すでに契約を交わしたイルタも、何か大切なものを風の妖精に渡している──ということだ。
イルタはトーリにまっすぐ向けていた目を逸らした。
表情に感情の揺れは見られなかった。けれど、腰の荷物にやった手がうまく動かず、それを開くのにてこずった。取り出した水入れを口に当てたとき、零してしまっていた。
何とか水を飲むと、イルタはしばらく闇を見つめていた。落ち着こうとしているんだろう、とトーリは思った。待とう、イルタが俺の話を飲み込むまで。
やがて、イルタは闇に目を向けたまま尋ねてきた。
「精霊との契約には、必ず対価が必要なの?」
「ああ」
トーリは頷く。契約者のイルタには辛い話だ。だが、まずそこをわかってもらわないと。
「それは、あなたのように……誰か、大切な人の命なの?」
「命とは限らないと思う」
あの人は俺の片目を対価に考えていたのだし。けれど、イルタには体の一部を差し出した様子はない。
「……でも、大切なもの、だ。──あの人の弟子たちが最初に成功させた契約は、契約者の姉さんを対価にしたらしい。そう、風が言っていた」
イルタはもう一度水を飲んだ。今度は零さずに飲めたようだった。
水入れに蓋をしようとして、イルタは、ふと気づいたようにトーリを見た。少しためらうような素振りを見せたあと、水入れを差し出した。ずっとしゃべっていたトーリは、ひと口水をもらった。イルタはトーリが返した水入れを元通り袋にしまうと、両手をぎゅっと握り締めた。
「嘘つき」
俺の話を信じたくないのだろう、とトーリは思った。もしかしたら、自分の契約のために家族の誰かが亡くなっているかもしれない、ってことだから。
が、イルタの口から出た言葉は──。