襲撃──イルタ
村を出たあと、イルタは無人の樵小屋で一夜を過ごした。東の空に太陽が昇るのを待って森に入る。
昼でも暗い鬱蒼とした森もあるけれど、この森は明るい。
先に森の様子を探らせていた風の妖精が戻ってきた。異常なし、を報告する。
「ご苦労、エイリ」
イルタは風の妖精に頷いた。木漏れ日と小鳥のさえずりが降る森の中を歩いていく。
火竜の契約者が現れるタイミングを、イルタは自分がタイミの適合者と合流してから、と予想していた。クッカの適合者がタイミの適合者を迎えに行く、というウワサは軍がひそやかに広めて充分に流布して火竜の契約者にも届いているはず。火竜の契約者からすれば、ふたりを別々にさらうより、ふたりまとめてさらった方が楽だろう。実際、ここまでイルタの周囲に怪しい気配はなかった。
火竜の契約者がタイミの近くに潜んでクッカの適合者を待ち伏せている可能性はある。森をふたつ抜ければタイミだ。エイリに辺りを探らせるのは、そろそろ止めておくことにする。風の妖精の存在に気づかれたら、自分が適合者ではなく、すでに精霊と契約した特別な兵士だとばれてしまうかもしれない。
森が開けて、イルタは足を止めた。
広い草地が次の森まで続き、明るく午後の日差しを浴びている。草の丈は短く、身を隠す場所はない。イルタは無防備に身をさらして次の森まで歩かなければならない。
足下の花に目をやるふりなどしながら、ゆっくりと慎重に進んだ。そうして、草地の半分を過ぎたとき。
耳元で、さわ、と風が揺れた。
エイリの警告だ。──危険。前。
前? イルタの足が止まる。ここで火竜の契約者? イルタは前方の森に目を凝らした。
緑の中にきらりと陽光を弾くものがあった。金属──武器だ。それもひとつふたつじゃない。武器を持つ複数の者が、森に潜んでいる。
思わず、一歩下ってしまった。火竜の契約者は単独のはずだ。森に隠れている者たちは……何者?
ひゅん。
繁みから風を切って矢が飛来した。ひゅんひゅん。次々と。イルタはマントの下で背中に隠し持った短剣を逆手に抜く。
一本目の矢はイルタを逸れて地面に突き立った。二本目を剣で弾く。三本目……間に合わない。イルタはとっさに左腕を楯にする。
矢は、イルタの左腕を浅くかすめたところで、ぴたり、と宙に止まった。袖が裂け、一瞬遅れて、露わになった皮膚に、じわっ、と血が滲んだ。
イルタは目を大きく開いて宙に止まった矢を見つめる。
ひとりの少年がマントを翻してイルタの前に飛び出し、空中で矢をつかんでいた。少年はふり向かなかったが、その艶やかな茶色の髪だけで昨日、食堂にいた少年だと思い出せたが。
──なぜ、彼が? いつの間に、こんな近くに?
驚きで、痛みを忘れた。忘れる程度の痛みだった。
「うおおおお」
大きな叫び声が上がり、イルタはハッと我に返った。森から兵士たちが走り出てくる。向かってくる兵士は四人……五人。その手に抜き身の剣が光る。さっき森の中に見えた光はこれか。
少年が手にした矢をくるりと回し、兵士たちに向かって投げた。矢は先頭の兵士の足下に突き立ち、突進してきた兵士は足をすくわれて前に転がる。
その間にイルタは短剣を構え直した。兵士たちに注意深く視線を向ける。兵士たちは全員サルミアの紋章がある胸当てをつけている。が、下級兵士の胸当てにこんな立派な紋章が記されているのは逆に不自然。
ノスティ兵のへたな偽装に違いない、とイルタは断定した。この辺りはノスティとの国境に近い。ノスティの斥候兵が侵入することは十分考えられる。
──でも、斥候にしては数が多くない?
頭に浮かんだ疑問はいったん押さえつけた。とにかく、ここを切り抜けなければ。
少年が兵士たちに向かって走っていた。ひとりの兵士が振り回す剣を素早い動きでかいくぐって、鼻先に現れ、頭突きを見舞った。横から襲い掛かった兵士の脇腹を踵で蹴り、もうひとりの顔面に拳を見舞う。
格闘術というよりただのケンカのような動きだが、速くて正確だった。思わず感心しそうになるイルタだったが、そんな場合ではない。
四人目がこちらに向かってくる。大きな剣がイルタに振り下ろされた。イルタは素早く剣をかわして兵士の背後に回り込む。間髪入れず、短剣の柄の一撃を兵士の首筋に叩き込んだ。鎧と兜の隙間に。
「うっ」
と、ひと声呻いて、兵士の体が地面に崩れ落ちる。
イルタに駆け寄ろうとしていた少年が、驚いたように足を止めていた。イルタは無言で少年の背後へと短剣を投じる。
最初に転んだ兵士が立ち上がり、後ろから少年に剣を突き出していたのだ。イルタの短剣はその兵士を狙ったものだったけれど。
短剣の柄が、すっ、と少年の手に握られた。まるで彼に投げ渡されたもののように。
少年はふり向きもせず、イルタの短剣で兵士の剣を受け止めた。刃を滑らせて相手の攻撃を逸らしつつ間合いを詰め、イルタがやったのと同じ方法で兵士を倒した。鎧と兜の隙間に短剣の柄を打ち込むやり方だ。
兵士は悶絶する。森の中から現れた兵士たちの、最後のひとりだった。
少年は草の上に倒れた兵士たちを見回した。ひとりひとり、意識がないのを確認していく。
止めを刺すつもりはないらしい。──と、気づいて、イルタはほっとした。そして、ほっとした自分に困惑する。
訓練では、敵には必ず止めを刺せ、と教わったのだ。ここでもそうするべきでは。でも……見知らぬ少年の前で兵士の喉をかき切って回るわけにはいかない、そう思いついて、落ち着くことができた。
結局、ほっとしたわけだが。
少年が倒れた兵士の間を回っているうちに、イルタは兵士が落とした剣を目で確かめた。サルミアのものより幅広で、柄に交差する二直線が刻んであった。幅広の剣はノスティ兵のよく使うもので、剣に記された図柄はノスティの矢よけの呪い。やはり、彼らはノスティ兵だ。
すべての兵士に意識のないことを確かめてから、少年はイルタを向いた。
互いに手を伸ばせば触れ合うくらいの距離。
少年は近くで見てもとてもきれいな顔立ちをしていた。けれど、イルタをハッとさせたのはそれよりも。
不思議な目の色をしていた。暗く、濃い、赤。
その深紅の瞳がきゅっと細くなった。少年が笑ったのだ。
「驚いた。あんた、強いんだな」
「あなたこそ」
知らないうちに詰めていた息を吐き出すようにして、イルタは言った。イルタが倒したのはひとり、彼が倒したのは四人だ。
「……私は、父が軍にいたことがあって、手解きを受けたの」
年若い女としては不自然な印象を与えるかもしれない強さを少年が納得できるようにそう続ける。話しながら、素早く考えを巡らせる。
何者だろう、この少年。尋常じゃない強さだったけど、格闘技の訓練を受けた動きではなかった気がする。助けてくれたとはいえ、正体がわからない以上気は許せない。
ノスティの兵が現れたことも気になった。斥候にしては数が多い。目的は、何だろう。
──まさか、私? サルミアの適合者を殺すか捕えようとした、とか。火竜の契約者を誘き寄せるための適合者の噂を、広め過ぎてしまった……?
「ケガは?」
少年が言った。意外と落ち着いた声と口調だった。もっとも、初対面の女の子を壁と壁の隙間に引っ張り込む少年にしては、だけど。
「ごめん、間に合わなくて」
「かすり傷よ」
傷に手をやり、答えた。あなたが矢をつかんでくれなかったらざっくりいっていたわ──続けようとして、くらり、と頭が揺れた。
かすり傷が痺れているのに、そのとき気づいた。
毒矢だった? ──イルタは腰に結わえた荷物に手を伸ばした──そこに毒消しが入れてある。
手が荷物に触れたところで視界が歪んだ。そして、目の前が真っ暗になった。