桎梏(一)──イルタ
エイリが吸い込まれていった白い闇を、イルタは瞬きも惜しんで見つめていた。
不意に、白い闇が内側から赤く輝いた。
もっとよく見ようとするより早く、赤い輝きは燃え上がる炎のように一気に広がった。白い吹雪と赤い輝きが揉みあい、絡みあい、ともに激しく弾けたように見えた。
そして、猛烈な風が丘を駆け上ってこちらに向かってきた。
逃げる時間はなかった。だが、それよりも、逃げてもいけない、とイルタは思った。──帰還魔法を行うノスティの魔法術師を風から守らないと。
サルミアの魔法術師が唱える防御の呪文が聞こえた。イルタは足に力を込めた。イルタは真っ先に風を受ける位置にいる。少しでも風を防ごう。
けれど、風が来るよりラークソン将軍がイルタを押し倒す方が早かった。将軍はもう一方の手にはヴィータ女王を抱えて地面に伏せたので、一緒に風から守ってくれたのかと思いかけたが。
「飛ばされて後ろの兵士に当たったらどうする」
厳しく囁かれ、イルタは伏せた姿勢のまま首を捩じって後ろを見た。
兵士たちが──サルミアの兵士も、ノスティの兵士も、だ──がっしりと腕を組んで互いを支え、足を踏ん張り、ノスティの魔法術師の前に壁をつくっている。イルタが視界にそれを認めた途端、イルタたちの上を風が走った。息ができないくらいの強い風だった。……確かに自分では簡単に飛ばされて、邪魔になるだけだったかもしれない。
風はなかなか止まない。
まだ、止まない。
苦しくなってきた。いつまで続くんだろう、と焦るように思ったとき、不意にぴたりと風がおさまった。
辺りは静まり返っている。しばらくじっとしたまま周りの様子に神経を凝らしたけれど、静かなままだ。
イルタは力の緩んだ将軍の腕をはねのけて体を起こして──。
目の前に広がる光景に視線も心も奪われた。
大気が燃えるようなばら色に染まっていた。その中に無数の透き通った欠片が舞っている。きらきらと銀色に、ときには白く輝いて。
銀色の欠片は音もなく宙にたゆたい、ばら色に融けていく。──氷の破片が炎に溶けていくように。
燃えるばら色は少しずつその色を薄めていく。──炎が熱を失っていくように。
互いに融け合う炎と氷。こんな美しいものを見たことがなかった。
そこにふと別の気配を感じ、イルタは上空を仰いだ。
空は灰色の雲とばら色の大気が混じりあい、黄昏を思わせる薄紫。そこに、白く発光する点が現れた。点は、する、と延びて線になる。
見えない筆があるように、空に線が引かれていく。白い六芒星が描かれる。六芒星を二重の円が囲み、ふたつの円周の間に文字と記号が刻まれていく。
見えない筆は一周して、最後に描かれた文字が最初の文字と結ばれた。
帰還魔法を見るのは初めてだった。だが、これがそうなのだろう。ノスティの魔法術師が地に描いた魔法陣が空に転写され、魔法陣は静かに下降を始めた。魔法陣が通り過ぎた空間から、ばら色も銀の破片も消えていく。魔法陣は下降を続け、やがて大地に横たわった。水が土に滲みこむように、魔法陣をかたちづくる白く光る線が消える。
イルタたちの前に、青空が、ありふれた丘の風景が広がっていた。
しばらくは、誰も何も言わなかった。何ごともなかったような空を、奇跡を見たように見つめていた。
ラークソン将軍でさえ、ぼう然としている。何か大きな衝撃を受けたように。
静寂を破ったのは、ヴィータ女王の歓喜の叫び。
「凄いわ!」
白いドレスの裾を翻して数歩走り、丘の下の低地を覗き見る。
「なんてこと。氷魔を吹き飛ばしたわ。早くあれを手に入れて。サルミアはもう無敵よ。ノスティだけじゃない、どの国も、みんなサルミアにひれ伏すわ。私、もうサルミアなんて小さな国の王女じゃなくなる。この世界すべての王女よ。──何をしているの、おまえたち。早くあれを探して。そこのノスティの魔法術師たちを捕まえるのも忘れないで」
矢継ぎ早の命令に、すぐに反応できる兵士はひとりもいなかった。
イルタも動けない。女王の命令が理解できない。ヴィータ様は何を言っているの? ノスティがサルミアにひれ伏す?
サルミアの兵士たちも困惑している。顔を見合わせる相手は、ノスティの兵士だ。たった今までともに氷魔と対峙していた。壁となって魔法術師を守るため、声を掛け合い支えあった。
ふたつの国の兵士が力を合わせて守った魔法術師は、帰還魔法で力を使い果たしたのか、地面に倒れ伏している。
最初に動いたのは、ノスティの兵士たちだった。
ひとりが、だっ、と走り出すと、全員がそれに続いた。地に倒れた魔法術師を抱え上げ、馬車に乗せて逃げ出す。
サルミア兵の足はまだ動かない。ようやく動いたのは、ノスティの兵士たちと馬車がとても追いつけない遠くへと逃げてから。しかも、のろのろと。
「……ヴィータ様、兵士たちは氷魔の生み出す寒さに耐えておりましたので、すぐには動けないかと……」
「ノスティの兵士は動いたわ」
ラークソン将軍のとりなすような言葉を、ヴィータは一刀両断する。
「でも、いいわ。肝心なのは火竜の契約者だもの。早く探して、捕まえて。そちらを逃がしてしまったら、容赦しなくてよ」
ノスティの魔法術師を追おうとしていた兵士たちはヴィータの言葉に足を止めた。わずかに逡巡する仕草を見せてから、体の向きを変える。
兵士たちは丘を下り始めた。次第に表情が真剣になり、足が速くなる。
イルタも丘を駆け下りた。早く、早くトーリを見つけたい。兵士たちより早く見つけて……どうしたいのか、どうしたらいいのか、答えのないまま、タイミに着いた。
タイミだった、村の残骸に。
空も丘も元通りなのに、村の建物はすべて跡形もなく壊されていた。吹き飛ばされ、潰れ、焼け焦げて。
氷魔の凍気とトーリが呼んだ火精の熱、それがぶつかり合った結果が、これ。
到着した兵士たちも息を飲んで立ち竦む。
イルタの体が震えた。──この中で人が無事でいられるの?
だが、イルタは頭を振って悪い答えを払い落した。トーリは契約者。それも、ただの契約者じゃない。火竜と同じ力があると自分で言っていた。大丈夫。きっと大丈夫。そう、自分に言いきかせ、前へと進む。
兵士たちも散開してトーリを探し始めた。
イルタは必死に辺りを見回す。エイリに捜索を手伝ってもらいたかったけれど、まだ帰ってこない。精霊だから、死んでしまうとか、そういうことはないはずだけれど、強い風に遠くへ飛ばされてしまったかもしれない。どこまで?
エイリのことも心配になり、頭がうまく働かない。あてずっぽうに潰れた屋根の下を覗いたり、割れた板きれをどかしたりした。
やがて、兵士の声が、がれきの上に響いた。
「いた──いたぞ」
イルタは声のする方を見た。ひとりの兵士が家の残骸の上に乗って片手を上げ、もう一方の手で下方を指差している。
近くにいた兵士たちが声を上げた兵士の指の先に目をやり、次々に声を上げた。
「見つけた」
「魔法術師様を呼べ」
「ケガをしている。意識もない」
──ケガ。
走り出そうとした足の力が抜けて、イルタは地面に座り込む。
でも、『意識がない』ということは『生きている』ということだ。
車輪の音を響かせて、馬車が丘を降りてくる。馬を御しているのはラークソン将軍だ。
ヴィータ女王が窓から顔を出している。金髪が風にあおられて乱れるのもお構いなしに。
兵士数人が馬車に駆け寄った。将軍と何事か話す。ひとりが馬車の扉を開け、長いローブの裾をもたつかせる魔法術師を助け降ろして背中に負った。兵士たちの集まる場所へと走って返す。
イルタも足を踏みしめて立ち上がった。座り込んでいる場合ではない。魔法術師を通すべく兵士たちが開けた道に滑り込んで、精いっぱい前へ出る。──トーリ。
トーリは、地面に仰向けに寝かされていた。
目は閉じている。頬が切られて血が顔を汚していた。衣服の左肩と太腿の部分は真っ赤だ。右の手指の間にも血が伝わっている。
でも、胸はゆるく上下していた。
生きている。
イルタの目から涙があふれ、イルタはあわててそれを拭う。
噛みしめるように思った。トーリが生きている。
兵士の背中から降ろされたサルミアの魔法術師がトーリの横に膝をついた。
トーリを囲んだ兵士たちが口々に言う。
「魔法術師様、早く血止めを」
「がんばれ、火竜の」
「大丈夫、致命傷はない」
イルタは不思議な気持ちになった。兵士たちの態度はまるで仲間を助けようとしているみたいだ。魔法術師も真剣な表情で呪文を唱え、傷口に手をかざす。
ふと、思い当った。──一緒に戦ったノスティ兵は、自分たちの村がここから近い、と言っていた。だから、サルミアの兵士とともに氷魔の暴走を喰い止めようとした。ここいるサルミア兵たちも、もしかしたら魔法術師さえも、同じように近くの村から徴用されてきた者なのではないかしら。
今回の作戦は火竜の契約者を罠にかけようというものだったから、王都からここまで多くの兵を率いるなんて目立つことはしていないはずだ。ならば、ほとんどの兵が近在でかき集められた者。──だから、村を守ろうとして逃げなかった。だから、氷魔と最前線で戦った『反逆者』を助けようとしている。
イルタは深く目を閉じた。
トーリが助かりますように。
イルタが矢傷を負ったとき、トーリは大地の精霊から祝福をもらって傷を手当てしてくれた。自分も同じことができれば良かったのに。
祈るしかできないなんて。
どのぐらい時間が過ぎただろう。
魔法術師がトーリから離れた。はあ、はあ、と息が弾んでいる。
「……出血は止めた……止めた。あとは……竜族なら、自己再生の力があるはず……」
「つまり、助かるのね?」
高い声が降ってきて、その場の全員がふり向いた。
ヴィータ女王が軽く腕を組んで兵士たちの後ろに立っていた。ラークソン将軍を従えて。
いつの間にここに、とイルタは動揺する。トーリのことで頭がいっぱいで、女王と将軍のことを忘れていた。
「助かるのね?」
もう一度ぴしゃりと聞かれて、魔法術師は、思わず、というふうに頷く。
それを受けて、ヴィータ女王がラークソン将軍に目配せをした。
将軍は無言で前に出る。兵士たちがあわて、急いで、左右に割れた。
ゆっくりとトーリに近づく将軍の手には、細い銀の鎖があった。女の胸を飾るネックレスのように細く美しい鎖だった。
ラークソン将軍はトーリの体にその鎖を一周させた。縛めるというより、ふわりと巻きつけるようだった。最後に両端の手枷をその手首に嵌めた。その手枷も腕輪のような華奢なつくりであったけれど。
カチリ。手枷に鍵をかける金属音は、イルタの心に重く響いた。まるでイルタ自身が縛められたように。
トーリの目が微かに開き、また閉じる。
氷魔は去ったのに、空気は凍ったままだった。誰も何も言わなくて。
ヴィータの声だけが高らかにその場に響いた。
「さあ、都に凱旋よ」




