琴線──イルタ
イルタは倒木に腰かけて、足下の地面を見つめている。
丘を下って森に入ったばかりの場所で、木々はまだ疎らだ。柔らかに地面を覆った草に木漏れ日がちらちらと踊っている。
どんな森か見てくる、と言って姿を消していたトーリが、戻ってきた。
トーリの深い靴が地面を見つめるイルタの視界に入って、すぐにイルタの隣に腰を下ろした。
イルタは顔を上げない。トーリはしばらく黙っていたけれど、不意にイルタの頭に手をのせた。
重くて、温かい手だった。
「良かったな。姉さん、生きていて」
優しくささやかれて、ぽろり、と涙が零れた。頬に、温かく。
「うん」
トーリに頷く。──良かった。エイレンが元気で。みんな、元気で。……私のことは忘れてしまっても。
「私は憶えているもの。みんなのこと」
エイレンと精霊を探した夕暮れや、水汲みしながらおしゃべりしたことや、おばさんたちに料理を教えてもらったことや──。
子どもを慰めるように優しくイルタの頭を撫ぜて、トーリの手が離れる。そして、
「俺も、あの人に、生きててほしかったな」
ぽつり、と言った。
「ラッシに生きててほしかった。俺を忘れても。……敵になっちゃっても」
敵。
呟かれた言葉に、イルタの心がぴくりと反応した。
隣に座るトーリを見た。
すっかり忘れていた。トーリと自分は敵同士だ。反逆者と、王国の兵士。
トーリは降ってくる木漏れ日を見上げていた。すぐにイルタの視線に気づいて顔をこちらに向けた。
とても穏やかな顔だった。反逆者のくせに。──反逆者? ……よくわからなくなってしまった。でも……。
「私は……やっぱり、エイレンたちを守りたい……」
深紅の瞳に、そう言った。みんなが私を忘れても、私はみんなが大好きだもの。
トーリの瞳に長い睫毛が陰を落とす。
「王国の兵士でいれば、それができる……?」
尋ねられて、イルタは頷いた。頬に零れた涙を拭って。大事なのはエイレンたちが、サルミアの国民が幸せになることだ。そのために自分が死んでも。イルタはそう教わったし、それでいいと思っている。みんなが幸せに暮らすために、自分のできることをする。そして……。
「あなたにも、それができるんじゃない、トーリ?」
イルタは深紅の瞳を見上げて、首を傾けた。
一緒にいたのはとても短い時間だけど、トーリは悪辣でも冷酷でもなかった。自分を育ててくれた魔法術師のことは今でも慕っているように見える。それも、とても深い気持ちで。
トーリが反逆者なのは、ただ、契約の方法に納得がいかないからなのでは? と、イルタは思ったのだ。契約には対価が必要で、それは契約者にとって大切なものでなければならない──そう知ってしまった今となっては、イルタ自身も精霊と契約して特別な兵士になるのが『素晴らしいこと』なのか迷う。
サルミアを守る力を得るのは素晴らしい。でも、子どもたちに大切なものを失ってほしくはない。だったら……すでに大切なものをなくしてしまった自分のような者たちががんばればいいんじゃないだろうか、と考えたのだ。自分や……自分よりもっと大きな力を持つトーリのような者が……。
「火竜と契約したトーリなら、サルミアを守れるんじゃない? トーリが火竜の力でサルミアを守ってくれれば、そうしたら、これ以上子どもたちが契約者になることもなくて……」
トーリの顔が強張っていって、イルタの声は途切れた。イルタを見る深紅の瞳に、暗い炎が宿ったようだった。
「……俺を何だと思ってるんだ」
絞り出された声に抑えきれない憤りが滲んで、イルタは思わず身を竦めた。怖い。焼き殺す、と言われたときだって、トーリを恐ろしいとは感じなかったのに。
「サルミアを守るサルミアを守る、って、何を何から守るんだよ?」
「……サルミアの国民を……ノスティの侵攻から……」
「それ、火竜の力でノスティの軍隊を焼き払え、ってことだろう? ああ、俺にはその力があるよ。あんたを簡単に焼き殺せる、って言ったのも本当だ。でも──できるわけないだろう、そんなこと。俺は自分の家族も村も全部焼かれているんだぞ?」
叫ぶように言って、トーリは顔を背けた。何かをこらえるような一拍があって、不意に立ち上がった。駆けだして、けれど、すぐに足を止める。体を支えるように、近くの木に片手をついた。
イルタはとっさにトーリを追おうとした。倒木から腰を浮かせた。が、その途端、鋭く声が飛んで。
「来るな」
体が固まってしまったのは、トーリの声が泣き出しそうに聞こえたから。
「……そこにいろ」
感情を必死に抑えようとするように、トーリの声は震えている。
「少し待っていれば……イルタが行きたいところまで送ってやるから」
イルタの胸が切られたように痛んだ。トーリはキズついている、と感じて。
『反逆者』、『火竜の契約者』──トーリはそんな記号のような存在ではなかった。キズつく心を持った生身の少年。そして、その少年をキズつけたのは、自分。
そばに行きたい、とイルタは思った。でも、来るな、と言われてしまった。
ためらっていると、耳元の空気がひやりと動いた。
将軍のもとへ飛ばした風の妖精が報告を終えて帰ってきたのだ。
自分が契約を結んだ風の妖精が。
ひとことでは表せない感情がイルタの中で大きく揺れた。──エイリと契約するために私が失ったもの。私の大切な人たちの心にあったはずの、私との思い出。他愛ないおしゃべり。朝の挨拶とおやすみのキス。
その存在を消したいくらいにエイリが憎い。けれど、契約を望んだのは人間の側──私自身。エイリは対価を受け取っただけ。エイリに咎はない。そして、契約者となった自分のそばにいてくれたのはエイリだけ。エイリがいなかったら、自分はもっと孤独だった。風の妖精はサルミアを守るために手に入れた力、道具のようなもののはずなのに、いつの間にか名前をつけて呼んでいた。エイリ、姉の名前の音を少しもらって。眠れない夜にエイリに向かって呟いたこともあった。今日の訓練はたいへんだったわ。村のみんなは元気かしら。エイリは何も答えなかったけれど、いつもイルタのそばにいた。
エイリが憎い。エイリが愛しい。──ふたつの感情が、揺れて、ぶつかって……。やがて、愛しさが憎しみを押し流す。
トーリにもエイリが戻ったことはわかったらしかった。イルタをふり向かずに聞いてきた。
「風の妖精、何て?」
答えがイルタの喉から出かかって、すんでのところで止まった。
危うくラークソン将軍からの指示を火竜の契約者に伝えてしまうところだった。……だけど、うっかり伝えてしまえばよかった気もした。
「ま、聞かなくても、予想はできる」
トーリがこちらを向いた。ふん、と笑って言った。
「タイミの村で火竜の契約者を捕えるために兵士を配置するから、油断させてうまく連れてくるように──とか、そんなんだろ?」
図星だった。指令が見破られたわけなのに、イルタもそっと笑っていた。
可笑しくて、嬉しかったのだ。トーリが不敵そうに笑ったのが。さっき、たぶん、泣きそうだったくせに。
「じゃ、行くか。タイミに。適合者をさらいに」
くるり。トーリは体ごとイルタに向き直り、軽くそう言った。
イルタは驚く。驚いて言ってしまった。
「兵士が待ち構えているのよ?」
こちらの作戦を。けれど、
「いつものことだ」
と、トーリはちょっとも動じない。
「寄り道したから、少し待たせちゃうけど。ここから歩くと──着くのは明日の昼過ぎかな。遅くなるって、上に連絡しとく?」
予期せぬ質問。イルタの頭にはすぐには答えが浮かばない。そう、ええっと、連絡すべき? でも……あ、これ、冗談?
トーリはイルタを眺めて笑い、それから、ふと声を落した。
「イルタは? これから、どうする? ……もう軍に戻る気はなくて、どこかに行きたければ、送るけど」
イルタは改めてトーリを見た。心配そうな表情が本当の気持ちに思えて、胸を衝かれた。一度緩んでしまった涙線が頼りにならなくて、さっと目を伏せる。
「行きたいところは、なくなっちゃったじゃない」
生まれ育ったアームは、思い出の中にだけある村になってしまった。みんなが私を、イルタ、と呼んで笑いかけたり叱ったりしてくれる、私のホーム。
「……セルヴィに行くのは、どう?」
聞かれて、弾かれたように顔を上げる。
トーリはとても真面目な顔をしていた。
セルヴィ──古い谷を越えたところにある場所。森とたくさんの湖があって、湖水の民と精霊たちがお伽噺のように暮らす伝説の地。
行ってしまいたい、という気持ちが胸の奥からあふれた。今までの自分を全部捨てて。
けれど、イルタはかぶりを振る。……そんなに簡単に捨てられるわけがない。一生懸命に生きてきた十六年を。
そうか、と呟く、トーリ。
「じゃあ、軍に戻る?」
「戻るわ。……戻るけど……」
どうしたらいいかわからない。反逆者を捕えて処罰する──なんて数式みたいな考え方がもうできない。反逆者である火竜の契約者が、記号のような存在じゃなかったから。
「考えなきゃ、と思うの。いろいろなこと。ちゃんと、自分で」
今までは教えられたことを必死に飲み込むだけだったから。それがサルミアのためになると信じて。
トーリが驚いたような顔をした。ちょっと瞬いて、その目をイルタから逸らした。しばらく間をおいて、そうだな、と言った。
木漏れ日の中に立つトーリをイルタは見つめた。明るいブラウンの髪は日差しに輝いていたけれど、何かを沈思するような眼差しと軽く結んだ唇が、きれいな顔立ちに翳りをつくっている。
けれど、その翳りはすぐに消えて、トーリはイルタにいたずらっぽく笑みを向けてみせた。
「タイミまで一緒に行こう。軍に戻るなら、イルタは任務を成功させなきゃな」
トーリを見つめていた──もしかしたら見とれていたイルタは、ハッと我に返る。
「火竜の契約者を……あなたを捕まえる任務よ?」
「俺をタイミまで連れていく、だろう? 大丈夫。あとはうまくやって逃げるから」
──大丈夫、って……。私があなたに逃げてほしがっている、と思っているの?
……否定、できなかった。反逆者許すまじ、と固く決意していた自分はどこへ行ってしまったのだろう。
「もう少し休んでから出発しようか。疲れているだろう?」
そう尋ねられて、イルタは首を振った。昨夜はほとんど寝ていないけれど、横になったらいろんなことを考えてひたすら悲しくなりそうだ。歩いている方がいい。
森の中を歩き始めてすぐ、イルタは前を行くトーリに言った。
「ごめんなさい」
トーリは灌木に絡んだ蔓草を片手で持ち上げ、私たちが潜り抜ける隙間をつくっていた。先にイルタを通し、自分も素早く隙間を潜って蔓草から手を離した。
ざん。蔓草がもとどおりカーテンのように垂れ下がる。イルタはトーリが体を起こすのを待って、
「ごめんなさい。あの……さっき、あなたに、サルミアを守れ、なんて、言ったこと」
「いいよ。謝らなくて」
トーリはイルタをちらっと見て、すっとふたたび先に立つ。
「あの人も、生きてれば、俺に同じことを言ったんだろうし」
あの人……トーリを育てて火竜と契約させた魔法術師ラッシのことだ。
きっと言ったのだろう、サルミアを守れ、と。ラッシは王国の魔法術師だったのだから。トーリは苦しんで、結局ラッシの敵になったかもしれない。それでも、トーリはあの人に生きていて欲しかったと、さっき言った。
歩き出すトーリの背中を一瞬遅れてイルタは追う。トーリは前を見たまま言った。
「俺こそ、ごめん。八つ当たりみたいに、怒鳴って」
艶やかなブラウンの髪が軽く揺れ、降っていた木漏れ日が弾かれる。
「いろいろ言ったけど、俺、自分のやっていることに自信があるわけじゃないんだ」
トーリに追いつこうとしていたイルタの足が、止まりそうになった。
「火竜の力があっても、適合者を連れ去るなんて嫌がらせみたいなことしかできない。そんなの何の解決にもならない。また別の子どもが選ばれるだけだ。……子どもをさらって契約者にしようとしている王や軍隊を焼き払っちまえば全部終わるのかな、って乱暴に考えたことも、ホントはある。でも、そんな恐ろしいことできないし……できないと思うのに、炎に包まれる城や兵士を想像すると、俺の体の奥が、火竜と結びついた深いところが嬉しくてぞくぞくするんだ。それが凄く怖い。それに、サルミアの軍隊を俺が焼いたら、ノスティの軍隊が喜んで攻めてくるだろう。そしたら、次はそれも、焼き払うのか? また他の国が攻めてきたら、その軍隊も?」
答えられない。さっき、サルミアをノスティの軍隊から守ってほしい、とトーリに頼んだのは、イルタ自身なのに。
──私、トーリに何を頼んでしまったのだろう?
「俺は人殺しなんてしたくないんだ」
淡々と続けられた言葉が、イルタの胸を刺した。──人殺し。
ノスティ兵に襲われたときの記憶が浮かんだ。トーリは兵士の意識を奪うだけで止めは刺さなかった。そんな甘さは戦場で命取りになると厳しく教えられたのに、イルタはそれを見てほっとしていた。自分がトーリの見ている前で倒れた兵士の首を切って回ることができないことにも、ほっとしていた。
ふと思った。『ノスティ兵』──自分を襲った彼らも、そんな記号ではなく、ひとりひとり名前があって、家族もいる人たちだったんじゃないかしら。
「……ごめんなさい」
もう一度、繰り返す。さっきより、痛い気持ちで。
「だから、謝らなくていいって」
トーリが歩調を緩めて、イルタに並んだ。トーリがふり向けた視線を、イルタは受け止める。
「イルタみたいに、きちんとサルミアの国民としてやるべきことをやって、それで何とかできないか考える方が、正しいやり方なのかもしれない。俺は……逃げたわけだし」
現れればいいよ。──イルタの耳に、ふと、また、声が聞こえた。トーリと初めて会った食堂の、酔っ払いの声。──火竜の契約者? 現れればいいよ。どこにでも……。
声の奥深くに揺らぐのは、昔話のトリックスターに対するような憧れ。
気がついたら、言葉を紡いでいた。
「……トーリは、逃げていいんだと思うわ。誰にも捕まらないで、自由に」
そうして、サルミアのどこかで誰かが囁く。反逆者のウワサを。支配も束縛もされない存在への憧れを、こっそりと。
深紅の瞳がイルタを見つめた。
「そう?」
低く、真剣に聞かれて、イルタはしっかりと頷く。
これから自分はどうするか、まだちゃんと決められていない。今までとは違う道を探したいけれど、見つかるかどうかわからない。探し方もわからない。けれど、どうしようもなくなっても、トーリのことを考えればきっと心が楽になる。この世界に、伝説の地で精霊と暮らし、自由に空を翔ける少年がいるということ、それだけで。……たとえ、本当の彼がただのキズついた少年でも。
瞳の深紅が細くなった。トーリが笑って。
「ありがとう」
トーリを、ぎゅっ、と抱き締めたくなった。もしかしたら、ずっとひとりで苦しんでいたんじゃないか、って思ってしまったのだ。自分も兵士になるための訓練に明け暮れたとき、さみしくて辛くて、誰かにそうしてほしいことがあったから。
もちろん、思っただけで、実行はしない。恋人でもないのにいきなりそんなことしたら、変だろう。会ったばかりでキスするなんて最低、とトーリを非難しておいて、自分がそんなことをするのはどうかと思うし。それに……。トーリには、抱き締めてくれる女の子なんて、たくさんいそうだし。
悔しいような気持がイルタの心の端を噛んだ。任務のために我慢した初めてのキスが、思い出すと不快じゃない。思い出すと心の裏側が、きゅっ、とつままれたような感じがする。悔しい。
そして、落ち着いてふり返ってみると、あの時点でトーリはイルタの正体に気づいていたのだとわかる。キスは、イルタを欺こうとか試そうとかの手段だったと推測できるわけで……推測できてしまうと──トーリを最低だと思う気持ちに変わりはないし、自分もトーリを騙そうとしていたのだからお互い様ではあるのだけど──さみしい。
自分の気持ちと考えにイルタは困惑する。何だろう、この気持ち。これって……まるでトーリにひかれ始めているみたいじゃない?
イルタは深紅の瞳から視線を剥がた。自分が先に立って歩き出した。
そんなに速く歩いていないのに、心臓がどきどきしている。もしかして、トーリ、火竜の力で私の心臓の音が聞こえるほど耳もよかったら? ──なんて考えが浮かび、トーリから距離を取ろうとさらに足を速めた。
だが、トーリはあっさりと追いついて、再びイルタの前に出る。道を開くために。
「あわてるなよ。さっきざっと探った感じだとそんなに危険な森じゃなさそうだけど……」
イルタの頬に血が昇る。と、耳元で空気が小さく動いた。くすくすっ──誰かが忍び笑うように。
姉のエイレンが肩をすぼめ、可笑しそうに両手を口に当てている姿が、ふわっ、とイルタの心に浮かんだ。
お姉ちゃん。
イルタは立ち止る。ふり向く。
風の妖精──エイリの姿がはっきりと見えた。半透明の体と銀色の髪の女の子。エイレンに似ていて、呼吸が止まる。
こんなこと、この六年間で一度もなかった。イルタの言葉を誰かに伝え、誰かの言葉をイルタに伝える。それがイルタと風の妖精の間に交わされるすべてだった。さみしい夜にイルタが風の妖精に話しかけることはあったけれど、ひとりごとのようなものだった。風の妖精がイルタの言葉に答えたり自分から何かを表現したりするなんてなくて、それが契約ということなのだと理解していた。
心を澄ますだけでいいのに、というトーリの言葉を思い出した。エイレンの姿をした風の妖精は、イルタの視線を受けて嬉しそうに、にっこり、とした。自分の指先にいたずらっぽくキスして、木漏れ日の中でくるくると舞った。エイレンと同じ銀色の髪が美しくなびく。
「……イルタ?」
トーリが心配そうに呼びかけるまで、イルタはぼう然と立ち尽くしていた。
「ごめんなさい。何でもない」
あわてて言って、いつの間にか離れてしまったトーリとの距離を詰める。風の妖精が、ひらり、と飛んでイルタの肩に座った。
少しずつ驚きがおさまっていく。静かな温かい気持ちが心を浸していく。エイレンの思い出を対価に契約した風の妖精は、エイレンに、似ていた。……エイレンが失くした思い出はエイリの中に生きているのだ、と思うことにした。そうして、自分を見守ってくれる……。
イルタは心の中でエイリに話しかけてみる。エイリが笑ったのは、イルタが恋に落ちたと思って微笑ましかったんでしょう? 残念、違うわ。トーリにはただ……ええと、前ほど敵意は感じなくなっただけ。
頭上で鳥が囀った。
獣道を見つけてトーリと辿った。覆いかぶさる枝を払い、繁った葉を押し開く。
必要なこと以外、あまり話さなかった。トーリもイルタも。でも、ふたりで歩いていくのが嫌じゃなかった。
ふと、このままタイミに着かなければいいのに、なんて気持ちが浮かんでしまっていた。このまま、ずっと、トーリと……。
イルタの肩で、またエイリが笑った。──ほうら、やっぱり。
トーリが、ちら、とイルタの肩の辺りを見た。祝福者のトーリには風の妖精が見えているのでは、とイルタはやっと気づく。ひょっとして、エイリの笑いの意味もわかってしまった?
それは困る。急いで何かそれらしい理由を考えようとした。けれど、
「イルタが姉さんを守りたい気持ちはわかるけど」
トーリが先に口を開いた。最初は少し言いにくそうに。途中からはきっぱりと。
「そのためにイルタが犠牲になることはない、と思う。そんなふうに守られても、きっと姉さんは嬉しくない」
せっかく思いついた言い訳を忘れた。
「……でも、エイレンは私を忘れているのよ?」
「忘れていても」
と、トーリは浅く笑う。
「イルタみたいな女の子を犠牲にして自分を守ろうなんて、誰も望まないよ。……俺でも」
肩のエイリがイルタの頬の辺りに抱きついてきた。きゃー、という感じで。トーリの視線がさっとエイリを見て、そのまま前方へと逸らされる。
まるで照れたみたいに。
トーリに話しかけられなくなってしまった。トーリもそれきり黙って歩く。
枝葉を通して薄く差し込む陽光の角度が低くなり、
「今夜はここで泊まろう」
少し開けた場所でトーリが足を止めるまで。
傾いていく日差しの中で、火を熾した。小さな鍋に湯を沸かし、干した肉と野菜を入れる。
トーリがどこからかきのこを採ってきて、ナイフでざくざく切って鍋に放り込んだ。
見たことのないきのこだ。
「それ、食べられるの?」
「俺は食べるよ?」
「……ドラゴンは毒があっても平気かもしれないけど」
「だって、湖水の民に、食べられる、って教えてもらったから」
「……」
先にそれを言ってほしい。
イルタは残っていたパンを出し、ふたつに割ったひとつをトーリに差し出した。
「よかったら、どうぞ。固くなっているけど」
「それもスープに入れちゃえば」
「え?」
「貸して」
何だか、ままごとしているみたいだ。
出来上がった変なスープをふたりで分けた。意外とおいしい。
「……髪」
スープをひと掬い口に入れたあと、イルタは思い切ってそのことを口にした。
「火竜の契約者は金髪だ、って聞いていたの」
ああ、とトーリは前髪に軽く手をやる。艶やかなブラウンの。
「契約する前は、金髪だった。契約して、逃げて……気がついたら、髪も目も色が変わっていた」
やっぱり、とイルタは心の中で大きく頷く。そうじゃないかと気になっていたのだ。
イルタはスープを横に置いて身を乗り出した。
「私も。契約したあと、髪はそのままだったけれど、目の色が薄くなったの」
ほら、とトーリに瞳を近づけたら、トーリの目が大きく開いた。
それで、イルタは思い出す。これ、キスされたときの距離だ。こんなふうに、驚いたような深紅の瞳が目の前にあって。
イルタは速やかにトーリから離れた。
「……なんて言われても、前の色を知らないんだから、わからないわよね」
冷静で素っ気なく聞こえるように、つん、と目線を逸らしてつけたしてみたけれど。
胸はどきどきしている。トーリの唇の感触や肩を押さえた手の力強さが心によみがえって。
スープに集中することにした。思ったより、おいしいし。
トーリも、うん、とか何とか言ったあと、黙々とスープを口に運んでいる。
食事を終えたときには、日没を迎えていた。
太陽が地上に投げかける最後の光と小さな焚火の明かりの中で、ふたりは寝床をこしらえた。ちょうどいい高さの二本の枝にベルトを渡して、そのベルトにマントを掛け、三角屋根をつくって両裾を石で押さえる。マントの下には乾いた枯れ草を敷く。
イルタのマントは泉のそばに置いてきてしまったから、できあがったテントは一つだけだ。トーリがイルタにテントを使うように促した。イルタは驚かない。ちょっと親切な気持ちのある少年ならみんなそうするだろうし、トーリはそういう少年だ。
だけれども。
「交替で使いましょう? 火の番もあるし」
そう言ったら、笑われた。
「必要ないよ。火は消す。火がなくても、獣は人間より敏感だから、火竜の気配になんか近づかない。昨夜も大丈夫だったろ?」
……確かに。
納得すると同時に、昨夜のことが一枚の絵のように心に浮かんだ。──青い泉のそばで並んで話しているトーリと私。ほのかに光る精霊たちに囲まれて。淡い緑の木霊。透きとおった青色の泉の精。
訪れる夜をトーリと話して過ごしたくなった。夕暮れの草むらでエイレンと精霊を探した話なんかをトーリにして、彼と魔法術師の思い出が聞きたい。
でも、トーリは疲れているだろう。イルタを抱えて飛んで──重かったらしいし──森の中でもずっと先に立って道を開いてくれていたし。
「おやすみ」
というトーリの言葉に、イルタも同じ挨拶を返した。
「おやすみなさい」
少し横になって休んだら、トーリにテントを譲ろう。火の番は要らなくても、きっといろいろ考えて眠れないから──そう思っていたのだけれど、草のベッドに体を横たえた途端、イルタは深い眠りに落ちていた。
昨夜あまり眠っていないのと、疲れていたのと……そして、たぶん、安心していた。ひとりぼっちじゃなくて、トーリがそばにいることに。




