誕生日
あとひと月ほどで、娘の一歳の誕生日という、ある晩のことだった。夕食の後、妻はにこやかに誕生日をどう盛り上げようかと話し始めた。淹れたてのコーヒーが香しい。パーティの企画はほとんど妻が主導になるだろうから、僕としては仕事を入れないように気を付けようと言った。娘の誕生日は平日。そこで僕は急に思い直して、それより前の日曜日にしないかと提案した。もちろん、その日は早く帰ってくるつもりだ。けれど何が起こるかわからない、それならば休みの日にした方がそろってできる確実性が高い。妻は渋った。
「それは分かるけど、初めての誕生日会よ。その日にしたいのよねえ」
コーヒーカップを両手で転がして、僕を上目づかいで見た。僕にはやましい点は何もないが、それは柔らかく睨んでいるようにも見えた。日にちは誕生日その日か、その前の日曜日なんかで選択を後からすることにして、何をするかを先に決めないかと、何とか妻をなだめ、話を進めるようにできた。少し冷めたコーヒーを飲んだ。少し苦かった。
――あれ?
「今度の誕生日で三十九だよね?」
僕は不自然に上がった心拍で妻に聞いた。
「なに? 夫婦だからってそんなこと改めて聞く?」
そうは言うものの、妻には僕に対する非難はまるでなかった。単に僕の意図がはかりかねているようだった。
「いや、母が僕を生んだのも38歳の時だなって、いまさら思いついてさ」
「早いね、もう七回忌だって」
妻は遠い目をした。3か月前に実家で七回忌をしたのだ。娘も連れて行った。父は目を細めながら、「婆さんに見せてやりたかったなあ」とつぶやいた。
取り立てて嫁姑の関係は悪くはなかった。妻から母を疎ましく思う言葉はなかったし、母から妻をいびることもなかった。
「もう一杯飲む?」
空のコーヒーカップを持って妻はキッチンに戻った。僕はじっと妻を見続けた。
「なによ、私の顔に何かついてる?」
僕の視線にいちゃもんの一つでもつけたいのだろう。ダイニングチェアーに座って、僕と自分の前にカップを置いた。
「母さんは、そんなに肌艶が良かったかなって」
「なにそれ、マザコンなの、いまさら」
「そういうわけじゃなくて、僕を生んだ時の38歳の母を僕は知らなくて、僕が思い出す最初の母は、確か幼稚園の頃だな」
母より妻は身長が高く、鼻が通っている。妻は黒髪のロングで、母は少しカールする短めの髪だった。化粧品の匂いも、シャンプーやリンス後の髪の艶も違う。妻は年に何回かエステに行くが、母が行っていたかは知れない。
「そんなこと言うなら、お義父さんはあなたより若くて親になっているじゃない」
その通りだった。親の年齢なんて子供にとっては数字でしかなかった。現実に自分がその年齢になってみると、それはつまりそこまで生きてきたという意味が突如として実感される。それを時間にすれば桁の多さに、途中で放り出したくなるほどの数字の波を泳いできたのだ。
「生きてきて、生きていてくれてありがとう」
そんな言葉が飾り気なく出た。妻はきょとんとしてしばらく僕を見つめていた。それからにっこり笑って、
「誕生日会どうする?」
とだけ言いだした。僕は娘の誕生日の日に有給休暇を取ることにした。




