表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/23

キス──トーリ

 意識はとっくに戻っているのに、トーリは体を思うように動かせないでいた。

 治らない傷のせいもある。だけど、大半は鎖のせいだ、とわかる。引きちぎれそうなくらい細い鎖。厳重に縛られているわけでもない。ゆるく体をひと巻きしているだけ。なのに、それが触れたところから力が抜けていってしまう。傷が治らないのもきっとこの鎖せいだろう。

 でも、耳はちゃんと聞こえていた。エテラの城に着いたら、火竜の契約者に魔法薬を飲ませて女王に服従させる、という話。

 知っていて、誰が飲むか、そんなもの。

 水も食べ物も与えられなくて苦しかったけど、何に薬が混ぜられるかわからないから、この先水がもらえても飲まない。そしたら、死んでしまうけど……。

 ……死ぬのは怖かった。けれど、トーリにはもっと怖いことがあった。もし、その薬が契約者の意思を奪うだけのものだったら、自分の体は火竜の本能に支配されたりしないだろうか? 氷魔と戦ったときのひりつくような快感。あの快感に身を浸して、火竜の力で破壊と殺戮を愉しんだりしないだろうか? 死にたくない。だけど、そうなるかもしれないなら、自分は死ななきゃだめだ。

 セルヴィに連れて行った適合者の子どもたちのことは、気がかりだった。このまま自分が戻らなかったら、あいつらは……ああ、大丈夫か。湖水の民は優しい。ちゃんと、子どもたちの面倒をみてくれるだろう。トーリ自身にそうしてくれたように。

 耳がイルタの声を拾うと、心が痛かった。イルタが王女と話す声は抑揚が少なく淡々としていたけど、必死に、慎重に、火竜の契約者の情報を集めようとしているのがわかったから。

 好きだと言っておけばよかった、とトーリは思った。言わなくてよかった、とも思った。俺を助けようなんて考えるな、と言いたかったけれど、王女の前でそんなことは口にできない。だから、イルタに向かってそう念じてみた。……伝わっただろうか? 風の妖精がいれば自分の気持ちを伝えてもらえたのに、氷魔に飛ばされたきりその存在を感じない。

 夜が来て、朝が来た。

 出発のとき、イルタが男に呼ばれて王女の馬車を離れてしまった。声で、男がラークソン将軍だということはわかった。トーリは不安になる。まさか、俺を助けようとして、それがばれたんじゃないだろうな。

 ……しばらくしてイルタが戻った。トーリは心の底からほっとしたけど、イルタの様子が変だった。王女が話しかけるのにも上の空という感じで、ずれた反応をしては謝ってばかりいる。いつの間にか風の妖精が戻ったようだったけど、イルタの肩でずっと沈黙しているし。

 将軍に何か言われたんだろうか。悔しかった。こんなに近くにいるのにイルタの力になれないなんて。

 その日、トーリは捕らえられてから初めて、馬車の外に出された。瞼に太陽の光を感じて閉じていた目を開くと、高い塔のある城が見えた。

 ここがエテラの城か。トーリは力なくふたたび目を閉じる。ここで服従の魔法薬を飲まされるのか。

 トーリは兵士たちに城の中へと運ばれ、石の床に転がされた。

 兵士たちが離れると、トーリは重い腕をぎこちなく動かす。手が壁に触れる。

 鎖が、シャラ、と装身具のような繊細な音をたてた。トーリの体から力が抜けていく。それでも、少しずつ、なんとか上体を起こして壁にもたれた。

 薄く目を開ける。

 格子のある窓から、日が差し込んでいた。日差しの強さと角度で昼を少し過ぎた時間だとわかった。兵士がふたり、トーリの左右に剣を抜いて立っている。少し距離をとって正面に王女と将軍と……。

 イルタがいた。

 思わず笑いかけそうになったけど、頬の傷が痛んで失敗した。まあ、失敗してよかった、と思う。でも、こんな無様な姿はイルタに見せたくなかったな。

 イルタたちの後ろにも兵士がいて──何人いるか数えようとしたけれど、面倒くさくなってトーリは目を閉じた。目を開けているのもなかなか努力がいる。

 軽やかな足音が近づいてくるのが聞こえた。この靴音は王女だ。声が上から降ってくる。

「お久し振りね、トーリ。また会えて嬉しいわ。可哀想に、こんなにケガをして」

 本心から言っているような声だった。きっと本心なんだろう。王女はずっと手に入れたかったんだ。彼女の空想の中では世界だって征服できる、きれいで危険な彼女の玩具を。

 トーリは王女が自分の前に膝をつくのを気配で感じる。王女の指がすっと頬の傷に触れた。

 触るな、と言いたかった。俺に触るな。けれど、喉も舌も渇ききって声が出ない。顔を背けて指から逃れると、王女は笑ったようだった。

「喉が渇いたでしょう」

 冷えた杯が口に押し当てられた。はねた水滴が唇にかかった。トーリは意志の力を振り絞って唇を固く閉じた。

「飲みなさい」

 杯の横に何か丸いものが添えられる。王女の指がそれをトーリの口に押し込もうとする。

 トーリは鉛のような腕を上げ、渾身の力で王女の手を払った。鎖が緩くてありがたい。

 王女の手から飛んだ杯が床に落ちて高い金属音を響かせた。

 ぴしゃ、と水が零れる音も。

 トーリの渇いた喉がひきつる。

「強情ね」

 王女が立ち上がる衣擦れの音。目は閉じていたから女王の表情はわからなかったけど、声には明らかな苛立ちがあった。自分の思い通りにことが運ばないことに慣れていないんだろう。

「もっと日当たりのいい場所に移動した方がいいのかしら。とても暑くて、自分から水を飲ませてくださいとお願いしたくなるような」

 それは辛いな、とトーリは思う。今でも涙が出そうだった。せっかくの水を自分で零してしまって。でも、俺は自分の意思を手放すのは嫌だ。舌を噛み切ることも考えたけど、それも負けるみたいで嫌だ。せめて拒否を貫いて殺されてやる。

 トーリは目を開けた。壁の助けを借りて上半身をまっすぐにし、王女を見た。

 王女は親指の爪を噛んでいた。親指を口から離し、兵士たちをふり向く。

 だが、王女が命令を発しようと口を開いたとき、イルタの声がした。

「姫さま、私が飲ませます」

 イルタは床に転がる杯を拾い、兵士が持つ水差しの水を注いだ。王女に近づき、片手を差し出す。王女は気を飲まれたようにイルタに丸い薬を渡す。

 片手に杯、片手に薬を持って、イルタはトーリに近づいた。膝を折り、トーリと目の高さを同じにした。

 トーリはすぐそばにあるイルタの顔を見つめた。

 薄青の瞳は冬の空のように冷たく澄んでいる。

 ふと、薬を毒にすり替えて俺を殺してくれるんじゃないか、と思った。俺が苦しむのを可哀想だと思ってくれて。火竜に命令する薬がつくれるなら火竜を殺す毒だってきっとつくれる。

 ……虫のいい、卑怯な考えだ。トーリはほんの少し微笑む。イルタはイルタの、俺は俺の覚悟を決めるしかない。

 トーリを見つめていた薄青の目が閉じた。薬をのせたイルタの手がイルタ自身の口に当てられた。そして、イルタはすかさず杯の水を口に含む。

 イルタが自分で薬を飲んでしまったのだと、トーリは思った。声は出なかったけれど、イルタ、と叫ぼうとした。その口がイルタの唇で塞がれた。

 舌を使って流しこまれた水が渇いた口の中に沁み渡る。トーリは何もかも忘れて目を閉じた。うっとりと。水ってこんなにうまかったっけ?

 トーリの喉が、ごくり、と鳴った。

 イルタはトーリから顔を離した。改めて杯をトーリの唇に当てた。トーリはもう抵抗しない。イルタは時間をかけて、トーリに少しずつ水を飲ませる。杯が空になると、立ち上がった。

「飲ませました」

 トーリが水の最後の一滴まで味わってから目を開くと、王女はぼう然とこちらを見ていた。王女だけじゃない、将軍も、兵士も。

 イルタは王女に近づき、何もない手のひらを見せる。

「飲ませました」

 もう一度言ったその言葉が終わるか終わらないか、ぱん、と鋭い音が響いた。王女がイルタの頬を打った音。

「誰があれに、そ……そのようなはしたない真似を許した」

 声が震えていた。頬が真っ赤だ。その顔を兵士たちに向けた。

「この女を連れて行って。閉じ込めて。この城の、ここからいちばん遠い場所に。あとで私が罰を与える」

 兵士たちが両側からイルタの腕を捕えた。イルタは驚いた表情でもがく。

「姫さま、申し訳ありません。私はただ……」

「聞きたくない」

 姫さま、と叫びながらイルタが部屋を連れ出される。

 トーリは夢でも見ているようにぼんやりとそれを見送った。驚きが大き過ぎて、気持ちが目の前の出来事に追いつかない。

 王女が将軍の前で両手を腰に当てていた。

「とんでもないあばずれを私の側仕えに推薦したものね」

 将軍は優雅に頭を傾げる。

「私も彼女があのような振る舞いをするとは。ですが、結果として、火竜の契約者をこれ以上弱らせることなく薬を飲ませることができました」

「それは……そうであるが」

「賢明な姫さまに私から申し上げることでもありませんが、目的を達成するためには手段を選べぬ場合もあります」

「……」

「薬が効くにはしばらくかかるとのこと。その間、別室でお休みになられては。お茶の用意をさせましょう」

 王女と将軍が部屋を出る。兵士ふたりに、火竜の契約者を見張り、何か変化があったらすぐ知らせるように、と命令を残して。

 その頃になって、トーリはようやくイルタが何をしたかを考えられるようになった。イルタは自分にキスをした。イルタが水と一緒に押し込んだ小さなものが、口の中に残っている。舌でそっとなぞる。金属の味。この形。

 ──これは鎖の鍵だ。


 トーリの心をいろんな想いが駆け巡る。

 どうやって? なぜイルタは鍵を手に入れることができたんだ? 相当危険な橋を渡ったんじゃないか? 

 いや、今だって。

 イルタの行動は王女を怒らせて、イルタはどこかへ連れて行かれた。イルタは軍に戻ってサルミアのために働くんじゃなかったのか。なんでこんなこと……。

 トーリは逃げていい──そうイルタは言ったっけ? 誰にも捕まらないで、自由に。

 泣いてしまいそうだった。イルタより、火竜と契約した自分の方がずっと強いのに。

 トーリは軽く咳をした。

 鎖が、シャラ、と鳴る。見張りの兵士がハッと槍を構える。

 トーリは背中で壁を滑り、床に横たわった。そのままじっとしている。兵士たちは槍を構えて近づきしばらくじっとトーリの様子を見ていた。が、トーリがそれ以上動かないので、少し離れたもともとの位置に戻った。

 そのあともトーリは苦しそうに咳き込み、何回目かに兵士たちに背を向けた。兵士たちは、最初のうちこそ咳に律義に反応していたが、そのうち慣れたのか飽きたのか、何もしなくなった。

 ……兵士が欠伸を噛み殺す声がした。トーリは兵士たちに背を向けて咳をする。兵士の視線が自分の背中をちらっと見て逸れるのを感じる。

 トーリは手で口をおおい、咳と一緒に鍵を吐き出した。

 咳を続けながら、体の陰で手枷の鍵穴に鍵を差した。指先の感覚が覚束なかくて時間がかかってしまったけれど、鍵を外せた。

 少し体が楽になる。

 もう片方の手枷も外して、そっと鎖を体から遠ざけた。

 心臓から、どくん、と新しい血が流れ出したようだった。それが体の隅々にまで広がり、体中が気持ちよく熱くなる。

 トーリは目を閉じて体を丸くした。特にひどい肩と足の傷に神経を集中する。──治れ。そこが何とかなれば、俺は自由に動ける。

 城の中でここからいちばん遠い場所ってどこだろう、と考えた。城に運び込まれるとき、無理にでも目をしっかりと開けて城のつくりを確認し、頭に叩き込むんだった。何が起きるかわからなかったのに。こんなことだって起きるんだ。

 こんなことをしてイルタが無事で済むとは思えなかった。自分が逃げてイルタがまったく疑われないなんて。

 ──だから、イルタを探して一緒に逃げる。イルタは勝手に俺を助けようとしたんだから、俺も勝手にイルタを助ける。

 窓から差す日差しが長く伸びた。オレンジ色の光がトーリを照らす。

 トーリは肩を動かしてみた。まだ痛むが、動く。足も大丈夫だ。

「……みず……」

 演技じゃなくてひび割れた声を、喉から絞り出した。

「……水……ください……」

 そして待った。兵士たちがたいした用心もしないでと近づいてくるのを。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ