お人好しの追放王女が、猫かぶりの妹姫と入れ替わり、求めていた幸せを手に入れるまで
「お姉さま、わたしと、人生を交換していただけませんか?」
サリカは、妹である青蘭王国の王女アリサのその言葉を耳にしたとき、初めは自分の耳を疑った。次に、何かの冗談であろうと思った。最後には、彼女の正気をいぶかしんだ。それくらい突拍子もない内容であった。
しかし、どうやら耳は正常だし、アリサは真剣な顔をしていて、しかもまったく発狂しているようすはなかった。
ということは、つまりはまともに受け取るしかないらしい。いったいどういうこと?
「は? ちょっと待って。人生を交換する? どういう意味?」
「わかるでしょう」
まったくわからないから訊いているのだが、アリサは姉の頭の回転の遅さを哀れむようなまなざしに見つめて来た。
そういう目つきで見られるといくらか腹が立つ。自分の頭で考えてみようという気にもなる。
そして、少し考えてみると、出て来る答えはたったひとつであった。
「つまり、わたしたちの立場を入れ替えようっていうこと?」
「その通り」
アリサはいっしょうけんめいに勉強してどうにか正解にたどり着いた不出来な生徒を眺めるような生暖かい視線で姉を凝視する。
サリカは内心で少しいらっとしたが、それ以上に自分でたどり着いた答えに興味を惹かれていた。
人生を交換する? 立場を入れ替える? そんなことがありえるのか? 不可能ではないか?
しかし、そのとき、何げなく首を曲げ上を見ると、純白の高い天井にありえないほど豪奢なシャンデリアが燦然とかがやいていた。ここはアリサの住む王家の城の一室なのである。
そう、そもそもこの状況自体が信じられないのだ。もしかしたらそういうこともありえるのかもしれない。
サリカはいま十八歳になる旅の冒険者である。十四歳から四年のあいだ、凶悪な魔物を狩ったり、迷宮に眠る宝物を探し出したりして生きて来た。
その生活は決して楽なものではなかったが、かぎりなく自由で、そして生きているという実感を感じられ、充実していた。
そんな彼女が病身の母に呼び出されたのは、つい十日ほどまえのことだ。サリカを女らしくまともに育てようとして失敗した母とは喧嘩別れした関係だったが、死が迫っているとあっては放ってはおけず、四年ぶりに帰郷した。
不治の病でひどくやせ衰えた母を目にしたときは、胸が痛んだ。自分が苦しいほど彼女を愛していることを、初めて自覚した。そして、母からの愛を求めていたことも。
しかし、母はサリカに切ない感傷にひたる間すら与えず、とほうもないことをいい出したのである。
「サリカ、あなたはわたしのじつの娘ではありません」
呆然とするサリカに向かって、母は、母であったはずの人は病床に寝たまま説明を続けた。
彼女の話によれば、サリカと彼女は血がつながっていないのだった。そして、サリカの本名はサリカ・ル・デュオラム。この青蘭王朝の王女なのだという。
もちろん、軽々と信じられる話ではなかった。母の正気を疑うほうがよっぽど筋が通る。
だが、本気にしないサリカに向かって、母は箪笥を動かしてみるよう告げた。その通りにすると、そこから黄金の台座の上に燦然とかがやく碧い宝石が出て来たのである。
それは、青蘭王朝の王家のしるしのひとつである〈デォユラミア〉という名のサファイアなのだという話だった。
母はさらに続けた。
十八年前、彼女は王宮に仕えるメイドだった。王妃の信頼を受けるそば仕えであり、王妃とは立場を超えてほとんど親友とすらいえる間柄だった。
だから、彼女は王妃が子供を懐妊したとき喜んだ。これで王妃はさらに大きな幸せを手に入れることができるはずだと考えたのだ。
ところが、運命を司る女神は残酷である。ことは望んだ通りにはいかなかった。
王妃は難産で双子の娘を産んだのだが、産後の肥立ちが良くなく、そのまま身まかってしまったのであった。
母は自分の姉妹を亡くしたように嘆き悲しんだが、それ以上に苦しんだのは夫である国王であった。
王妃を溺愛していた国王は、この双子の娘こそが王妃の死の元凶であると考えた。
古来、この国では双子は呪われた存在として忌み嫌われていたということもある。もっとも、いまではそのような迷信を真に受ける者も少ないのだが、国王は、王妃の命を奪ったのは呪われた双子であると信じた。
そして、その片割れの存在を秘密裏に抹消し、王家から放逐することを決定したのである。
その役目を負わされた者こそが母であり、その追放王女こそがサリカなのだった。
母はいくらかの金と王家伝来の宝石を渡され、市井でサリカを育てるよう命じられた。決してサリカに真実を伝えてはならぬと厳命されて。
それで、彼女はその通りにした。
「お金や宝石に目が眩んだわけじゃない。愛する王妃さまの娘だったからよ」
母は黙って耳を傾けるサリカに向かって、いいわけするようでもなく告げた。その、涙にぬれたひとみを見ていると、言葉が真実であることが察せられた。
ことここに至っては、信じるしかなかった。母はほんとうのことを語っていて、自分はこの国の王女なのだと。
「ごめんなさい、サリカ。わたしにはあなたを自由に育てることはできなかった。あなたはこの国の王女で、いつ迎えが来るかもわからないのだから。だから、あなたが宮廷でも困らないよう、礼儀作法を叩き込もうとした。でも、自由に生きたいあなたにとっては辛いことだったわね」
そういって母がさし出したかぼそくやせ細った手を、サリカは握り締めた。母の顔がまわりの風景とともににじむ。サリカはそれで初めて自分が泣いていることに気づいた。
幼い頃からきびしい母だったが、そのような事情があったのか。それで初めて納得がいった。
「母さん」
サリカの白皙の頬をあたたかな涙が伝わり落ちる。そんな彼女を、母は病床から起き上がり、おずおずとよわよわしく、まるで壊れ物を扱うようにして抱き締めた。
「サリカ。わたしの娘」
十八年のあいだ、互いに理解しあえず、心を通じ合うことができなかった母娘は、このとき初めて真実の情愛を込めて抱き合ったのだった。
母が、いまなお紛れもなくサリカの母であるこの女性が亡くなったのは、それから三日のちのことである。
サリカは、母と穏やかに過ごしたこの三日間のことを、のちのちまで決して忘れることがなかった。
わずか三日ではあったが、そのあいだに彼女は、自分がこのきびしい母に、そしてもうひとりの生みの親からも、愛されていたことを初めてたしかめることができたのであった。
真実はときにひとを優しく癒やす。このときがまさにそうであった。
そして、サリカはその真実を胸に、ふたたび旅に出るつもりであった。いまさら王家に名乗り出る意思はなかった。富貴にも地位にも興味はない。このままひとりの冒険者として、旅人として一生を終えることが望みである。
そのはずだったのだが。
「姫さま!?」
母の葬儀を終え、まさに旅に出ようとしたそのとき、ひとりの黒衣の若者がやって来た。王立騎士団の騎士ダリルと名乗ったその若者は、母からの手紙を受けてここに来たのだといったが、ひと目でサリカが王家の人間であることを見抜いたようだった。
どうやら、双子の妹と自分は瓜ふたつの顔立ちをしているらしいのだ。
それからのことはサリカの意思の通りにはならなかった。サリカはダリルになかばひきずられるようにして、妹であるアリサ姫の居城に連れて来られ、そして彼女と感動の?対面を果たした。
昔から母以外の家族に飢えていたサリカは、ほとんどひと目で妹を愛した。自分にそっくりで、そして、ある意味では正反対ともいえる清楚で可憐な王女。愛さずにいられるはずがなかった。
それは、いまでも変わっていない。しかし――
「あのときは可愛い妹ができたと思ったんだけれどなあ」
「なんですの、お姉さま?」
アリサが姉のことをじろりとねめつける。
初め、妖精のように清楚で可憐だと思ったアリサは、たしかにその通りの少女ではあったのだが、ただそれだけではなかった。
彼女がふだん、幾重にも猫をかぶって可愛いお姫さまを演じていることは、すぐに発覚した。どうやら、サリカが市井で悩んでいるあいだ、彼女も王族としての自分の人生に不満を募らせていたらしい。
サリカが大陸各地の風物を見てまわったことを話すと、彼女は目を輝かせて聴き入った。わたしもそんなふうに自由に生きてみたい。そういって遠くを見つめた。
彼女にいわせれば、王宮暮らしは不自由で、欺瞞に満ちており、何ひとつ思う通りにならないのだという。そんなものかと思うところだが、おそらくそれはひとつの真実なのかもしれない。サリカは妹に同情しないでもなかった。
とはいえ。
「だからといって人生を入れ替えるとか、めちゃくちゃだろ」
サリカが逆らうと、アリサは席から立ちあがって例によって不出来な生徒を見るように姉を見下ろした。
「どうしてです? わたしとお姉さまはだれも区別できないくらいそっくりなんですよ。いまだって、ちょっと化粧をいじれば、わたしがお姉さまに化けるのは簡単です」
「それは、そうかもしれないけれど」
たしかにその通りなのだった。サリカとアリサは、自分でも驚くほどよく似ていた。
性格はまったく違うのだが、人柄は目に見えないので、服装以外の見た目はまるで区別がつかない。だから、もし入れ替わったとしたら、しばらくはだれにもわからないかもしれない。それは、そうだと思う。
もっとも、そもそもサリカには入れ替わる利益がなかった。彼女は、自分の人生に満足していたのである。
だが、アリサは姉の心根までも見抜くような目で見つめて来た。
「お菓子食べ放題ですよ」
そういわれて、初めて心が動いた。サリカは、この城で出される甘い菓子のたぐいがたいそう気に入っていたのだった。
富貴にも、地位にも、名望にも興味はないが、この種の菓子のためなら、いくらか気に入らない境遇でも受け入れてしまうかもしれない。
まさに森の妖精のような愛らしいグリーンのドレスに身を包んだアリサは、サリカに向かって頭を下げた。
「お願いです、お姉さま。ずっととはいいません。せめて一週間だけでも、入れ替わってくれませんか。わたしも、王族の一員として、市井の者たちの暮らしを見てみたいのです」
それだけが理由ではない気もしたが、そのようにして頭を下げられると、サリカにはもう断われなかった。それに、内心で、そっくりな妹と入れ替わるというこのいたずらごとに、関心が動いていたことも否定できない。
結局のところ、この姉と妹とは、やはりどこか似ているところがあるのかもしれなかった。
サリカはニヤリとほほ笑んだ。
「やってみるか」
その日の夕刻、ひとりの女剣士が顔をかくしたまま、この城からこそこそと出て行った。城の者たちはその女剣士をここに留めるような命令を受けていなかったから、止めることはできなかった。
ひとり城に残され、好きなだけおいしいお菓子をたべながら悠々自適の暮らしをしていたサリカが、言葉遣いがまったく違うことを騎士ダリルに見抜かれて、アリサと入れ替わっていることが発覚するのは、その翌日のことである。
めちゃくちゃ怒られた。
◆◇◆
「ほんとうに何を考えておられるのですか!」
ダリルの雷鳴のような一喝が頭上から降りそそぐ。
「アリサさまとにはたくさんご公務があるのですよ。それにもかかわらず、まわりをだまして立場を入れ替わるなんて。あなたがたはたしかに顔かたちはそっくりだが、生まれ育った環境はまったく異なる。性格も違う。もし発覚したらどうするつもりなのですか?」
「だから、謝っているじゃん、ごめんって」
サリカはがみがみと頭上からしかり飛ばしてくるダリルに向けて、ちいさく呟いた。
この秀麗な顔立ちの騎士は、王家に忠誠を誓っていて、いまはアリサに仕える身なのだというが、どうにも口うるさい乳母か何かのようなところがある。
「わたしに謝ってもらってもしかたありません。とにかく、こうなったら、アリサ姫が見つかるまで、あなたに身代わりを務めてもらいます。たしかに一週間の約束といったのですね。姫は親しい人間との約束を破るような人ではないから、そういったならほんとうに一週間で戻って来るでしょう。しかし、そのあいだ、どうごまかしたら良いものか。いいですか、姫。きょうはなるべくしゃべらず、おとなしくしているのですよ」
ダリルは深々とため息を吐きだした。
そう露骨に困られると、サリカは少しだけ申し訳ない気持ちになる。あのときはアリサにいいくるめられてしまったが、少々のいたずら心と、そしてお菓子のためにやって良いことではなかったかもしれない。とはいえ、お菓子は美味しいのだが。
「お菓子をたべることも禁止です」
「そんな!?」
その日は国王の誕生日を祝うパーティーだった。そのような宴があることを、アリサはまったく告げていなかったが、どうやら姉を利用して気の進まないパーティーに参加することからうまく逃げ出したらしい。
サリカはお菓子に目が眩んだ結果、まんまとだまされたわけだった。そう聞いても、あまり腹が立たないのは、やはりサリカも妹の可憐さに魅了されてしまっているのだろう。
とはいえ、今日一日はどうにかごまかさないとならないわけだが。
この日のために、サリカは二日間にわたって宮廷の儀礼や作法を叩き込まれていた。もちろん、わずか二日で頭に入る量ではないのだが、何もしないより良いということらしい。
サリカは逃げ出したい気がしたが、時はすでに遅かった。しかたなく、彼女にまったく向いていない礼儀やら、祈りの言葉やらをむりやりに暗記した。
頭から煙が出る思いだったが、ダリルはまったく容赦してくれなかった。自業自得というべきだったかもしれない。
そして、いま。
サリカは、王女アリサとして、ダリルとともに二頭立て馬車に乗り、王城へ向かっている。王城の広間がパーティーの会場なのだ。
頭を傾けるとせっかく詰め込んだ宮中作法がすべてこぼれ落ちそうだったので、サリカはなるべく揺れないように気をつけていた。アリサのやつ、戻って来たら憶えていろよ。
しばらくして、王城にたどり着いた。サリカはふだん着慣れないドレスを身にまとまっているため、何となく不安な気分だった。ふんわりとひろがった薄いピンクのスカートが不安定に思えてならない。
はたしてこれでダンスなど踊れるのだろうか? 踊るしかないのだけれど。それにしてもお菓子をたべちゃいけないなんて、あんまりだ。
ダリルとふたり、回廊を歩いていたサリカが、遠方に一群の少女たちを見つけたのは、その少しあとのことである。
むろん、単に着飾った娘たちならめずらしくもない。しかし、彼女たちは激しく口論しているようすだった。数人がひとりを囲み、そのひとりはつよく怯えている。しかも、手を出したり、足をひっかけて転ばせたりしているようだ。
いじめか。
よくあることではある。また、まだ些細ないたずらといって済む次元ではあるかもしれない。アリサの立場を考えれば、このまま見過ごすべきなのだろう。そう思った。
が。
「アリサさま、少々お待ちください」
「いや、ここはわたしが行く。ダリルは少し待っていてくれ」
サリカはきびしい目つきで少女たちを見つめるダリルにそういい残し、何げなく少女たちに近づいていった。気配を消した歩きかたは冒険者として身につけたものである。
「ねえ。ちょっと」
「何?」
少女たちは険しい顔をしてふり返り、サリカの顔を見ると、驚愕に顔をひきつらせた。
「アリサ王女殿下!」
そろって王族に対する礼を取る。怯え、ふるえている者もいるようだった。まずいところを見つかったと思っているのかもしれない。
彼女たちはおそらく貴族の娘である。王族に目をつけられたら、家族も含め、どのような目に合うかわからない。
しかし、サリカには彼女たちをあまり追いつめるつもりはなかった。
「いま、その子をはたいたり、足をひっかけたりしていたよね」
「い、いいえ、そんな」
「嘘をつかないでほしい。見ていたのだから」
一転しておどおどとする少女たちを直視しながら、サリカはちいさくため息を吐いた。
「わたしは、あなたたちにどのような事情があるのか知らないし、彼女とあなたたち、どちらが正しいのかはわからない。その意味では、あなたたちの問題を判定できる立場にあるわけじゃない。ただ、いまあなたたちがやっていることは、あきらかに加害だ。そのこと自体は良くないと思う。だから、わたしに免じて、この場は引いてくれないかな」
「は、はい」
「ご温情、ありがとうございます」
サリカは顔を青褪めさせている少女たちのひとりの手を取って、両手で握ると、彼女たちに優しくほほ笑みかけた。
「こちらこそありがとう。ずいぶん居丈高ないい方をして、ごめんね」
「い、いえ、そんな」
少女たちは、年上の王女から正面から笑いかけられて、ぼうっと頬を赤らめるようだった。そして彼女たちはさらに一礼して去っていった。
残されたのは、いじめられていた娘ひとり。おそらく十四、五歳と思しい、なかなかに可愛らしい子である。なまじ容姿が秀でているから嫉妬されていじめの対象に選ばれたのかもしれない。
「あの、王女殿下、お救いくださり、ありがとうございます」
「たいしたことをしたわけじゃないよ。いや、ないわ」
ようやく言葉遣いのことを思い出し、どうにか訂正する。あいての少女は不思議そうな表情だった。サリカはひとつ咳払いをした。
「わたしも人に偉そうに指図できる人間ではないけれど、どういう事情があるか知らないけれど、いいたいことがあったらいったほうが良いと思うわ。黙って虐められていたらどんどん状況は悪化しますから。いつでもわたしが救けてあげられるわけじゃないし」
「はい」
〈白薔薇姫〉の異名を取る清楚なアリサ姫にしては、いくらか言葉遣いが怪しかったが、どうやらそれ以上は怪しまれなかったらしい。少女はうるんだひとみで感謝の言葉を告げて去っていった。
「アリサさま」
ダリルが心配そうに駆け寄って来る。正体が発覚しないかと、ハラハラしていたのかもしれない。悪いことをした。サリカは彼にもやわらかくほほ笑みかけた。
「行きましょう」
そして、パーティーが始まった。
サリカがダリルにエスコートされてしずしずと、なるべくお淑やかに見えるように入っていくと、お美しい、さすが白薔薇姫、という囁きが巻き起こった。
じつは、サリカも見た目だけはよく化けたと思っているのである。見た目以外は、どうにもならないが。
さすが王家の開催する宴だけあって、非常に広いホールに、何百人という人が集まっていた。
天井は高く、そこには美しいガラスのシャンデリアがかがやいている。もし落ちて来たらどうするのだろうなどと考えてしまうのは、庶民だからだろうか。
サリカはたべることを禁じられているが、めずらしい食べ物もたくさん用意されているようだ。また、集まって来た人々はいずれも貴族なのであろう、華麗な正装に身を包み、美しく、あるいは立派に見えた。先ほどの少女たちも混じっているのがわかった。
サリカは、あらかじめダリルに指示されていた通り、ホールを通って、白髭の初老の男性のとなりに座った。
絢爛たる王冠を被り、片手には大きな碧い宝石が付いた王杓をかまえている。
あるいはそれもまた、サリカの母が隠し持っていたものと同じ種類のサファイアなのかもしれなかった。
国王は、特に娘を可愛がっているようには見えなかった。むしろ、その態度は冷ややかですらあっただろう。サリカにとっては好都合だが、アリサがこのパーティーに出席したがらず、サリカと入れ替わって逃げ出してしまった理由がわかるように思った。
彼は次々と話しかけてくる大貴族たちの言葉を王者らしく鷹揚に受け止めながら、すでにこのパーティーに退屈しているようにも見えた。
サリカはサリカで、さまざまな種類が並んだお菓子に手をのばしたくてたまらなかったのだが、ダリルの言葉を思い出して必死に我慢していた。
やがて、幾人もの楽師たちが楽器をかき鳴らし、円舞のときを告げた。
貴族たち、淑女たちがそれぞれひと組となり、くるくると華麗なダンスを踊りつづける。あたりまえといえばあまりにもあたりまえのことながら、サリカ、否、アリサ姫のところにも誘いが来た。
サリカは、これまた当然のことに、二日前までダンスを踊ったことなどない。体調不良でも理由に断っても良いところであっただろう。ダリルにはそうするようにいわれていた。
しかし、このとき、サリカは頬を赤らめて気恥ずかしそうに誘ってくるある青年の誘いを受けた。
「お誘いありがとうございます」
青年の照れくさそうな表情を見るに、言葉遣いはそこまで間違えていなかったらしい。
そうして、彼女が円舞を踊りはじめると、会場中に、ほうっと、感嘆の声がひろがった。サリカは、この曲を人前で踊るのは初めてだった。しかし、それにもかかわらず、彼女は完璧にダンスを身につけていた。
言葉や礼儀に関してはどうにもならなかったが、体を動かすことに関してはサリカは不世出の天性を持っていて、一度ですべての動作を憶えてしまったのである。
ホールのすべての人の視線がくるくると踊り、手を取り、むずかしいステップを平然と踏んでいく彼女に集中する。〈白薔薇姫〉はここまでダンスが得手だったのか、いままでその技量をかくしていたのか、とささやく者も少なくないようだった。
ダリルが心配そうに見つめているのも視界の端に入ったが、ここは許してもらうことにする。
そして、サリカはひとまず席に戻った。父王は、踊り終えた娘にひと言のねぎらいもなかった。親子の関係は、あまり良くないのかもしれないと思えた。
と。
そのときであった。
食べものや飲みものを片手に、ホールのなかをうろつきまわっている給仕のひとりが、サリカたちの目の前まで来たタイミングで、突然、彼女たちに向けて走って来た。
その手に、あたかも魔術のように白刃がひらめく。あまりに唐突なことで、護衛たちも反応が遅れた。
「国王死すべし!」
そのねらいは、国王であった。椅子に深く座した彼は、すぐには身動きが取れない。この凶行はどうしようもなく成功したかと見えた。会場の人々が、かん高く悲鳴をあげる。
刹那。
アリサは、椅子に座ったままの恰好で、また動きづらいスカートのまま、思い切り足をのばして暗殺者の短刀を蹴り上げた。
スカートの中身が会場中に見えてしまったはずだが、気にしている場合ではない。
短刀が空中をくるくるとまわって落ち、地上に突き刺さると同時に立ち上がる。次の瞬間、暗殺者は彼女に蹴り倒されていた。
椅子に座っていなければ、あるいは動きづらいドレスでなければ、もっと簡単に倒していただろう。
ハッと我に返ると、会場中が唖然と静まり返っているのに気づいた。人もあろうに王女その人に失態を救われてしまった護衛たちが、あわてて犯人を連れてゆく。
ただ茫然と自失していた会場中の人々が、やがて、まばらに拍手を向けはじめた。それは、しだいに、ゆっくりと、大きな拍手の渦に変わっていった。
「素晴らしい!」
「なんとみごとなおみ足!」
「それにしても、今日の姫はいつもと違いますな!」
貴族たちがそれぞれ首を傾げながら絶賛する。
サリカは、いまさらながらにしまったと思った。からだが即座に反応してしまったが、どこの世界にスカートをひろげて暗殺者を蹴り倒す〈白薔薇姫〉がいるというのだ?
あとでダリルに怒られるかもしれない。しかし、ここまで来てはひたすら笑ってごまかすよりほかなかった。
と、となりの椅子の国王が、彼女だけに聴こえるようささやいた。
「あとでわがへやに来るが良い」
ああ、やってしまったと思ったが、もう遅い。それに、他に選択肢はなかった。
サリカは天井をあおいで、どうすれば全部アリサに責任を押しつけられるか考えていた。
◆◇◆
「ねえ、怒っている? 怒っているよね?」
パーティーが終わったあと、ダリルとふたりきり、国王のへやへ向かって廊下を歩むサリカは、むすっと沈黙しつづけるダリルに向かって、びくびくと確認した。
ダリルは、深く吐息すると、ようやくサリカの顔をのぞき込んだ。
「いいえ、怒ってなどおりません。われら騎士がこの場にいながら、危うく国王陛下のお命を奪われるところだったのです。そこを、あなたさまに救われた。われらの命をもってしても許されざる失態です。わたしは、自分が許せません」
「そんなにまじめに考えることないと思うけれどなあ。助かったんだからいいじゃん」
「そういうわけにはいきません。わたしは王家に忠誠を尽くす身。それが、このような失敗を犯すとは、まさにあってはならないことです。しかも、それをよりにもよって王女殿下に救われるとは。ほんとうに何ということなのだ」
ダリルは大きなてのひらで端正な顔を覆って、深く落ち込むようだった。サリカとしても、ここはかける言葉がない。
やがて、ふたりは、王のためにしつらえられた一室のまえにたどり着いた。暗殺者があらわれた後ということで、警備は厳重だが、むろん、王女が入室することを咎めるはずもない。サリカは、ダリルをその場に置いて、内心で勇気をふり絞りながらへやに入った。
「失礼します、国王陛下」
サリカがそうっと入っていくと、国王は、その場で熊のようにのっそりと立ち上がった。サリカと比べ頭ひとつ以上背が高い彼には、独特の威厳と、そして威圧感があった。
「アリサか」
冷ややかな口調で告げる。
「はい」
「嘘をつけ。おまえはアリサではなかろう。からだを動かすことが苦手なアリサが、あのように巧みに人を蹴り倒せるはずもない。おまえは、だれだ?」
国王は、その、深遠な思慮を宿した双眸で、サリカを見下ろした。サリカは目を背けなかった。なぜか、視線をそらしてはいけないという気がしたのだ。
この人物が、自分を、妻を殺した呪われた双子の片割れとして忌み嫌っていることはわかっている。しかし、それでも、不思議と彼を憎もうという気にはなれなかった。
このとき、彼女の目には、彼は、何となくひどく孤独に、いっそ切なそうに映ったのである。
「わたしは、あなたの娘です、陛下」
そう告げると、王は、しずかにうなずいた。
「サリカか」
「はい」
父と娘は、じつに十八年ぶりに互いを認め合った。娘の目に、父は、重すぎる責任を背負いつづけて、そのために疲れ果てているように見える。
父の目に、娘はどう見えていたことだろう? それはわからない。ただ、サリカはこのとき、この人のことを好きだ、とそう思ったのだった。あるいはそれは、あまりにも愚かで、人の好すぎる感想であったのかもしれなかったが。
王は、サリカのまっすぐなまなざしに耐えかねたように目を逸らした。
「サリカ、わたしを怨んでいるか? 怨んでいるであろうな」
そのまましばらく白い絨毯のうえを歩きまわったあと、椅子に座る。
「怨んで当然だ。わたしは、本来であれば王女として何不自由なく暮らすことができたおまえの人生を奪ってしまった。あのときのわたしは、どうかしていた。おまえがすべての元凶であるように思えていた。いや、だれかを憎まなければ気が済まなかったのだ。赦してくれとはいえぬ。好きなだけわたしをののしるがいい、サリカ」
サリカは、しずかに首を振った。
「いいえ、わたしは陛下のことを怨んでなどいません。むしろ、わたしには、陛下にお話ししたいことがたくさんあります。こう見えて、わたしはいろいろなことを知っているんですよ。随分と長いあいだ、たくさんのところを旅して来ました。そう、カシスの落日も見ましたし、パナヘイムの群塔にも登りました。わたしは、そういう自分の人生に満足しています。そして、その人生をくださったのは、陛下、あなたです」
「すまない」
王は、否、サリカのたったひとりの父親は、堅牢な城砦がひとときに崩れ去るように、泣き崩れた。それで、サリカは、この人物がいままでどんなに自分の行為を悔やんで来たのか、そしてそれでいてそのことを取り返すこともできずにいたのか、その真実を知った。
「ほんとうにすまない。わたしをののしり、殴ってくれ。おまえにはそうする権利がある」
「権利を放棄します」
サリカは、そっと、この孤独な父に歩み寄ると、母親のように優しく彼を抱きしめた。男はおずおずと不安そうに抱き返して来た。やがて、その腕に力がこもる。
「娘よ」
「お父さま」
父と娘は、それから長い長いあいだ、互いに、かつて失い、そうしてついにようやく取り戻したものの重さを腕のなかにたしかめあっていたのだった。
◆◇◆
さらにしばらくして、へやを出ると、そこにダリルが心配そうに待っていた。
「いかがでしたか」
「大丈夫だよ、ダリル。陛下はわたしのことを赦してくださった」
サリカがほほ笑みかけると、ダリルは露骨にほっとしたようだった。
「そうですか」
「くわしいことはあとで話す。さあ、とにかくまずは帰ろう」
そうして、ふたりが廊下を歩いていると、ひとりの少女が、いかにも必死なようすで歩寄って来た。
「きみは――」
先ほど、サリカが救った貴族の娘であった。可愛らしい顔をまっかにして、どうにか言葉を紡ぎだそうとする。
「あ、あの」
「うん、何?」
サリカは優しく問いかけた。思わず可愛い子栗鼠か何かを連想してしまう。
「わたし、いままで自分がいいたいことをいえずにいました。でも、殿下が先ほど、いいたいことはいったほうが良いと仰ってくださったので、いうことにします。殿下、パーティーのとき、悪漢を蹴り倒してしまったところ、とても素敵でした! わたし、殿下とこの国のことを、とても誇りに思います!」
それだけいって、彼女は、そのまま走り去ってしまった。あとに残されたサリカは、ダリルと顔を見合わせ合った。そして、思わず吹き出してしまう。
どうやら、自分が反射的にやったことは、人に褒めてもらえることだったらしい。初めてそう思え、何となく愉快であった。
◆◇◆
それから瞬く間に数日が経つ。そうして、アリサが帰って来るはずのその日が訪れた。
サリカはだらしなく寝椅子に寝そべり、好き放題にお菓子をたべながら、先日、国王を自分たちで守り切れなかったことで、まだ落ち込んでいるようすのダリルと向き合っていた。
ここ数日、彼はいっそ自殺でもしてしまうのではないかと見えるほど、落胆していたのだ。
「ダリル、いいかげん落ち込むのやめようよ。見ているほうが辛くなるよ」
「申し訳ありません」
「いや、あなたを責めているわけじゃなくてさ。国王陛下もわたしのことを認めてくれたんだから結果は良かったじゃない。もう気にする必要はないんじゃないかってこと」
「そういうわけには――」
「うーん」
サリカは寝椅子の上に起き上がって、スカートのままあぐらをかいた。ダリルが何かいいたそうだったが、ここは無視させてもらう。
「ねえ、どうしてそんなに熱心に王家に忠誠を尽くしているの?」
そう訊ねてみると、ダリルは少しいいづらそうに視線を逸らした。やがて、ひとつひとつ言葉を選ぶようにして、とつとつと語りはじめる。
「わたしは本来、騎士になれるような身分のものではないのです。そこをアリサさまに拾われて、ある家の養子に入るかたちで騎士になれました。いまのわたしがあるのは、アリサさまのおかげです。それなのに、わたしは、頭が固くて、融通が利きません。そのせいで、アリサさまからは石頭といわれています。それでも、少しは役に立つと思っていましたが、今回の件ですっかり自信を失くしてしまいました。わたしは役立たずだ」
サリカはちょっと首を傾げた。
「何いっているの。石頭、ぜんぜん悪くないじゃん。それってマジメで一生懸命だってことだろ。すごい長所だと思うよ。そもそもダリルみたいな人がいなかったら、世の中は回らないはずだよ。きちんと世界を動かしているのは、ダリルみたいなまっとうな人間なんだ。それに、アリサだって、ほんとうはあなたに感謝しているはずだよ。双子の姉のわたしがいうのだから間違いない」
「そうでしょうか」
ダリルは自信なさげにうつむいた。
「そうだよ、だって、ダリルはすごくいい男だものんざん世話になったわたしが保証する! もっと自信をもちなよ」
「そ、その、ありがとうございます」
黒衣の若者はいかにも照れくさそうにそっぽを向いた。サリカはニヤニヤとその顔を見つめる。
と、そのとき、へやの扉がひらいて、ひとりのうす汚れた格好の男装の少女が室内に入って来た。もちろん、この城にそのような格好の娘はひとりしかありえない。
「アリサ!」
「アリサ殿下!」
サリカとダリルの声が重なる。
アリサは平然とその声を無視して、あたりまえのようにサリカのとなりに座った。
「ああ、楽しかった! 自由って、ほんとうに素晴らしいものですね。それにしても、ダリル、あなた、頬が赤くなっておりますわよ。お姉さまに恋をしてしまいましたの?」
「殿下!」
ダリルが一喝するが、アリサは気にも留めないようすだ。
サリカは、この妹姫が帰って来たらいってやりたいことがたくさんあったはずだったのだが、それよりもまえに何だか可笑しくなってきた。思わず笑いはじめてしまう。
そして、いったん笑うと、すぐに止まらなくなってしまった。自分でも何が可笑しいのかわからないままに、腹を抱えて笑いつづける。
このとき、彼女はたしかに幸せであった。
自由な日常とひき換えにかぎりなく孤独な冒険者生活のなかで、じつは切実に求めていたもの、そして、つい先日、永遠に喪ってしまったはずのもの、家族が、ここにいるのだから。
◆◇◆
このあとも、サリカとアリサ、この双子の王女は、たびたび入れ替わり、そのたびにまわりを巻き込んで、あらたな騒動をひき起こすこととなる。
そしてまた、やがてサリカは、その素直な、あるいは素直すぎるかもしれない性格で宮廷を混乱に陥れながら、まわりの人々を魅了し、「青蘭の聖王女」として人望を獲得し、さらに大きく成長していくのである。
そして、公式に身分を回復した彼女が女王として戴冠し、この国の歴史に中興の祖としてその名を残すのは、この十数年後のことになる。
しかし、それは、またのちに語るべき物語だ。いまは、古いお伽噺のように、ここでハッピーエンドとしておこう。
最後にひとつ。
歴史書には、彼女の夫である王婿殿下の名前も記されている。その名はダリルといい、生涯、妻を深く愛し厚く忠誠を尽くしたと、歴史は、いささか感傷的に伝えているのであった。
完
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