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火竜──トーリ

 タイミを見下ろす丘の頂上に着いた途端、冷たい風が斜面を登って吹きつけてきた。

 丘の下にあるはずのタイミの村は見えない。白い吹雪に閉ざされている。

 空は暗い。雪片が風に混じって飛んでくる。風の音が女の高笑いに聞こえた。後ろに並んだ兵士のひとりが呻く。彼らが震えているのは、寒さのせいばかりではなさそうだった。

 トーリの横にはラークソンと魔法術師が立って、同じようにタイミを見下ろしている。

 ラークソンが魔法術師に尋ねた。

「準備にどれくらいかかるかな」

「うむ」

 魔法術師は、今は怯えても混乱してもいなかった。背後をふり向く。魔法術師が指示した比較的水平な場所に魔法陣を描くべく、兵士たちが凍った地面に苦戦しながら草を除いている。それをしばらく見つめ、答えた。

「……半時……いや、もう少し。魔法陣を描いたあと、呪歌を唱え、精神を集中する」

「では、その間、我々が貴殿を冷気から守る。焚火と人の楯で。火竜の契約者は──」

「帰還魔法の準備ができるまで、氷魔と戦って時間を稼ぐ。準備ができたら、何か合図をくれ。そのタイミングで氷魔の力を削ぐ」

 素っ気なくあとを引き取ると、魔法術師が厳しい目をトーリに向けてきた。

「本当にできるのか。火竜の力で、氷魔の力を削ぐなど」

 火竜ごときの力で──と聞こえた。氷精たちの頂点に君臨する氷魔と、所詮人間と契約する程度の火竜では精霊としての格が違う、と言いたいんだろう。

 ──その通りだ。だが、策はある。

 トーリは無言で地面に膝をついた。片方の手のひらを地に当てた。

 凍りついた草が、パリ、と折れる。

 しばらくして立ち上がり、手についた氷を払った。

「大丈夫だ。地の底の火精を呼ぶ」

 無表情の下で、トーリはほっとしていた。が、魔法術師もラークソンも、兵士たちさえ、ぎょっとしてトーリを見た。

 地の底の火精。──誰でも聞いたことぐらいはあるだろう。地の底には火の脈があって、それが噴き出す場所があり、すべてのものを焼き尽くすと。

 そこに棲む火精を呼び出すつもりだった。同じ炎の眷属として。大丈夫。自分が感じられる程度の距離に火の脈が通っている。火竜ごときには無理でも、地の底の火精なら、氷魔に一撃を与えられるだろう。

 ごくり、と唾を飲んで、ラークソンが口を開いた。少し声が震えていた。

「……では、準備が整ったら、合図として火を焚こうか。特別に大きなかがり火を。それでわかるかな?」

 トーリは頷く。それで話は決まった。

 もう話すことはない。トーリはラークソンと魔法術師から離れ、タイミの村へ丘を下ろうとした。氷魔と戦うために。

 そのとき、不意に袖が引っ張られた。強く。

 トーリはふり向く。イルタの風の妖精が自分の服の袖を引っ張っていた。

 いつの間に飛ばしたのだろう。妖精は目を大きく開き、真剣そのものの表情をして、両手でトーリの袖をつかんでいる。

 夜の森で、逃がさない、と自分のマントを握り締めたイルタの姿が浮かんだ。そのときのイルタと同じ表情だった。同じ顔で、イルタの声を伝えてくれた。

 ──行かないで。

 可笑しくなった。私ごとに風の妖精を使っちゃいけないんじゃなかったのか?

 手のひらを向けると、風の妖精は袖を離し、トーリ手の上にふわりと乗った。心配そうに首をかしげる。トーリは両手で風の妖精を包み、その小さな頬にキスをした。

 すぐに手を開いて、トーリは風の妖精を飛び立たせる。俺の返事を持って帰れ。心配してくれて、ありがとう、イルタ────。

 妖精を見送らずに視線を戻し、トーリは丘の斜面を下り始めた。雪風に包まれたタイミへと。

 たちまち、視界すべてが白一色になった。吹雪く大気の白、地面をおおう雪の白。

 雪が深くなる前に、トーリは地面を蹴った。透ける炎の翼で、雪混じりの風を切って飛んだ。風の吹き出る方角へ。

 雪の粒は次第に大きくなり氷の礫となった。吹雪の中心に大きな影を認め、トーリは宙に静止する。

 氷魔だ。トーリに気づいて、影は大きな人の姿をとる。

 半分透き通った銀色の顔に、瞳のないふたつの目。鼻と口はない。あれば、すごい美人の年増って感じだろうな、とトーリは思う。灰銀のドレスと長い髪が風にはためいて吹雪を散らす。極寒を支配する女王であることを誇示するような氷の冠。

 威圧的な冷たい目が語っている。

 ──人間が、我が眷属を呼びつけるとは、小賢しいことをするものよ。

 風がトーリに強く吹きつけてきた。女王の領域に無断で踏み込んだ無礼者を排除しようとするように。

 だが、トーリは動かない。トーリの前に炎の障壁が揺らぎ立ち、風に乗って向かってくるいくつもの氷の刃を呑み込んだ。

 しゅんっ、と白い水蒸気が立ち上る。それはたちまち風にさらわれたけど。

 辺りの空気が、ずん、と重くなった。不快と怒りの気配が氷魔から渦を巻いて立ち上って。

 トーリは吹きつける雪風に抗って空中に真っ直ぐに立ち、氷の女王に笑いかけた。──もう抑えない。抑える必要もない。自分の中で戦いたくてうずうずしている火の竜を。

「……遊ぼう、女王様」

 突如、地面から氷の柱が伸びた。鋭い先端が槍のように下方から突き出される。軽くかわしたつもりだったが、間髪いれず、二本目、三本目の氷の槍がトーリを追った。

「……!」

 三本目の氷槍が、右の足首を浅く裂いた。白い空間に散った赤い飛沫がたちまちみぞれになって風に飛ばされる。

 やってくれる。あっさりと。……でも、そうこなくちゃな。

 そそり立った二本目の氷槍を蹴って上空に飛び、四本目の攻撃を逃れた。五本目の氷槍は現れない。この高さまでは追えない、ということか。トーリは限界の高さを記憶に刻む。

 足首の傷がじわりと熱を帯びてふさがり始めていた。この程度の傷ならば、火竜は自力で再生する。少し時間があれば。

 が、氷の女王は侵入者にそんな余裕を与えるつもりはないようだった。

 氷の礫が突風とともに飛んでくる。

 素早く張り巡らせた炎の障壁を数個の礫が突き抜けた。そのひとつがトーリの頬をかすめた。頬に流れたものを拭うひまもなく、風が炎の壁を吹き散らす。トーリは炎の翼で体を囲い、風の勢いに任せて上昇した。風が力を失ったところで翼を開き、氷魔目がけて真っ直ぐに下降した。炎の奔流が迸り、氷魔の頭上へと降り注ぐ。

 風と雪が炎の滝を迎え撃った。炎が雪を喰って蒸気を上げ、風が炎を切り裂く。

 蒸気が飛ばされたあと、トーリは氷魔のふたつの目の正面に自分を置いた。

 無傷というか、氷魔の姿は闘いが始まる前から何も変わらない。なびくドレスの裾にさえトーリの攻撃が届いた跡はない。ただ、瞳のない青い目には、はっきりと怒りの色が浮かんでいる。

 帰還魔法の準備が整うまで、この戦いを、半時、続けるのか。

 やばい。予想よりきつい──そう思った、笑いながら。火竜の感じる快感がトーリの体を指先まで満たしていく──やばい。予想より、全然楽しい。


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