風信──イルタ
トーリ、と呼び止めそうになってイルタは口を押さえた。ここは人でごった返している。どんな人物がいるかわからない。この名前は、聞かれてはいけない。
ここにいて、と手を離したトーリは、イルタに頷いて走り出していた。向かう先は──馬車から降りたノスティの魔法術師だ。
思わずイルタは命じていた。──エイリ、トーリを追って。
このくらいの距離なら、イルタはエイリと感覚を共有できた。エイリの見たものが見え、エイリが聞いたものが聞ける。
だから、トーリと魔法術師や将軍とのやりとりは、イルタはすべて知ることができた。
適合者のいる村に現れるだろう火竜の契約者を捕えようとしていたのは、サルミアの軍だけではなかったのだ。イルタを襲ったノスティ兵の本当の狙いは、火竜の契約者を捕えることだった。イルタに射かけられた矢に塗られていたのが麻痺性の毒だったのは、イルタが適合者だというニセ情報に騙され、捕えて火竜の契約者を誘き出す餌にするつもりだったのかもしれない。そして、『適合者』を捉えることに失敗したノスティ兵は、サルミア軍と同じようにタイミで火竜の契約者を待ち構えることにしたのだろう。サルミア軍と違ったのは、氷精を使役して火竜を捕えようとしたこと。
だが、ノスティの魔法術師は人間の命令に従うおとなしい氷の妖精ではなく、暴れ狂う氷魔を呼び出してしまった。
召喚した精霊を帰せるのは呼び出した者だけ。ノスティの魔法術師がそれをやるしかないが、力不足。氷魔の力を削ぐ必要がある。だが、剣や槍では精霊と戦えないし、サルミアの魔法術師にもそれだけの力はない。
トーリが氷魔と戦う役目を負ったのは正しい判断だ。他にそれができる者はいないのだから。
とにかく氷魔をこのままにはできない。氷魔を帰還させることができなかったら、サルミアもノスティも大変なことになる。ラークソン将軍が『反逆者』を捕ようとしないで協力を申し出て、ノスティの魔法術師の援護に回ったことからも事態の深刻さがわかる。
トーリだけではない、魔法術師も将軍も兵士たちも、全員が命を懸ける。
わかっていた。全部、理解していた。それがここにいる者たちがとれる最善の、精いっぱいの作戦だと。
なのに、イルタは、氷魔と戦うために丘を下ろうとしたトーリに、エイリをしがみつかせてしまっていた。
──行かないで。
何か優しいものに包まれた気がした。トーリの唇の感触が頬をかすめ、囁く声が聞こえた。心配してくれて、ありがとう、イルタ────さよなら。
次の瞬間、イルタは駆けだしていた。
すぐ近くに馬車がある。馬車の窓からは、ヴィータ女王が身を乗り出して、護衛の兵士たちを困らせている。最初は、安全な場所へ待避せよ、と命令していた。火竜の契約者が氷魔と戦いノスティの魔法術師が帰還魔法を行うと報告を受けたあとは、近くに行ってそれを見たい、と言い出して。
「早く馬車を出しなさい。見逃してしまったらどうするの!」
護衛を命じられた隊の隊長はヴィータを宥めようとして必死だった。他の兵士たちはふたりの声が聞こえないふりで馬車に背を向け、丘を見ている。
だから、簡単だった。馬車を奪うくらいのことは。
イルタは馬車を引く馬に素早く飛び乗って、その腹に拍車を入れる。
突然走り出した馬車にヴィータが悲鳴を上げる。だが、それはすぐに歓声に変わった。
「そうよ! 走って! 早く! あとで褒美をとらせるわ!」
馬車を出せ、というヴィータの命令に従ったわけではない。本当は馬だけの方が早い。が、馬を馬車から放す間に兵士に見つかり取り押さえられるのが怖かった。
兵士たちの驚き、あわてる声がたちまち後ろに遠ざかる。
丘を上るにしたがって風がぐんと冷たくなり、雪が混じった。その雪風に半ば飛ばされるようにして飛んできたエイリが私の肩につかまる。
近づく丘の頂上に、兵士たちが壁のように並んでいるのが見えた。少し離れて何かの作業をしている兵士たちもいる。この緑輝く季節に冬の装備など用意しているはずもなく、みな手に息を吐き、足踏みして体を温めながら。
いくつもの焚火が円を描くように置かれていた。その中央にノスティの魔法術師が座しているのが見えて、イルタは馬を乗り捨てた。素人目にも、馬車で騒がしく乗りつけたりして、魔法術師の集中を乱してはいけないことはわかったからだ。
「どうしたの? あと少しよ。なぜ止まるの。馬車を進めなさい!」
動かなくなった馬車に、ヴィータ女王の歓声が叱責に変わったけれど、無視して走る。魔法術師と兵士たちの邪魔をすることなく、タイミへとトーリを追うつもりで、イルタは丘の頂上へと駆け上がる。
そして、イルタは立ち竦む。
眼下に広がるのは白い闇。そこから丘の斜面を吹き上がる、骨まで凍らせるような冷気。
人の侵入できる場所は、そこになかった。
丘を降りることを諦めて、イルタは辺りを見回した。自分に何かできることはないだろうか、と。
数人の兵士たちが火を絶やさないように焚火を見張り、ときおり木の枝を火にくべているのを見て、その作業に加わる。が、そんなイルタを呼ぶ声があった。
「イルタ」
ラークソン将軍だった。
将軍は、雪風をものともせずに、タイミを見下ろす場所にすっくと立っている。
イルタの胸を不安がかすめた。イルタはトーリが火竜の契約者であることに気づいたとき、エイリを将軍に飛ばして報告をした。が、そのあとは将軍に何の情報も送っていない。
そのことを咎められるのかと思ったのだ。
だが、将軍は駆け寄った私に、
「ここで待機するように」
と、命じただけで、ふたたび丘の下に目をやった。
将軍の傍らには、サルミアの魔法術師もいた。彼は、将軍の見ている丘の下とは反対を向いていた。丘の上の、焚火に守られたノスティの魔法術師をじっと見ている。
ノスティの魔法術師は焚火の陣の中央で胡坐を組み、目を閉じていた。魔法術師の前の地面は草が取り除かれ、剥きだしになった土の上に大きな六芒星が描かれている。
しばらくして、ヴィータ女王が将軍の横に並んだ。驚いたことに、馬車を降りて自身の足でここまで歩いてきたようだ。
「なんて寒さなの」
と、両腕で体を抱き、イルタを見ると、すぐに命令した。
「そのマントを寄越しなさい」
凄く嫌だった。王女の命なのに。イルタが纏っているのは自分のものではなく、トーリのマントだったから。
でも、王女の命令だ。イルタは、無言で、恭しくマントを差し出す。
「そろそろでしょうか」
不意にそう言ったのは、サルミアの魔法術師だ。イルタはハッとしてその目線を追った。ノスティの魔法術師を見る。
目を凝らすと、ノスティの魔法術師の唇が震えるように動いていた。声は風で聞こえないが、呪歌を唱えているのだろう。地に描かれた六芒星のラインが淡く光を帯びていてイルタは息を飲む。これほど大がかりな魔法術は初めてだ。自分が風の妖精と契約したときの儀式とは比較にならない。この魔法術師は相当な力を持った者なのだろう。
焚火のそばから、ノスティ兵がひとり、走ってきた。
「火竜の契約者に合図を送ってくれ。こちらの準備はできた」
ぞんざいな口調だったが、将軍はそれを聞き咎めて時間を無駄にしたりはしなかった。
将軍の命令の下、サルミア兵とノスティ兵の手によって、大きなかがり火が燃え上がる。
そこにいる全員の視線が丘の下に注がれた。合図は送った。火竜の契約者が氷魔の力を弱めるはずだ。氷魔の力が弱まるどんな小さな変化も見逃すまい──と。
沈黙の中、時が過ぎる。
「……まだなの?」
遠慮なくその問いを口にしたのはヴィータだった。
答える者はない。
低地をおおう吹雪に衰えはなかった。それらしい兆候さえも。
トーリ、と心の中で呼びかけながら、イルタはちらりと後ろをふり返る。
ノスティの魔法術師の目を閉じた顔は苦しげに見えた。おそらく魔法術師の力は極めて高いレベルに保たれている。もしここで彼の集中が切れてしまったら、やり直しはきかないだろう。
──トーリ。
「無理だったか、合図に気づけないか……」
ラークソン将軍が呟いたとき、イルタは固く目を閉じていた。
お願いエイリ。
ほとんど同時に、エイリが向かい風に抗ってまっすぐに飛び立つ。
そして、将軍の命令が下った。
「イルタ、風の妖精を飛ばせ。火竜の契約者に帰還魔法の準備が整ったと知らせろ」
「飛ばしました」
エイリの飛び立った方向を見据えてイルタは応じる。将軍はこの事態を想定して、目にとまった自分をそばに呼んだのだ。
けれど、エイリを飛ばしたのはイルタの意志。……いいえ、もしかしたら、エイリが自ら飛んでくれたのかもしれない。氷魔をあんなに怖がっていたのに。私のために。
ありがとう、エイリ。そして──帰ってきて、トーリ。




