02 高級の香りと温泉。
何故、こんな私の運命の相手が、この美しいドラゴンなのだろう。
わからない。あまりにも不釣り合い。
けれど、胸の高鳴りは止まない。
どくん、どくん、どくん。
どうしたら、この鼓動は鳴り止むのだろう。
「煩い!!」
ドラゴンから青年の姿に変えた彼が、そう声を上げたから、びっくりして高鳴りが止まる。
「全く……人の子が生み出した魔法は厄介だな。鼓動が頭に響く。煩くてかなわん」
鎧のように鱗を纏った大きな尻尾が、バシバシと床を叩いた。
怒っている。私は怒らせてしまった。
「も、申し訳ございません……」
「……」
私は畳の上に座って、深く頭を下げる。
「みすぼらしい格好だ」
口を開くと、私の格好を指摘した。
「あの屋敷の使用人か?」
「私は……」
なんて答えれば、正解だろう。
使用人? それとも住人?
私は一体、どっちだったのだろうか。
あまりにも返答が遅かったからなのか、ドラゴンだった彼は呆れたため息を溢す。
「何故歌った? 数年前にも歌っていた声が夜に頭の中で響いていたが、今日ははっきり聞こえて、辿り着くのは簡単だった」
驚いた私は、顔を上げる。
口にせずに歌っていた『愛の歌』までもが、彼に届いていたのだろうか。
「そう言えば、発動条件があったな。年齢という条件が満たされて、届いたというわけか」
不機嫌そうな表情をした彼は、腕を組んで私を見下ろす。
「『愛の歌』など、おかしなものだな。会ってもいない者同士に、愛などあるはずないのに」
愛なんて、いや、運命なんて信じていない口振りを聞き、私は自然と俯く。
「で? そなたの名前はなんだ?」
ハッとして顔を再び上げる。
名乗らずに、話を続けてしまっていた。
「美愛と申します。岡芽丘家の……娘です」
自信なく、私はそう俯いて答える。
あの家の娘だとは、堂々と言えない。
「なんという字だ? ミエとは」
「……美しい、愛と書きまして、美愛と……亡き母が名付けてくれたものです」
「そうか」
その相槌には、なんの感情もなかったと思う。
「俺はクガ。くれないの紅と牙で紅牙だ」
「紅牙、様」
紅牙。よく似合う名前だと思った。
私なんて、どこに美しい愛があるのか、わからない人生だ。
「怖いか?」
ずっと足元を見つめていた視線を上げて、赤みの強い着物を纏った紅牙様を見上げる。
「運命の相手がドラゴンでさぞ落胆しただろう?」
長い前髪の隙間から見えた紅牙様は、私を金色の瞳で冷たく見下ろす。
「私は……誰かが私を落胆されても、私が誰かに落胆する資格のある人間ではございません」
「……」
「ドラゴン様を見るのは初めてだったので、驚き恐怖も抱きました……勝手に食べられてしまうと思ったからです。ですが、こうして紅牙様が人の姿で話してくれたおかげで、恐怖はなくなりました」
私はもう一度、頭を下げた。
「耳障りな歌を聴かせてしまい、申し訳ございません……」
「……面倒だ」
「申し訳ございません……」
「いい加減、顔を上げろ!」
また怒らせてしまい、申し訳ない気持ちで頭を下げたかったが、顔を上げるように言われたから、慌てて上げる。
その顔を鷲掴みにするように、大きく黒い爪の生えた手が私の顎を掴み上げた。
「何故、俺とそなたが運命とやらの歌で結びついたのか……さっぱりわからん」
「……私も、わかりません。どうして偉大なドラゴン様に歌が届いたのか……」
ドラゴンは、高貴な存在だ。
中でも炎の支配者だという竜王と呼ばれるドラゴンは、神様のような存在で崇められている。
私のような人間が、ドラゴンの運命の相手なんて、おこがましい。
金色の瞳は、射貫くように強い眼差しで、私の瞳を覗き込む。
猫のような瞳だ。
あまりにも真っ直ぐに見られたから、戸惑う。
こんなにも他人に見られたのは、初めてだ。
「何故、歌った?」
もう一度、紅牙様は問う。
「妹に……異母妹に、歌えと言われまして……」
「妹に言われて、運命の相手を引き寄せる歌を歌っただと?」
不愉快そうに歪むお顔。
「面白半分で、呼んだ。そういうことか?」
「違いますっ……っ」
まだ掴まれたままの私は目を背ける。
妹に、逆らえなかったとは言えない。
誰にも、自分の境遇を打ち明けたことのない私には、無理だった。
口にしたら、私の中の何かが壊れてしまいそうで、怖い。
「数年前に歌っていたのは何故だ? それも妹に言われたからなのか?」
「違います……あれは……あれ、は……」
祈りだった。
そう言えない私の視界が歪む。
涙が込み上がってしまったのだ。
泣いてしまいそうになった。
「……もういい」
パッと、私の顔から、手は放される。
「おい。藍太丸はいるか?」
襖の向こうに、紅牙様は声を投げかけた。
すると、スッと襖が開かれる。
そこにいたのは、猫。
猫が、座っていた。
人間のように後ろ足を畳んで、座ったその猫は藍色の毛に包まれていて、そして甚平を着ている。
「にゃんでしょう? 竜王様」
「その呼び名はやめろと言っただろう。王などではない」
「失礼しました、紅牙様。ご用件はにゃんでしょうか?」
猫は喋った。人間のように、口を動かして、声を発する。
確か猫又という種族だった気がするけれど、それよりも最初に呼んだ名前に意識が一点集中した。
竜王様。猫は、そう呼んだ。
炎の支配者であるドラゴン、神様のような存在。
私は危うく卒倒してしまいそうになった。
よろけたけれど、畳に手をついて耐える。座っていてよかった。
「この人間に着替えを手配しろ」
「はい、かしこまりました。さっさ、行きましょう。人間様」
猫はすくっと立ち上がると、トットットッと軽い足取りで私の元まで来る。
人間のように二本足で歩いてきた藍太丸という猫は、私の手を取った。
私の知る猫の手だ。しっとりした肉球があるふわふわな毛のある手。
「し、失礼します……」
私は低姿勢のまま、部屋をあとにさせてもらい、猫に引っ張られるがままに長い廊下を進んだ。
長い長い階段を下りていく。
「あ。藍太丸と申します」
「私は、美愛と申します」
「先ずはお風呂に入りましょう、美愛様」
「えっと、は、はい……」
連れていかれた先は、住んでいた屋敷と比べ物にならないくらい広々とした脱衣所。
扉の向こうには、どんなに大きなお風呂があるのだろう。
「少々お待ちくださいませ!」
明るく言う藍太丸さんは、私をそこに残してどこかへ行ってしまう。
立ち尽くした私は、困り果てた。
神様にも等しい存在である竜王様が、紅牙様。
本当に、私では釣り合わない。
何かの間違いに決まっている。
私の運命の相手が、竜王様なんて。
また卒倒してしまいそうになり、私は壁に手をついて身体を支える。
すぐそばの戸が開かれたと思えば、なだれ込んできた。
「わぁ! 本当に人間の女の子がいるわ!」
「女の子女の子!」
「ちっちゃーい!」
花の香りが飽和する。女性達が、私を取り囲む。
着物からして、この城の使用人だろうか。
揃いの花模様が描かれた桃色の着物と白い前掛けをつけている。
「なんだか痩せているわ」
「お肌もカサカサ」
「髪も傷んでる」
あちらこちらを触りながら、女性達は指摘した。
「では、花の三姉妹さんにお任せしました。ごゆるりと」
藍太丸さんは、戸を閉めてしまう。
「わたしは撫子」
「あたしは菊よ」
「わたしは牡丹」
「わ、私は、美愛と、もうし、わっ!」
名乗った女性達に着物を脱がされた。
下着姿になった私に、手を伸ばす。
遠慮というものがなく、私は丸裸にされた。
そのまま、扉を開いた先の入浴場に連れていかれる。
灰色の石の床。ひゅんっと風が吹いてきたかと思えば、外にまで石の床が続いていた。
明るい木製の屋根が取り付けられたそこには、大きな石で囲った水が張ってある。
いや、湯気が立っているから、きっと温泉というものだろう。
なんだか、まろやかな緑の香りがする。
見惚れている間に、温かな水をそっとかけられた。
じんと、肌が刺激される。
「さぁさぁ、洗いましょう」
「あの、自分で」
「お任せを」
私を椅子に座らせると、次は頭の上からお湯をかけてきた。
「とても長い髪なのに、傷んでいる……艶を与えないとね!」
牡丹と名乗った女性が、どこかへ行ってしまう。
撫子さんと菊さんの二人で、私の長い髪をすすぎ洗う。
とても丁寧に、慎重に、洗われている。
すごく戸惑ってしまう。
こんなことをされるのは、初めてだ。
誰かが、洗ってくれるなんて。
こんなにも優しい手つきで触れてくれるなんて。
また視界が込み上がった涙で歪む。
「あら、痛かったですか?」
顔を覗かれて、気付かれた。
「いえ、違います……大丈夫です」
「そうですか。痛かったら言ってくださいね」
撫子さんは、そう声をかけると、髪のすすぎ洗いを続ける。
「ただ今戻りましたー」
牡丹さんが戻ってきた。
「さぁさぁ、塗りますよー」
なんだろう。
大人しくされるがままにしていれば、髪の毛に何か塗られた。
それは、とても甘い香りを放つものだ。
「はっ、蜂蜜ですか!?」
「そうです、それと植物油を混ぜ込んだものです」
蜂蜜は、高級品。
ごくたまに、お屋敷で扱われていた。
その時に、匂いを嗅いだことがあったのだ。
それを私の髪に塗るなんて!
「髪を生き返らせるのは、これが一番!」
「だめです! 私なんかにっ」
「じっとなさってください。零れたら、もったいないですよ」
「っ」
私は、ぴきっと固まった。
黙って塗られるしかない。
本当にいいのだろうか。
竜王様、いえ、紅牙様は、そんな指示はしていないのに。
「塗り終わりました」
「さぁさぁ、温泉に浸かってください」
髪をまとめ上げると、温泉まで背中を押された。
髪から、蜂蜜の香りがする。高級品の香り。
落ち着かない。
そう思っていたけれど、熱い温泉に浸かっていれば、そんな緊張が和らいだ。
お風呂なんて、まともに浸かれていなかった。
こうして、入浴出来るなんて、生まれて初めて。
その間も、撫子さん達に、腕や肩や首を揉まれる。
顔も、こねくり回された。
うとうとしてしまう。
とても心地がいい。
気持ちがいい。
すぅーっと、意識が遠退いた。